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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ギロチン台へボクの親指ぐらいなら  くんじろう

 

新島夫妻が暮らした家(寺町丸太町上ル) 新島旧邸

(二人の住居は女紅場や同志社の仮校舎のすぐ近くにある)

「襄の朝は早い」

6時前に起床、6時半には洋風の朝食を済ませ、

7時前には家を出て、徒歩で同志社へ向かった。

郵便夫が持つようなカバンに本をたくさん詰めて通っていたという。

昼は大抵家に戻り、食事をした。

同志社の食堂で食事をしたり、所用で外食をするときは、

前もって人を使いに出し、八重への伝言は欠かさなかった。

おくれ毛は日付変更線までなびく  森田律子



「ところどころに襄の優しさ・思いやり」

八重は京都で誰よりも初めて帽子を被り、靴を履いた。

明治という時代、これが世間に受け入れられるのは、難しかったようだ。

すべての人格は尊重すべし!

といっても、当時は男尊女卑。

世間は「夫を尻に敷く悪妻」と評価。

また八重は、薩長の生徒に厳しいとか、

武士の誇りを掲げる八重に、襄が諭したこともあった。

「ハイヒール事件」

ある日、八重がハイヒールを靴箱から出してみると、

ヒールの部分がなくなっている。

襄の仕業だった。 

八重が襄に尋ねてみると、体の大きい八重のハイヒール姿は、

襄にはすごく危なっかしく見えたようで、

「転ぶと危ないから私が切りました」 と返事が返って来た。

(襄の変な優しさが垣間見えるエピソード)

カチュウシャをしたら双子のできあがり  酒井かがり

「襄の家・八重の家具」

 

          応接間(約18畳)

当時のままで机やイスやソファーが置かれている。

右は襄が寝転び心身を休めたというソファー。
 
また、ここは、生徒が集まって勉学に励む場であったり
 
雑談のロビーなどとして多目的に使われていた。

八重の桜のドラマでも正確に再現している。

 

     食堂と棚            鍵のかかった棚

襄が無類の甘いもの好きだった。

同志社の生徒たちのために、八重が買い置きしておいた菓子まで、

襄はつまみ食いしてしまうことが、しばしばあり、

八重は襄のことを考え食べられないようにと、鍵をつけた。

とは言え、八重はケーキ作りが好きで、

よくワッフルやクッキーなどを作り、生徒たちに食べさせていたという。

八重のふくよかな姿は、この菓子作りのせいだったのかも

焼き方三年煮方で五年食い方終生  山口ろっぱ

 

   書斎と本棚             東南角の書斎

襄が使っていた使った机と本棚。

襄はよく書きものをし、よく本を読んだ、8割以上の本が洋書である。

 

八重使用していたオルガン

八重は京都に出てきて色々なものを吸収した。

オルガンもその一つ。

今でも昔のままの音が出る優れもの。

 

               寝 室


洋式が始めての八重のために、八重の方のベッドは低くしつらえてある。

ここにも襄の思いやりが垣間見られる。

 

  セントラルヒーティング

この時代、セントラルヒーティングも取り入れた進歩的な家だった。

1階に取り付けられ、ここからダクトを通って温風が二階へも送られた。

揉め事終わりはハグで納めます  竹中ゆみ



       台 所

キッチンも八重の背の高さに合わせて使いやすく工夫してある。

かまどの前の格子窓から梅が見えるように、と襄の思いやりも見える。

 

            洋式トイレ

トイレも洋式に座ることもできるし、上がってからしゃがむこともできる。

京都最初の洋式といわれている。

 

            風 呂

シャワーはなく、風呂の洋風化、近代化はまだというところか。

が、二人は愛をこの湯舟に温めていたのだ。

順風満帆夢を見ているのだろうか  柏原夕胡

 

 日常一番使われた食卓

和洋折衷の八重に同志社の学生たちは、

「鵺のような女性!」と形容し、

西洋と和風が入り混じった八重を批判、反発した。

しかし八重はこんなことには全く動じなかった。

肝っ玉がすわった女性だった。

はこうした八重に刺激を受けていた。

思いもよらぬ発想で襄を勇気つけたり、励ましたりする。

襄はアメリカの友人に、周りもはばからず

「彼女は見た目は美しくないが、生き方がハンサム」

「自分の理想の女性」と語っている。

目の奥に消えないものが咲いている  ふじのひろし



一方で、襄は八重との結婚生活での本音も少し零している。

「なぜ神がこんなに反対の性格の人間を夫婦にしたか、

と考えさせられるほど、

性格においても相反している事を後になって発見して、悩むことがある。

しかし、これも神々が各々の性格を磨かしむるためになし給う、

御手の技であるから、ますます相忍ばなければならない」

襄が病床に伏しているとき、看護婦に洩らした本音が風と伝わる。

ほぐすのに微量の毒がいるのです  美馬りゅうこ



明治15年、八重は万感の思いで故郷の土を踏んだが、

この頃から、襄の体に異変が起きていた。

襄は休むことを知らず学校建立のための全国行脚をし、

明治17年、20ヶ月におよぶ外遊へ出発。

翌18年帰国したが、長かったアメリカ生活の疲れも顕著に、

体力の低下は見て取れた。

そんな中、襄が心臓発作で倒れる。

淋しさの具象抽象描き分ける  森吉留里子

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