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川柳的逍遥 人の世の一家言
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乱心は不調空涙は殉死  山口ろっぱ



「久坂玄瑞」
                      りょうてき
久坂玄瑞は天保11年(1840)久坂良迪、富子の三男として誕生。

幼少の頃、高杉晋作とともに、

萩城下の私塾・吉松塾で四書の素読を受けた。

ついで藩の医学所・好生館に入学したが、

14歳の夏に母を亡くし、翌年には、

優れた医者であり蘭学者であった兄・玄機が20歳の若さで病没。

そして、その僅か数日後に父も亡くし、

15歳の春に秀三郎は家族全てを失い天涯孤独となった。

こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、

者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。

顎の線削りなおして風に立つ  笠嶋恵美子


    月性像

16歳の玄瑞は、背は高く、眉目秀麗、青年才子として、

早くも藩の内外に知れ渡り、その年に九州に遊学する。

熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、

吉田松陰に従学することを強く勧められた。

玄瑞はかねてから、亡き兄の旧友である月性上人から、

松陰に従学することを勧められており、

この遊学によって、松陰に対する敬慕の気持ちが深まった。

偏頭痛雨の匂いもする序章  加藤美津子

久坂は萩に帰るとすぐ松陰に手紙を書いた。

が、この手紙のやりとりはかなりの激論となった。

玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、

「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし」

という、強硬な外国排撃論であり、

その論に対して敬慕する松陰の賛を得ようというものであった。

しかし、この手紙に対して松陰は、その返書で、
ふはん
「議論浮泛、思慮粗浅、至誠より発する言説ではない」

(中身がなく、考え方は浅はかで、真心から言っている言葉ではない)

と一刀両断。

かぞえ損なう蟹の吹く泡の数  井上一筒

「私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。

   アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。
   おうせき
   往昔の死例をとって、

   こんにちの活変を制しようなど、笑止の沙汰だ。

   思慮粗浅とはこのことをいうのだ。

   つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるがよい」

と、さらに痛烈な言葉を書き連ね、玄瑞の論を酷評した。

松陰の痛烈な批判の裏には、

玄瑞を鍛えてやろうという下心があった。
             しょうかい
玄瑞を紹介した土屋蕭海への手紙に、松陰は、

「久坂生、士気凡ならず。
                             べんばく
   何とぞ大成致せかしと存じ、力を極めて弁駁致し候間、

   是にて一激して大挙攻寇の勢あらば、僕が本望これに過ぎず候。

   もし面従腹背の人ならば、

   僕が弁駁は人を知らずして言を失うというべし」

と、激しくやりかえしてくることを期待していたのである。

※ 面従腹背=うわべだけ上の者に従うふりをしているが、
                      内心では従わないこと。


生きるのに飽きたら死んでやるつもり  大西將文



松陰の期待通り、玄瑞は大いに憤激し猛然と反駁した。

玄瑞は松陰に、

「誠(玄瑞)の大計を論ずるは、憤激の余り出づるのであって、

   強く責めるにはあたるまい。

   今、義卿(松陰)の罵言、妄言、不遜はなんと甚だしいことぞ。

   誠は義卿にしてこの言あるを怪しむ。

   もし果たしてこの如き言をなす男だとすれば、

   先の日に宮部生が賞賛したのも、

   が義卿を豪傑だと思ったのも、各々誤ったようである。

   紙に対して、憤激の余り覚えず撃案した。」

と書いた。

不機嫌を眉の角度で知りました  合田瑠美子

松陰はこの反論に対し。約1カ月の間をおいて、筆を執り、

「あなたは僕が貴方に望みを託し、

   あなたの成長を願っているのを察しないで、

   相変わらず空論を続けている。

   そのことを僕は大いに惜しんでいる。
                                                                                     とうとう
   なるほど、あなたの言うところは滔々としているが、

   一としてあなたの実践からでたものではないし、

   すべて空言である。

   一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめて、

   歴史の方向を見定めて、真に、日本を未来にむかって,

   開発できるように、徹底的に考えぬいてほしい」

と返書した。

待ってたと絶対言わぬ背中だよ  奥山晴生    

しかし今度も玄瑞は、自分の理論が誤っていると認めなかった。

説得できないと悟った松陰は、

今度は打って変わって玄瑞の理論を認めたうえで、

「あなたが外国の使いを斬ろうとするのには名分がある。

   今から斬るようにつとめてほしい。

   僕はあなたの才略を傍観させていただこう。

   僕の才略はあなたに到底及ばない。

   僕もかつては、アメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、

   無益であることを悟ってやめた。

   そして、考えたことが手紙に書いたことである。

   あなたは言葉通り、

   僕と同じにならないように断固としてやってほしい。

   もし、そうでないと、

   僕はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。

   あなたはなお、僕に向かって反問できるか」

と書いた。

ハンカチに包めるほどの自尊心  斉藤和子        

この書簡を通して松陰は、自分の発言がどんなに重要なものか、

「自分の発言には、自分の生命をかけて必ず果たさねばならない」

と玄瑞に教えた。

松陰の実践と思索に裏付けられた強い言葉に玄瑞はたじろいだ。

玄瑞は、安政4年の晩春、18歳で正式に松陰門に弟子入りし、

幼友達の高杉晋作にも入門を勧めた。

松陰が最も信頼した一番弟子の玄瑞は、

「才能は自由自在、縦横無碍」

「才あり気あり、駸駸として進取す」

と師から最大級の賛辞を送られている。

忘れ物捜しに出口から入る  板垣孝志



  高杉晋作

「松陰からの賛辞」

『僕はかつて同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。

   その後、高杉晋作を同志として得た。

   晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。

   しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。

   そこで僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。

   そのとき晋作の心は、はなはだ不満のようであったが、

   まもなく、晋作の学業は大いに進み、議論もいよいよすぐれ、

   皆もそれを認めるようになった。

   玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、

   晋作を推すようになった。

   晋作も率直に玄瑞の才は、当世に比べるものがないと言い始め、

 二人はお互いに学びあうようになった。

 僕はこの二人の関係をみて、

   玄瑞の才は「気」に基づいたものであり、


   晋作の識は「気」から発したものである。

   二人がお互いに学びあうようになれば、

 僕はもう何も心配することはないと思ったが、

   今後、晋作の識見を以て、

 玄瑞の才を行っていくならば、できないことはない。

   晋作よ、世に才のある人は多い。

   しかし、玄瑞の才だけは、どんなことがあっても失ってはならない

号外が降ってきそうな日本晴れ  久岡ひでお 

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