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川柳的逍遥 人の世の一家言
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焼酎の術羊羹に破られる  井上一筒


   吉田松陰

松陰「福堂策」の言葉
   けんぐ    いえども
人賢愚ありと雖も、各々一、二の才能なきはなし、
そうごう
湊合して大成する時は、必ず全備する所あらん。
         えっ
是れ亦、年来、人を閲して実験する所なり。
     きい                    ま
人物を棄遺せざるの要術、是れより外、復たあることなし。

(人間には賢愚の違いはあるが、どんな人間でも、
    一つや二つのすぐれた才能を持っている ものである。
    全力を傾けて、ひとりひとりの特性を大切に育てていく ならば
    その人なりのもち味を持った、一人前の人間になることができる。
    今まで多くの人と接してきて、
    これこそが人を大切にする要術である と確信した)

強烈な残像 真っ赤な人だった  都司 豊

「松陰ー言語録」

松陰は獄中で、獄制改革案といえる『福堂策』を記した。

「牢獄に幽囚された者は、希望を閉ざされているが、

   それを改め、牢獄を「福堂」にする必要がある。

   そのため、獄内の自治は囚人に任せ、

   読書や学芸に従事させることで人間性を回復させるべし」

という提案である。

伝馬町や野山獄での経験が、そのまま反映されている。

地に伏して星の流れる音を聞く  板垣孝志

松陰は孟子「性善説」を強く信じており、

その根拠を野山獄の人々に見いだしていた。

「罪は事にあり人にあらず」

「罪はなお病のごときか」

と断言する。

「罪が病であれば病を治せばよく、

   獄中で腐りかけた善も教導により取り戻すことができる」

と考えた。

※ 福堂とは、人を幸福にする施設。

わたくしの重さでひらく門がある  佐藤美はる

安政2年(1855)12月、出獄が許された松陰は、

謹慎の身ながら、近親者に『孟子』を講ずるようになり、

やがて「松下村塾」を主宰するようになる。

そこで行なわれた教育は、

まさに野山獄における相互教育の発展であった。

塾内では平等主義が貫かれ、松陰が一方的に授業することはなく、

対話を重んじ、時に塾生が教師を務めることもあった。

そして各人の個性や能力が尊重され、それを引き出す方策がとられた。

後悔を脱いで明日の糧にする  石田ひろ子



「牢内の授業風景」

松陰は入獄ご半年がたったころから、

囚人たちと『孟子』の読書会を行なうようになる。

テキストを回し読みし、相手からの質疑に答える形で、

松陰が講釈を述べた。

しばらくしてからは、

数人が順番に教師を務める輪講の形式がとられた。

読書会は各人が教えあうゼミナールへと発展。

女囚の高須久子と短歌のやり取りを通じて交流を深め、

恋情を揺らしたのも、このころのことである。

電球にかざして見えた命の芽  佐田房子



これらの授業や交流は、通常は牢越しに行なわれたが、

時には囚人たちが互いの独房を訪れたり、

一堂に会することもあった。

獄吏の福川犀乃助も孟子の授業を聴講するようになり、

勉強するために夜間の灯火が認められた。

囚人のほとんどが「借牢願い」による収監のため、

ある程度の行動の自由があったとはいえ、これは異例の事である。

福川のみならず、ほかの獄吏も松陰に協力的であったというから、

松陰の教育への情熱が、獄舎を教育の場へと転化させたのである。

気遣いが描いた円陣美しい  杉谷和雄

「小田村伊之助が松陰を見直すことになった『獄舎問答の中の言葉』」
            む
天下に機あり、務あり。

機を知らざれば、務を知ること能わず。
                                          しゅんけつ
時務を知らざるは、俊傑に非ず。

(この世の中に生じるできごとに対処するには、
   適切な機会があり、それに応じた務めがある。
   適切な機会がわからなければ、時局に応じた務めも知ることが出来ない。
   それぞれの場に応じてなすべき仕事ができないようでは、
   才徳のすぐれた人とは、言えないのである)

悩んでる暇はないのだ砂時計  小川賀世子


梅太郎と松陰の手紙のやりとり

二十一回猛士説について
兄・梅太郎は冒頭で、松陰の「二十一回猛士の説」は素晴らしいが、
家族が罰せられると困るので、秘密にするようにと忠告している。
対して松陰は、兄に直に会って注意されているようだと返事している。
他に梅太郎は、獄中で過ごす松陰の食べ物や身の回りを気遣うなど、
二人の絆がうかがえる興味ある手紙になっている。

【豆辞典】「二十一回猛士説」
        こういん
「私は天保元年、庚寅元年(1830年)に杉家に生まれた。

 その後成長して、吉田家を継いだ。

 甲寅(安政元年)に罪を得て獄へ入った。

 夢に神が現れ、一枚の名刺を差し出された。

 それには「二十一回猛士」とあった」

躓いた石に仏を見てしまう  萩原三四郎

『猛の未だ遂げざるもの尚お十八回あり』

 「夢から覚め考えるに、杉の字には二十一の形がある。

 吉田の字もまた、二十一回の形がある。

 私は生まれてこのかた、

   猛々しい行動をとったことがおよそ三回ある。

    一回目は、東北旅行のために脱藩したこと。

    二回目は、藩士としての身分をはく奪されたにもかかわらず、
                    「将及私言」など上書を藩主に意見具申したこと。

    三回目は、ペリー来航時に密航を試みたこと。

   それで罪を得たり、非難され、今は獄に入れられ、

   再び猛を行うことが出来ない。

 そして、猛のまだ成し遂げていないものは、十八回ある。

 その責任もまた重いのである。

 神はおそらく、私が日々弱くなり、

   微力となって、二十一回のを成し遂げられないことを恐れ、

   天意として私を啓発してくださったのであろう。
 
   とすれば、

   私が志と気を合わせ養うこともやむを得ないことである」

と、松蔭は自己を叱咤激励した。

二十一回猛士は松蔭の別号として下田事件以後用いるようになった)

三度目は逆立ちもする注意書き  佐藤正昭

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