窓の雪黄色く見えるのも恋か 雨森茂喜
高須久子の長州藩の裁判記録
久子の真実の生き様が記されている。
おうち
松陰の出獄当日、 "手のとわぬ雲に樗の咲く日かな"
と別れの一句を久子が送ると、松陰は一通の手紙を彼女に渡した。
"声をいかで忘れんほととぎす" の句が手紙の中に入れてあった。
(意味を読み解いてください…、儚く、可愛いではありませんか)
「松陰も恋をしたことがありました」
生涯、恋愛とは無縁の人と言われた
松陰が、
野山獄の獄中で、ほのかに恋心を抱いた女性がおりました。
その相手の名は、美貌の未亡人・
高須久子である。
久子は毛利家家臣団・杉原三家の
「高須家」の出身。
高杉晋作の遠縁にあたるともいわれる人である。
石高330石取りの家柄の跡取り娘として生まれ、
婿養子を迎えるも、その夫は若くして死に、
久子は寂しさを紛らわすように、
三味線に興味を持つが次第に没頭するようになる。
それは歌や浄瑠璃、ちょんがれ
(浪花節の一種)などにも傾倒し、
萩で有名な芸能人
(被差別部落民)勇吉と弥八らと交流、
自宅に招いて酒を振舞ったり、
翌朝まで宿泊させたりするものであった。
(封建時代、当時は被差別部落民と接触することは罪とされた)
価値観の違いとレモン搾り切る 山本昌乃
身分制度が明文化されていた封建時代のこと、
「武士が被差別部落民と交際するとはけしからん」
元夫の実家の義父は、
「不義密通」を疑ったが、久子は、
「普通の人と普通の付き合いをしたまで」
と不義を否定したが、家族の申し出で野山獄へ
「借牢」となる。
『三味線弾きなどについて、「すべて平人同様の取り扱いをした」
とたびたび久子は供述しており、彼女の中に封建時代であれ、
「人はみな人」という平等思想の萌芽のようなものがあった
ことは疑いない』 (裁判史料より・久子の供述)
無印で生きる本音で生きてます 荻野浩子
久子の独房 (テレビのイメージセットより)
松陰が海外密航未遂の罪で捕らえられ、江戸の獄から萩に護送され、
「野山獄」に入ったのは、安政元年
(1854)10月だった。
野山獄には12の独房があり、松陰の入獄で満室となる。
獄には、女囚が1人収容されていて、
これが、300石取り藩士の奥方だった高須久子である。
37歳だった。 (このとき松陰は25歳)
久子の罪は
「姦淫」というが、
武家の女が身分低き者と親しくすることを
不行跡と咎める封建的な親戚の
「借牢願い」によって、
野山獄に収容されたものである。
すでに在獄4年であった。
聖女かな懐中時計持っている やよい
野山獄は藩の罪人は2名のみで、他の者は親族から申し出による
禁錮だったので、囚人同士が一箇所に集まることは自由であった。
松陰は久子の境遇に同情し、
「自信をもって生きよ」と励ました。
反面、松陰は久子の
「自由な考え方」にふれて、
新しい時代の理念を掴むきっかけになったとも言われる。
(人間平等の思想に徹する松陰は、やがて主宰する松下村塾でも、
身分の別を問わず、向学心にもえる若者たちを受け入れた)
君の手が触れたとこからムズ痒い 森 廣子
久子は、獄中で松陰に学ぶ機会を得たひとりの女性である。
彼女の松陰に対する尊敬と感謝の念は、
自由を奪われた獄囚の身に、もだえ苦しむ憂国の青年への、
母性本能をふくむ
「恋愛の感情」に昇華していく。
久子の一途な恋慕に、戸惑いつつも応えていくうちに、
「安政大獄」の魔手は松陰にせまり、極限状況に近づいていく。
2年足らずの短い期間、松陰と久子の間に、
プラトニックな恋が交わされたと信ずるに足る
「相聞の歌句」が存在する。
恋ひとつ隠して雪は降りやまず 伊達郁夫
"清らかな夏木のかげにやすらへど 人ぞいふらん花に迷ふ"
久子に渡した松陰の和歌である。
俳諧の心得のある久子は、ときに発句を松陰に送っている。
松陰が仮出獄するとき、囚人一同がひらいた送別句会の久子の句.
しぎ
”鴫立つてあと淋しさの夜明けかな"
鴫は、松陰のあざな
「子義」にかかっている。
久子が松陰に贈った絶唱ともいうべき別れの相聞の句。
おうち
"手のとはぬ雲に樗の咲く日かな"
(私にとってあなたは雲の上のお方。
そして栴檀の花もあなたをたたえるかのようにおります)
それにたいする松陰の返し歌は、
「高須うしに申し上ぐるとて」として
"一声をいかで忘れんほととぎす"
(どうして貴方のその美しい声を忘れることがありましょう)
振りしぼるような一句を吐いている。
囚われのこめかみに吹く北の風 真鍋心平太
松陰の独房 (テレビのイメージセットより)
出獄後松陰は、長州藩に野山獄の囚人釈放を働きかけ、
約8割の囚人が出獄できた。
獄中で知り合った
富永有燐を松下村塾に招いて、
高杉晋作、久坂幻瑞,木戸孝充、山県有朋、伊藤博文らが学んだ。
しかし、久子は親族が反対して釈放されていない。
安政5年
(1858)松陰の幕府の老中・
門部詮勝を暗殺する計画と、
仲間である
梅田雲浜の奪還計画を知った長州藩は、
再び、松陰を野山獄に投獄する。
二度目の投獄、そして、翌安政6年、江戸評定所に召喚され、
死出の旅にたつ松陰に、久子は餞別に
手布巾を贈った。
松陰はお返しに
"箱根山越すとき汗のい出やせん 君を思ひて拭き清めてん"
という句を贈っている。
(世に言う「安政の大獄」で松陰は、まもなく斬首された)
立って聞くニュース座って聞くニュース 岡谷 樹
その後,久子は野山獄に入った
高杉晋作と出合っているものと、
推察されるが、明治元年、新政府が樹立されたとき野山獄が廃止され、
久子の出獄が叶った。
この時、久子は51歳。
しかし、久子は高須家には戻らなかった。
その後、明治に入って久子がどんな生活をしたかは分かっていない。
晩年の久子は、18年におよぶ獄中生活が祟り,
目は衰え、足が萎えて、曲がらなかったという。
享年88歳。
(長寿を全うしたことに深い意味を感じる生涯であった)
(参考・古川薫 『野山獄相聞抄』)
過去ひとつ座るわたしのなかの北 たむらあきこ[5回]
PR