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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鳴き砂の過去を探しに行く素足  真鍋心平太


   足利学校

江戸時代落雷で焼け建物は1980年代に復元.。

水堀と土塁に囲まれた大きな茅葺屋根の重厚な古めかしい建物は、

建造された当時を偲ばせている。


  足利学校全景

周囲に堀がめぐらされ中世の館を彷彿とさせる。


    学校門

寛永8年の創建で数少ない現存物のひとつ。


   杏壇門

学校門と同年の壮健で、奥には「孔子廟」がある

「足利学校」

足利学校とは栃木県足利にあった「日本最古の学校」のこと。

最古といわれるが創設の明確な由来は分かっていない。

奈良時代、平安時代、鎌倉時代の三説あるが…

相当に古いことは間違いない。

室町時代には、間違いなく存在していたが、

その中頃には衰退し、存亡の危機にあった。
                  かんれい   のりざね
永享4年(1432)関東管領の上杉憲実が足利の領主になり、

再興に尽力したことが、記録からも明らかになっている。

再興した上杉憲実と、その息子・憲忠らあによって庇護され、

学校運営がスタートしたとき、その教育は『儒学』が中心であった。

儒学といえば、

中国の思想家・孔子の教えを発展させた学問である。

そのために孔子は古くから大成殿に坐像が置かれ、

崇拝の対象となっている。

まだ箱にしまったままの始発駅  加納美津子


学費は無料で学生は入学すると近隣の民家に寄宿して通った。

室町時代後期に入ると、

儒学はもちろん重要視されたのが「易学」「兵学」で、

折りしも戦国時代に入るころで、各地で戦さが盛んになると、

多くの戦国大名が、この足利学校に学んだという。

彼らは戦で、いかに勝利するかを常々考え、

「易学」つまり、「占い」を重視する者が多かった。

たとえば、出陣や撤退にあたり吉凶を占い、

その結果によって進退を決めたのである。

それは「兵学」とも密接に連動した。

それらの知識に精通した者が重んじられ、

大名に登用されたのである。

数え歌覚えてひとつ背が伸びる  ふじのひろし


歴代痒主(校長)の墓と創建時の井戸

「足利学校」で学んだ者が、大名に仕えることも多かったようだ。

甲斐の武田信玄は、易学に長けた者を引見し、

「占いは足利にて伝授か?」 と尋ねたことがあった。

信玄の軍師といえば、山本勘助が有名であるが、

彼も易学に通じていて信玄に重用されたという。

足利学校の存在は相当に有名であり、信玄も重要視していたようだ。

厳密にいえば、日本には「軍師」という役職は存在しなかった。

しかし、軍全体の進退を占う者は軍師という存在に等しく、

生死をかけた戦において重視されたのだろう。

紺碧のダイヤと競う蛍烏賊  田口和代


かっては3千人の学徒が学んだ教室。

「日本国中、最も大にして最も有名な坂東の大学で、

   日本全国の人が学びにきている」

と宣教師・F・ザビエルが本国に向けた手紙に紹介している。

さらに

「寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像があり、

ほかに「孔子廟」が設けられている」と記している。

海外まで名を知られた学校だったのだ。

天正18年、秀吉が関東へ侵攻すると、学校は存亡の危機を迎える。

庇護者であった北条氏と足利長尾氏が滅ぼされ、

秀吉の養子・秀次が学校の蔵書の多くを京都へ持ち去ろうとした。

しかし、関東の領主・家康が交渉してそれを取り戻し、

保護者となって、足利学校を守り通したのである。

絡みつくものを月光で洗う  本多洋子


    方丈と書院を結ぶ渡り廊下と衆寮

しかし江戸中期になると、いわゆる、太平の世が到来して、

兵学も易学も存在意義を弱め、

「藩校」「寺子屋」の整備によって足利学校は急速に衰退する。

それからは貴重な古典籍を所蔵する図書館や、

孔子を祀った史跡としての役割へと変わり、

明治5年には廃藩置県の影響も受け、

学校としての役割も終えた。

省けないものの一つは無駄だろう  立蔵信子


  貴重な書物を置く遺跡図書館・中国の古典

しかし、学校としての末期、

幕末の志士たちの中にも、足利学校を訪れた者がいた。

安政5年(1852)には、吉田松陰が、

万延元年(1860)には、高杉晋作が訪れている。

松陰は中国の『論語』に影響されたと思われる言葉が多いが、

この足利学校においても、

孔子孟子の教えを書で読み、学んだのだろう。

冬の良さ味わい冬を乗り越える  新家完司


弟子に一生を通じて守るべきは?
と問われて孔子は、「恕」と答えた。
これが足利学校が目指す精神となった。

儒教の中心的な考え方は、

自分の身をきちんとして、人を治める(修己治人)

自分自身のわがままな気持ちに打ち勝ち、

人間として踏み行わなければならないことを実行する(克己復礼)

孔子の死後、儒家は「八派」に分かれた。

その八派の中で、孟子は「性善説」を唱え、

孔子の徳目「仁」に加え、

実践が可能とされる徳目「義」の思想を主張した。


庭園の字降松ー逸話として
質問を書いた札をくくりつけておくと、必ず回答の札が懸かっていた。


 渾天儀(こんてんぎ)

ほか貴重な書物をはじめ、往時を偲ばせる備品の数々が展示されている。



補義荘子因(ほぎそうじいん)        文選(もんぜん)
三月を開く痛みのないように  八上桐子

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