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川柳的逍遥 人の世の一家言
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フランスパンと出会ってからの春キャベツ 山本早苗



「村塾の日々」

仮釈放であったが、萩へ戻った松陰は、生家の一室で父や近親者に

『孟子』『武教全書』を講じた。

講義の様子は近所に広まり、

それを聞こうとする若者たちが集まってきた。

次第に三畳一間の塾が手狭になったきたため、

杉家敷地の一角の家屋を改装し、新たに松下村塾を開いた。

塾生の顔ぶれは、

久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一らが筆頭で、

特に玄瑞と晋作は「双璧」と呼ばれた。

町内の十軒ほどが我が世間  新家完司                

中級武士の晋作は萩の藩校・明倫館に通いながらも、

松陰を慕って松下村塾を訪ねてきていた。

また、伊藤博文は百姓出身だったため、

藩校に通うことができなかった

それで松下村塾に来たが、武士の身分でないため遠慮し、

外で立ち聞きしていた。

貧乏ゆえ寺子屋に通えなかった幼い頃の松陰と同じような境遇だ。

様々な境遇の塾生が集まり、最大80名にまでふくれた。

一巡し黒光りしてくる噂  森井克子


   松陰の文机
               そうもうくっき
松陰が後年に残した「草奔崛起」という言葉がある。

草奔は草木の間に潜む隠者のことで、転じて一般大衆を現すもの。

崛起は一斉に立ち上がることを現すもので、

「在野の人よ立ち上がれ」 という意味がある。

松陰は、藩校に通えない身分のものにも分け隔てなく教えることで、

それを実践したのであった。

正か負かいやゼロという妥協点  有田晴子

塾における礼儀作法はごく簡略なものだったようである。

「いま世間でいうところの礼法が末に流れ、

   上っ面で浅薄なものとなっているから、

   誠心誠意、真心のこもったものにしたい」

というのが松陰の考えであった。

武士だけでなく農民も町民も一緒に汗を流し、

身分を超えた新しい関係を育むことを松陰は望んだ。

ぜんざいも飴もケーキも出す飲み屋  近藤北舟


  幕末の寺子屋

時間割といったものはなく、昼夜を問わず授業を行い、

月謝も取っていなかったため、

晋作のように余裕のある者が金を持ってくるほどだった。

実際の講義は、松陰が門弟たちに教え諭すばかりではなかった。

弟子に問うことで考えさせ、積極的に発言させ、

討論を是とする血の通った指導法だったようである。

親指を舐めて右よし左よし  くんじろう

また、学問だけでなく武芸も奨励した。

異国と戦争にでもなれば、学問だけでは太刀打ちできないためだ。

「撃剣と水泳の二つは、武技のうち最も大切なものだ。

   わが国の周辺をしきりと外国がうかがっている今、

   一日たりともおろそかにできない。

   怠ることは慎まねばならない」

とし遠出しての軍事訓練まで行なった。

常識にとらわれない教えに若者たちは熱狂し、

松陰に心酔していったのである。

文芸の力よスプーンが曲がる  芳賀博子    


       高杉晋作

高杉晋作は藩命により江戸に出て、剣術のほか、

昌平坂学問所や大橋庵の大橋塾で学んだ。

(これは若き日の晋作とされる写真だが、別人説もある)

「人・高杉晋作」

高杉晋作久坂玄瑞、吉田稔麿とともに、松下村塾三秀のひとり。

150石どりの上士の一人息子で、

高杉家は晋作が村塾に通うのは許さなかった。

晋作を松陰に引き合わせたのは、玄瑞であったという。

松陰はわざと晋作の前で玄瑞を褒め、晋作を発奮させた。

松陰の狙い通り学力が「暴長」した晋作は、

玄瑞とともに「松門の双璧」と称されるまでに至る。

龍になって去るモグラになり戻る  井上一筒


    高杉家

後年、小伝馬町牢獄の松陰に、一通の手紙が届けられた。

晋作からであった。
                    いかん
「男子たる者の死すべき所や如何」

晋作の悩みが記されてあった。

これに対し松陰は

「死は好むべきでもないし、憎むべきものでもない。

   道が尽き、心が安んじられた時、そこが死所である。

  『死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし』

  『生きて大業の見込みあらばあくまで生くべし』

  『死生は度外に置くべし』」

と答えて寄越した。

タテ罫のノートは体臭がきつい  居谷真理子

その答えが、あるいは晋作の生涯を決定づけたかもしれない。

安政6年11月、師の松陰が処刑された一カ月後、

晋作は藩重役の周布政之助への手紙に、

「わが師松陰の首、ついに幕吏の手に掛け候の由。
                 つかまつ
…仇を報い候らわで安心仕らず候」

と記している。

その後、晋作は身分に縛られない近代的軍隊「騎兵隊」を組織、

四カ国連合艦隊との交渉、「功山寺挙兵」

「四境戦争」と命を削って疾駆した晋作の死生観は、

まさに、松陰の教えるものであった。

ただ一度風のかたちを見た枯野  板野美子

晩年、松陰が残した門下生評の中で高杉晋作と久坂玄瑞を、
   がぎょ
「人の駕馭を受けざる(恣意のままにうごかされぬ)高等の人物なり」

と絶賛している。

また、昭和14年まで生存した松下村塾出身の渡辺高蔵は、

「久坂と高杉との差は、久坂には誰も付いてゆきたいが、

   高杉にはどうもならぬと皆言う程に、

   高杉の乱暴なり易きには、人望少なく、

   久坂の方、人望多し」

と語っている。

反時計回りに生きてきた男  井上恵津子

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