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川柳的逍遥 人の世の一家言
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幻覚の馬は石臼で挽かれた  井上一筒

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平家物語「朝敵揃えの事」

福原の自邸で頼朝挙兵の報告に激怒する清盛

(画面は拡大してご覧下さい)

「治承4年(1180)のこと」ー以仁王の反乱

2月20日 大輪田泊の修造が認可される。

2月21日 高倉天皇が上皇となり、高倉院政の開始。

かわって3歳の安徳天皇が践祚(天皇の位を受け継ぐこと)し、

藤原基通を摂政とした。

ここに清盛の血統が皇位を継承する体制が確立した。

ピカピカのブランド着た日は疲れます  梅谷邦子

3月17日  

高倉上皇が清盛の妻・時子の八条邸に入る。

高倉院の退位後初の社参として、

厳島に参詣する予定であったが、

園城寺・比叡山・南都の大衆が、

後白河院と高倉院を奪取、

両院の御所を警固して、御幸は3月19日に延期された。

≪従来の院は、退位後の社参で、京近辺の神社に参詣しているため、

 京近辺の神社よりも、厳島神社を重視するという宗教秩序の改変に

 つながる計画に対して、大衆は抗議の意を示したのである≫


指きりの語尾の辺りの生返事  美馬りゅうこ

3月20日~3月26日 清盛、高倉上皇を厳島に迎える。

(上皇一行は福原で清盛と別れ、4月8日帰洛)

4月22日  

安徳天皇即位式が紫宸殿で行われた。

しかし水面下では、

すでに4月9日に、後白河院の第2皇子・以仁王が、

「清盛追討」を呼びかける令旨を、

八条院蔵人となった源行家に命じて諸国に発していた。

感情の正面衝突おお危な  柴本ばっは

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高倉宮跡(以仁王の御所があった)

「以仁王」


以仁王は仁平元年(1151)

後白河天皇と藤原季成娘・成子の間に生まれた。

高倉院のライバルとなることを危惧した建春門院等の、

圧力により、親王宣下を得られなかった。

その後以仁王は、天台座主・最雲に預けられたが、

応保2年(1162)の最雲の死去により、出家しないまま、

永万元年(1165)12月に人目を忍んで元服し、

八条院の猶子となり彼女の支援を受けていた。

さらに安徳天皇の践祚により、

以仁王が天皇となる可能性はほぼなくなっていた。

髭も髪も白優勢となるオセロ  村岡義博 

5月10日、清盛が急遽上洛し、翌日には福原に下向した。

当日の京は騒がしかったというが、

それは以仁王の「謀反」が露顕したからである。

吹雪襲来わたしがなにをしたという  夏井せいじ

5月15日、以仁王の乱が発覚し、

臣籍降下・土佐国配流を決定する。

しかし、検非違使・源光長・源兼綱が以仁王の、

三条高倉邸に到着した時には、

以仁王はすでに園城寺に逃亡していた。

その後数日間、以仁王の捜索を続け、

5月18日、園城寺に以仁王の引き渡しを命じたが、

悪僧たちは拒否した。

≪園城寺悪僧・律上房は、下総の武士・千葉常胤の子息であった≫

目を閉じて見えてくるのは過去ばかり  笠原道子

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「芳年武者无類(ぶるい) 源三位頼政」

平等院境内で頼政は自決する

5月21日、平宗盛以下9人の平氏一門と源頼政で、

23日に、園城寺を攻めることに決まったが、

同日夜には、源頼政と仲綱・兼綱等の子が、

軍勢を率いて、以仁王に合流した。

頼政の養子兼綱も、15日に以仁王邸を捕縛に向っていた。

そんな彼らが、以仁王方として動いたことは衝撃であった。

≪以仁王が逃げおおせたのは、

    彼らが事前に内部情報を伝えていたからであろう≫


歯車の一つがダダをこねている  嶋澤喜八郎

5月22日、比叡山の大衆300人が以仁王に与力し、

大和の興福寺衆徒も蜂起したという情報が京に伝わった。

5月23日頃には、天皇の行幸、院の御幸に合わせて、

官兵が、洛中の諸人を引率して、

福原に下向するという風聞もあった。

5月25日には、

天台座主・明運が比叡山に登り、

叡山僧に園城寺を攻めるよう伝え、過半が承諾した。

叡山が頼れないとなった以仁王らは、

5月26日未明、園城寺から南都に向った。

足し算の途中で夕陽が沈んだ  森田律子

5月26日、以仁王等の脱出を知り、

平氏家人で検非違使の藤原景高・忠綱・兼綱

300騎を派遣した。

景高等は、宇治の平等院で以王に追い着き、

合戦して源頼政とその男仲綱・兼綱を討ち取った。

藤原景綱等が出撃した後、京で平宗盛と相談して、

平重衡・維盛が主力を率いて宇治に向ったが、

すでに合戦は終っており、

彼らは敵軍の首を見たのみであった。

こうして以仁王の乱は、鎮圧(宇治川橋合戦)

清盛、福原から上洛。

方程式狂って影を切り刻む  上田仁

宇治平等院境内の塔頭最勝院にある頼政の墓

5月28日、高倉上皇を自邸に招き、

源頼政の首を実見に供する。

5月30日、以仁王・頼政追捕の賞で、

清宗(三男・宗盛の長男)が従三位に叙任される。

「福原潜幸」が6月3日と決定する。

『平家物語』は、

源頼政が、子息・仲綱が平宗盛に侮辱されたことを怒り、

以仁王に挙兵を勧めたとする。

しかし、政治的立場を考えれば、

以仁王こそが、反平家活動の起点であり、

養母・八条院に祗候していた頼政を動員した、


と考えるべきである。

裸一貫惜しいものはなにもない  前中知栄

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