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川柳的逍遥 人の世の一家言
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そのままで雲は移ろいゆくアート  新家完司

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          福原遷都

以仁王が寺社勢力と組んで反乱を起したため、

清盛は福原に遷都を断行する。


(画面は拡大してご覧下さい)

「福原遷都への総括」

日宋貿易は後白河にも多大な恩恵を与えている。

畿内まで宋船を入れる許可を下すだけで、

清盛から捧げられてくる謝礼も、莫大なものとなった。

しかし、福原の別荘に居館を移して以来、清盛は、

あたかも陰の上皇であるかのように振る舞っている。

後白河法皇を中心とした院の勢力は、

こうした清盛の肥大を、好まなかった。

てっぺんに登ると見えぬものもあり  河村啓子

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「この国を統べる者は一体誰だと思うておるか」

後白河の憤懣は、8年後の安元3年(1177)に,

「鹿ケ谷の陰謀」となって奔出した。

延暦寺の大衆との軋轢が嵩じ、

左大将の平重盛と右大将の平宗盛に対して、

武力討伐を命じたものの、

「清盛公の指示がない限りは動けない」

と拒絶されたことから、

遂に「平家打倒の謀議」を凝らしたものだった。

癇癪玉なら何発も打ち上げた  高橋謡子

だが、院近臣の藤原成親・西光・俊寛などから、

平家討伐の大将に望まれていた摂津源氏・多田行綱が、

裏切り、京にある清盛の西八条邸へ駆け込んで、

密告したことから、露顕したのである。

かくして事件関係者のあらかたは処罰された。

が、後白河だけは処分されなかった。

胸底の礫低温火傷する  荻野浩子

そのため、2年後にまた別の事件が生じた。

治承3年(1179)の政変。

清盛による武力革命である。

事の起こりは、後白河の清盛に対する報復行為だった。

摂関家へ嫁いでいた清盛の娘の白河殿・盛子が急逝し、

重盛が病を患って死去したのだが、

その知行地を後白河法皇が、

何の前触れもなく没収したのである。

患部から出るのが好きな奇人変人  山口ろっぱ

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この処置について怒髪天を衝いた清盛は、

六千騎という尋常でない数の兵力を擁して上洛し、

院政を止めさせた。

「もはや後白河を野放しにしておくことはできない」

と考えたからだ。

後白河は京の南にある鳥羽離宮へ幽閉されたが、

事件の処置は、それだけではない。

おどり食い喉を過ぎるころ臨界  松原末湖

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常に自分の周りには自分が殺した者たちの怨霊や,

源氏の呪縛がつきまとい、神経が休まることがなかった清盛


後白河の第3皇子の以仁王も所領を没収され、

関白の藤原基房が大宰府へ配流された他、

太政大臣の藤原師長をはじめ、

39名の公卿や殿上人などが、

一気に官を解かれてしまったのである。

肉食の顔で雑草抜いている  毛利由美

こうして清盛は、おのが手に国家の実権を握り締めた。

ただ、この強引な権力奪取は新たな問題を生んだ。

基房の配流に異を唱えた興福寺

後白河と密接な絆を持った園城寺などとの確執である。

とはいえ、元より清盛は、仏敵ではない。

出家したのも、寸白による高熱に魘された折の

奇蹟的な快癒は、仏法に護られたためであると思い、

その謝意を表すには、

仏教に帰依するのが良いと、判断したからである。

大根の白あくまでも平和主義  新川弘子

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  福原怪異

厳島神社への篤い信仰心を見ても解ることながら、

常より神仏を敬い仏法を尊んできた。

後に南都の焼討が行なわれて、

東大寺などの大伽藍を灰燼に帰させてしまったのも、

家の子の狼藉は、おのが責任であるとし、

自ら悪逆の汚名を着た結果であろう。

「度の過ぎた家族への愛着が為してしまったもの」

と言っていいが、清盛にしてみれば、

「家族を罪に陥れるよりも、己を穢させる方がよい」

と言ったところだったのだろう。

真夜中の神と卵は同じ罪  定金冬二

ところが、興福寺や園城寺といった寺社は、

清盛の信心などどうでもよく、

ひたすら旧来の朝廷と結託して、

平家との対立姿勢を深めていった。

かのように旧態依然とした都で、夢が語れるものか。

清盛は数珠を振り上げ、

「福原へ都を遷す」 と叫んだ。

マテ貝は泣きだすぼくは手を合わす  湊 圭史

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    厳島神社神殿

いまだ大輪田泊は修築工事の真っ最中だったが、

都や港の完成を待っていたのでは、

何の進歩も発展もない。

天皇家すらも意のままになるような立場となった今、

日宋貿易は平家の私貿易ではなく、

国家事業とできる。

ならば、福原に政事の機能を全て遷してしまった方が好い。

大宋国と対等となるような海の都を築くのだ。

かくして、治承4年(1180)6月2日、

行幸が行なわれるとともに、行宮もまた置かれた。

平安京が築かれて以来、実に386年ぶりの遷都である。

浮気ならしましょうスープ皿をあけ  森中惠美子

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