ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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会津-降伏
ブラックホールのここは真ん中だと思う 安土理恵
降伏の絵
(各画像は拡大してご覧下さい)
無念の降伏を決意し、調印式に臨む
松平容保
。
新政府軍代表には
板垣退助、中村半次郎、西郷隆盛
らがならぶ。
(「会津藩降伏之図」会津若松市所蔵)
「会津終焉」
9月4日、城の西方の如来堂に陣取っていた新撰組が敗退。
9月15日、
一瀬要人
らの部隊が新政府軍と遭遇。
一進一退の激闘を繰り返し、城の南方の一の堰村で辛うじて、
西軍を追い払うが、指揮官の一瀬要人をはじめ、
多くの死傷者を出し、撤兵を余儀なくされた。
玄武隊の一員として戦っていた八重の父・
権八
も
この戦いで戦死している。
これはまだ序の口ですと雨が降る 清水すみれ
佐川隊はなおも日光口を進軍せんと
大内宿田島方面で苦闘を続けるが、
戦局を覆すには至らなかった。
9月4日、米沢藩が降伏したのに続き、
15日には仙台藩も降伏する。
最後まで糧道を確保していた城の西南部も、
西軍の手に落ち、若松城は完全に孤立に追い込まれた。
トンネルを抜け出た前に次の山 オカダキキ
14日から西軍の総攻撃がはじまる。
城の周囲に陣取った50門に及ぶ大砲が轟然と火を噴く。
籠城から1ヶ月、5000名が立て籠もった鶴ヶ城では、
全員討死の覚悟であったが、
奥羽征討総督・
仁和寺宮
が錦旗を奉じて、
塔寺まできたことを知り、
松平容保
はついに
「降伏開城」
を決意。
てしろぎ すぐえもん
手代木直右衛門・、秋月梯次郎
らが、
米沢藩陣所へ行って交渉に入った。
相手は政府軍の参謀・
板垣退助
。
当日は結論が出なかった。
忘却の海に向かって船を漕ぐ 森光カナエ
20日、あらためて政府軍に
「降伏」
を伝えた。
21日、会津藩は抵抗をやめる。
松平容保
は家臣に開城を告げ、
城外で戦闘を続けていた、佐川官兵衛には書面で、
帰順を伝えた。
22日、
白旗
を揚げて降伏した。
この白旗は城内にいた女性たちが、
布を集めて縫いあわせたもので、
長さは3尺
(約90㌢)
あり、これに「降伏」の文字を書いた。
無条件降伏であった。
北の大手門に白旗が掲げられると、
政府軍の発砲がすべて止んだ。
それで気は済みましたかと割れた皿 八上桐子
容保
と
喜徳
は、籠城戦を戦い抜いた藩士を集めて、
別れを告げる。
藩士たちは涙を流し、城を出た2人は、
妙国寺に護送されていった。
政府軍が大きな歓声をあげて城門から駆け込んできた。
この時、城にいたのは4956人、うち女性は570人・
傷病者284人・老人や子供は575人だった。
空箱の中で蟋蟀鳴いている 畑山美幸
「萱野権兵衛」
戦後、新政府は容保に罪を問おうとしたが、
「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」
と
萱野権兵衛
が主君を命がけでかばった。
このため容保は幽閉で済むことになったが、
権兵衛は久留米藩邸にお預けとなり、
新政府の沙汰を待つ事になる。
古里の渋茶が仲裁してくれた 岩根彰子
会津藩が新政府軍に降伏し、若松城を明け渡すと、
新政府軍は容保の代わりとして、戦争責任者の首を求めた。
戦争の終盤、筆頭家老の
神保内蔵助・田中土佐
は自刃、
第3席は行方不明という状況。
第4席の権兵衛は、戦いの終わりを見届け、敗戦処理城明渡し、
藩主父子の助命嘆願など敗戦処理に力を尽くした。
そして、戦争責任を追及する会議で出た新政府軍の、
「首謀のものを出頭させるべし」
という命に名乗りを上げ、
会津藩における一切の戦争責任を一身に引き受けた。
雨雲がぎっしり覆う後頭部 笠嶋恵美子
萱野権兵衛
やがて権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科邸から、
迎えが来た。
権兵衛は久留米藩有馬家に厚く礼を述べるとそこを出た。
保科邸には
梶原平馬
と
山川大蔵
が来ていた。
権兵衛が到着すると、
保科正益
から本日の介錯人は、
剣客の
沢田武司
であることが伝えられる。
梶原と山川は権兵衛に、
容保
と
照姫
からの親書を渡した。
熱い目で追うものがあり花図鑑 桑原伸吉
権兵衛がおし戴いて容保からの親書開いてみると、
そこには、
「私の不行き届きによりここに至り痛哭にたえず。
その方の忠実の段は厚く心得おり候」
とあり、また
照姫
からの親書には
"夢うつつ思ひも分す惜しむそよ まことある名は世に残れとも"
の一首が添えられていた。
権兵衛は、ねんごろな書状に謹んで礼を述べ、
「覚悟の事であるから、少しも悲しむところではない」
と言い、むしろ喜びの心を述べた。
もう何も言うまい月が丸いから 和田洋子
「付足してー1」
9月8日にすでに
「江戸」
は
「明治」
となっていた。
徳川幕府に忠誠を誓い擁護をした結果が、
会津藩の終焉になるとは、誰が予測しただろう。
誰もが八重も、ただ会津を愛し、
守っていきたかっただけなのに。
なんと不条理な戦いであったのか。
城を開け渡した後に、
「これでくじけたら、会津は本当に負けになる」
八重はくちびるを噛みしめ胸を張って、明治の世を迎えた。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」
幕末以来、朝廷への忠義を欠かしたことなどなかった、
にもかかわらず、
「朝敵」
の汚名を着せられ、
故郷が灰燼に帰してしまったことで、
「官軍か賊軍か」の喩えがこれほど適切であったことを、
会津の人たちは思い知らされるのであった。
もういいよそしてだあれも浮いて来ず 嶋澤喜八郎
松平容大
(三沢市先人記念館所蔵)
「付足して-2」
会津藩は明治2年(1869)10月、
生まれたばかりの容保の子・
容大
を藩主にして、
再興が許されたが、28万石から
3万石に減封
されたうえに、
陸奥の奥地・
斗南
に移された。
寒さなどあまりにも厳しい環境に、
廃藩置県後多くの者が、その地を去ったという。
(一方、容保は、江戸に移され謹慎。
のちに許されて日光東照宮の宮司となった)
先頭の人だけ方舟に乗せる 井上一筒
[4回]
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y2013/07/20 09:30 z
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