ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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斗 南
迷子札つけた私を見ましたか 山本早苗
雑物蔵に和歌を刻む八重
(会津図書館蔵)
(画像は拡大してご覧下さい)
会津藩は、籠城抗戦一か月、9月22日ついに白旗を掲げ開城と決した。
こうこう
その夜、
八重
は、耿々たる秋月の光を浴びながら、
こうがい
三の丸雑物蔵の白壁に笄で万感の想いを彫りつけた。
"明日の夜は何国の誰かながむらん なれしお城に残す月かげ"
【笄】
髪を整えるための道具.。箸に似た細長いもの。
取りあえず地下まで降りるエレベーター 中野六助
「斗南」
かたはる
明治2年
(1869)
6月3日、
松平容保
に嗣子・
容大
が誕生。
それから間もなくして、太政官から家名の再興が許されたが、
旧会津藩には、斗南3万石を取るか、
猪苗代3万石を取るかの
二者択一が迫られることになった。
この選択に斗南移住賛成派の
永岡久茂
と、
猪苗代を主張する
町野主水
派との間で意見が分かれるが、
結局、
「斗南」
へ移ることに決まる。
≪永岡久茂
=奥羽越列藩同盟締結に功。
町野主水
=戊辰戦争で北越方面を転戦、会津戦争で功績≫
哀しみをせめては後ろ手に閉ざす たむらあきこ
明治2年11月4日、容保隠退。
斗南藩3万石は、誕生間もない容大に与えられる。
明治3年1月5日、旧会津藩士4700余名の謹慎が解かれ、
斗南
に移住することが許される。
しかし、旧会津藩23万石の全員が、
新封地の斗南3万石に移住することはできない。
そこで希望者を募り、およそ2800戸、
家族を含めて、約1万5000人が移住することになった。
4月19日、斗南に移住の第一陣300名が八戸に上陸。
その7月、藩の名はあらためて
「斗南藩」
と名付けられた。
尻尾切り以上で事は終えました 谷垣郁郎
「藩民移住と苦難の旅路」
斗南藩主となった容大は、
藩士の
冨田重光
の懐に抱かれて駕籠に乗り、
この時は、五戸に向かったが、
のちに円通寺の所在地・田名部に移住している。
斗南に移住した旧会津藩士の家族たちは、
藩士らより約6ヵ月後の10月、
会津からはるばる陸路にて、斗南へ向けて旅立った。
彼等の中には老人や婦女子らに混じって、
多くの負傷者たちもいた。
しかも途中の旅籠代は、
のちに藩から一括して支払うといっても信用されず、
宿泊を拒絶する宿も多かった。
ページ繰るたびに入って行く迷路 合田瑠美子
斗南藩士上陸の地
【斗南】
漢詩の
「北斗以南皆帝州」
に因んで命名されたもので、
「北辺の地とはいえ天子の領土なのだから、
天朝から追放されたのではない」
と解した≫
粥をすすり、霙にうたれても着替えさえなく、
新封地斗南を遥かに拝しながら、
無念の涙をのみ死んでいった者も数多くいたといわれる。
斗南へ到着してからも、藩士達に艱難は続く。
会津23万石から斗南3万石へ減封された彼らであったが、
さらに言えば斗南3万石といっても、
それはあくまでも表高であって、
実高は、7000石余という不毛の地であった。
このため、会津藩士の斗南における苦難の生活は、
さまざまに語り伝えられている。
限りなく明日がどんどん擦り切れる 大海幸生
八重の夫、
川崎尚之助
も他の藩士達と行動を共にするが、
明治3年
(1870)
1月に謹慎が解かれ、
会津松平家の新たな領地とされた斗南藩に移った。
ただし、二十三万石だった会津藩士の家族全員が、
三万石の斗南に移るわけにはいかない。
すでに生活の基盤を得ていた者は、
「当座そこに留まるべき」
という配慮から、
八重
と母・
佐久
、兄・
覚馬
の嫁・
うら
とその娘・
みね
は、
身を寄せていた米沢で、そのまま過すことになった。
≪かつて会津で尚之助に砲術を学んでいた米沢藩士が、
家族の窮地を見かねて救いの手を差し伸べたのだ≫
淋しさが極まる蟹に足がない 嶋澤喜八郎
斗南に移った会津藩士たちは、
厳しい気候風土の中で、塗炭の苦しみを味わっていた。
そんな中、明治3年10月、藩士の窮状を救うべく、
川崎尚之助
は
柴太一郎
と共に、
外国から米を輸入するために、函館に向かうが、
そこで
詐欺事件
に巻き込まれる。
尚之助と太一郎は、藩に迷惑をかけぬため、
一身に責任を引き受け、裁判が行われる東京に移送される。
だが尚之助は訴訟係争中に身体を壊し、
明治8年
(1875)
3月20日にその東京で亡くなった。
柴太一郎
=義和団事件ー北清事変で活躍した柴五郎の兄
渋い茶の底で溶けないわだかまり 百々寿子
明治4年2月29日、斗南藩は弘前藩に文章を送り、
窮状を訴えて1500円の支援を受けた。
同6年になると、移住藩士は窮乏のどん底に陥り、
その後多くの者は、
着の身着のままで斗南の地を去った。
さよならの背中へせめてもの夕日 松本 柾子
[4回]
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y2013/07/24 09:30 z
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