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川柳的逍遥 人の世の一家言
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葬送に「いい日旅立ち」予約する  斉藤和子

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山川大蔵獅子舞無血入城
               (画像は拡大してご覧下さい)

「彼岸獅子」

籠城戦二日目の慶応4(1868)年8月25日、

城内の兵が少ないことを憂いた松平容保は、

日光口にいた家老・山川大蔵に使者を出した。

―城中兵少なく守備薄弱なり、速かに帰城すべし、

  但し、なるべく途中の戦闘を避くべし。


この指令は即座に下郷町大内から、

北会津町小松に通達された。

さらに斥候を城に送り、

―賊徒城外に満つ、途中の衝突免るべからず。

との報告を受けた大蔵だった。

真っ直ぐを透かしてみれば傷だらけ  合田瑠美子

しかし、城外の会津藩の部隊にとって、

いかに帰還するかは、大問題であった。

が、「可なり我に一策あり」 

として大蔵が考えついたのが、

「彼岸獅子」を利用した入城である。

日光口で戦っていた大蔵は、若松城近隣まで戻ると、

城から一里ほど離れた小松村で彼岸獅子を調達し、

その囃子を先頭に立てて行進させたのである。

≪その日、大蔵らは小松の大竹小太郎家に一泊、

   小太郎に対し、


   「松平家三百年の恩顧に報ゆるはこの時ぞ」

   と伝え、小太郎は、勇気ある独身男子を集めたという≫

絶望のふちから上澄みをすくう  三村一子

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「入城実況」

小松を出発した一団は、楽手を先頭にして縦隊をつくり、

秘かに阿賀川を渡り、全員が渡り終えると、

大蔵は、飯寺の西で一団を勢揃いさせた。

楽手を先頭に、大蔵が続き、縦隊整列。

大蔵の「前進」の命令で、彼岸獅子の囃子が始まり、

材木町、川原町橋周辺を占拠していた

長州藩と大垣藩の南側を堂々と行進した。

すると、

「西軍これを望みその勇壮活発なる奏楽威風凛々たる

  隊容を見て、意表天外、拱手傍観、唖然、として、

  銃を杖つき遥かにこれを迎送するのみ、

  敢えて来り、其所属を問ふものなし」 
(『小松獅子舞考』)

万華鏡に演技指導を受けました  美馬りゅうこ

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かくて、

「大蔵の一隊意気揚々として、西追手門より入る。

  城これを見歓声を挙げこれを迎ふ、

  これに反し西軍初めて其東軍なりしを知り、

  切歯扼腕すれども及ばず、ただ左右相顧み唖然として、
                                       う
  自からその迂を笑うのみ、

  西軍は一団が城に入ると初めて会津藩兵と知り、

  地団駄を踏んだ」
  (『会津戊辰戦争』)

≪この時、獅子舞を演じたのは、

   隊長の
高野茂吉、数え30歳を頭に、平均15.7歳の10人。

   茂吉以外すべて十代で、最年少は
藤田与二郎11歳であった≫


真上からのぞけば穴があいている  嶋澤喜八郎

耳に馴染んだ囃子を聞けば、どんな会津兵も味方だとわかる。

一方の西軍は、一体何が起きているのか、呆気にとられ、

ただ拱手傍観、山川隊の隊列を見送るだけであった。

大蔵は河原町郭門から郭内に入り

全員無傷で西追手門から堂々の入城を果たした。

次々の入城で、城内の兵力は3千ほどになり、

士気も大いに高まった。

鬼が泣いている僕は笑っている  福尾圭司

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会津藩は体制の立て直しを図り、

山川大蔵が軍事を統括するこことなり、

指揮系統は大いに旧来の面目を一新した。

この時、佐川官兵衛は城外の戦いの総督を命じられ、

8月29日に決死隊千名を率いて出撃し、

敵を掃討して、

城の南西方面の糧道を確保する任に、当たることになった。

ボタン一つで明日の風も予約する  八上桐子

8月28日夜、容保「官兵衛の出撃を壮」として、
           はいとう
酒を賜り、佩刀を与え、官兵衛も、

「もし利あらずんば、再び入城して尊顔をは拝せず」 

と、その覚悟を示した。

だが官兵衛はその賜酒に沈酔し、

予定時刻の翌日未明になっても起きてこない。

結局、出撃は朝の7時を過ぎていた。

リポビタンD も効かない飲み疲れ  新家完司

融通寺町口から突出した会津藩は、

懐中に遺書を忍ばせ、文字通り決死の攻撃を敢行。

この方面の備前藩、大垣藩の陣地を取り、

さらにその先の長命寺を奪取する。

だが土佐、薩摩、長州などの軍が次々と来援。

会津藩は次第に押され、白兵突撃を幾度も敢行するが、

敵を崩すことができず、

遂に容保から退却命令が発せられた。

この戦闘で、会津藩の精鋭百数十名が戦死。

官兵衛は自軍を城内に退却させるも、

自らは敗戦の責を取り入城せず、以後、城外で手兵を率いて、

糧道確保のための戦いを続けることとなった。

地平線つなぐ長芋 and 数珠  井上一筒

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その官兵衛が大きな戦果を挙げたのは、

9月5日のことである。

薩摩の中村半次郎に率いられた日光口からの西軍部隊が、

若松城下に入ろうとしていることを知った官兵衛は、

砲兵隊を伏兵にして秀長寺付近で待ち構え、

敵が迫るや一斉に攻撃。

西軍は周章狼狽し、多くの軍需品を遺棄して潰乱した。
                                                                                 ろかくひん
官兵衛は銃砲や弾丸、糧食などの鹵獲品を、

城内に送り届けたのであった。

サーカスのテントの中にある絆  赤松ますみ

官兵衛や越後口の戦いから撤退してきた一瀬要人

さらに斎藤一(山口二郎)率いる新選組などの諸部隊は、

城の南西方面で糧道を確保すべく、奮戦し続けた。

だが、西軍が続々と来援。

その数はのべ3万にも上がり、

次第にこの方面も強く圧迫されるようになる。

二度噛んでいるやはり渋柿  武智三成

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