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川柳的逍遥 人の世の一家言
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死ぬときに飾るものなど遺さない  森中惠美子

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(各画像はクリックして拡大してご覧下さい)

頼母の長女・次女自刃前の覚悟の辞世読み合わせ

次女 「手をとりてともに行きなばまよわじよ」

長女 「いざたどらまし 死出の山みち」

                                            みすこ
頼母の家族、妻・西郷千恵、母・西郷律、妹・西郷眉寿子、西郷由布子、
        たえこ        たきこ
娘・西郷細布子、西郷瀑布子6人は、それぞれ辞世を残し、

「官軍兵の恥辱に犯されるよりは武家の子女として操を守る」

ために足元が乱れないように縛り、自決した。

辞世は次の通り。


律 子  「秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高」

千重子 「なよ竹の風にまかする身ながらも  たわまぬ節はありとこそきけ」

眉寿子 「死にかへり幾度世には生きるとも  ますら武雄となりなんものを」

由布子 「武士の道と聞きしをたよりにて  思いたちぬる黄泉の旅かな」

船がくる身をのり出して手を振って  山本昌乃

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          西郷頼母家の広大な屋敷(復元)

「西郷頼母一族の自刃」

若松城の城門近くに、

会津藩の家老の西郷頼母の家老屋敷があり、

この家老屋敷で西郷頼母一族21人が自刃に倒れた。

西郷頼母一族の自刃があったのは、

頼母が国境警備にあたっている時のことである。

藩士の女性や子どもたちも最後の戦いに臨もうとする中、

なぜ、頼母の妻や娘たちは自刃を選んだのか?

慶応4年8月23日(閏1868年10月8日)早朝、

城下町に早鐘が鳴り響き、

藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、

西郷一族21人は西郷頼母の家老屋敷に集まっていた。

血小板に彫り込んである家訓  井上一筒

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    西郷千恵

頼母の母親・西郷律子は、

「女が城に居ては足手まといになる。

されど、敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」


と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。

頼母の妻・西郷千恵子は義母・西郷律子の後に続き、

まだ自害できない幼い我が子を刺した。

そして、妻の西郷千恵子は我が子の死を確認すると、

返す刀で自分の喉を貫き、

会津藩士の妻としての役目を果たした。

こうして、頼母の家族9人が自害した。

また、別室に集まった頼母の縁者12人も、

西郷律子らに続き自害した。

この日、西郷頼母の家老屋敷では一族21人が自殺した。

小刻みに揺らぐ別れのレモン水  藤本鈴菜

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「土佐藩の中島信行の介錯」

このとき、新政府軍・土佐藩の中島信行は、

若松城の近くにある屋敷を一軒一軒、調べていた。

中島は大きな屋敷に鉄砲を撃ち込む。

しかし、反応が無いので、屋敷内を捜索した。

中島が長い廊下を渡って1室の障子を開け、

目にしたのは西郷家の女・子供たち21人の自刃の姿だった。

中に、17~18歳の女が1人まだ息を残していた。

年齢から考えて、

女は頼母の長女・西郷細布子だとされている。

西郷細布子は母に頼らずに自害したが、

急所を外して自殺に失敗し、意識がもうろうとしていた。

西郷細布子はもうろうとしながらも、

障子を開けた中島信行の気配に気づくと、

「敵か、味方か」 と問うた。

ト書を消そう 海のシナリオ  森吉留里惠

中島が「安心せい、味方じゃ」と答えると、

西郷細布子は力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだ。

中島信行は「御免」と言い、西郷細布子の首を落としてやった。

 (このエピソードの主役・中島信行はこのとき土佐藩を脱藩しており、

 会津戦争にも参加していないため、別人の可能性がある)


会津藩士の家族の中には、

頼母一族と同じように新政府軍の辱めを受けることを

危惧して、自害した者が大勢居た。

柴五郎の家族も自害している。

内藤介右衛門の家族も面川泰雲寺で自害している。

戊辰戦争で死んだ会津藩の女性の数は、

計230人に上ったという。

わさびだな涙のツボを知っている  徳山泰子

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明治時代に撮られた西郷頼母の写真

目立つのは伸びるにまかせた長いあごひげ。

「妻も子も失ってー頼母30年の漂泊」

慶応4(1868)年8月、新政府軍が若松城に迫る中、

頼母は陣頭指揮にあたっていた。

新政府軍のあまりの猛攻の前に、

重臣達の中には講和を申し出て降伏しようと言う者が現れた。

それに対し頼母は、

「降伏すれば会津の恥をさらすだけだ」 と激怒する。

しかしこの直後に頼母は城を追われ、

唯一残された長男・吉十郎と共に会津を去ることになった。

(これは敗色濃くなる会津藩で、

  降伏論に激しく反対した頼母の口を封じるためとされている)


明治元年9月22日、会津藩降伏。

戊辰戦争の会津藩の犠牲者は、

女性や老人 子どもも含め3千人に及んだ。

その後、頼母は北海道へ向かう旧幕府軍に合流、

戦いに敗れるが、頼母は生き延び幽閉の身となった。

まんぼう笑う しょいきれぬもの抱きしめて  太田のり子

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頼母の自叙伝「栖雲記」

会津戦争の後に頼母が伝え聞いた

妻や娘たちの凄惨な最期の様子が記されている。


明治3(1870)年、頼母は幽閉を解かれる。

会津藩は事実上解体、藩士たちは方々に離散してしまう。

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頼母は長男とともに各地を転々とすることになり、

頼母は有志が開いた私塾で歴史や漢学を教えた。


明治7年、国の新たな制度で公立小学校が作られ、

頼母の塾が閉じられた。

それでも働いて跡取りの吉十郎を成人させた頼母だったが、

明治12(1879)年に吉十郎が病死。

頼母が会津崩壊とともに切腹をせず、

生き恥を晒すことを選んだのは、

西郷家の血である吉十郎を守ることであった。

が、ここで吉十郎が死んだとて、会津滅亡から12年今更、

切腹の意味もなかった。

切腹はいやだ 首吊りもいやだ  新家完司

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頼母の心の内を伺わせる直筆の唄が残されていている。

そこに記されていたのはかたつむりだった。

その後、頼母が各地を渡り歩いた年月は20年に及んだ。

明治32年、70歳となった頼母は会津若松へと戻り、

ふるさとに居を構えた。

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食べるだけのやっと暮らしだったのか、玄関には戸もなく、

筵を下げただけの長屋住まいだったという。

お金を無心することもあり、

恥を晒してでもふるさとへと戻ってきた頼母は、

妻や娘たちが眠る墓の傍らに、

自らの墓を建てることが最後の願いだった。

明治36(1903)年、西郷頼母 永眠 享年74。

白紙の周辺から一行足らずの私情  山口ろっぱ

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