忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[372] [371] [370] [369] [368] [367] [366] [365] [364] [363] [362]
死ぬときに飾るものなど遺さない  森中惠美子

6cd1372d.jpeg

(各画像はクリックして拡大してご覧下さい)

頼母の長女・次女自刃前の覚悟の辞世読み合わせ

次女 「手をとりてともに行きなばまよわじよ」

長女 「いざたどらまし 死出の山みち」

                                            みすこ
頼母の家族、妻・西郷千恵、母・西郷律、妹・西郷眉寿子、西郷由布子、
        たえこ        たきこ
娘・西郷細布子、西郷瀑布子6人は、それぞれ辞世を残し、

「官軍兵の恥辱に犯されるよりは武家の子女として操を守る」

ために足元が乱れないように縛り、自決した。

辞世は次の通り。


律 子  「秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高」

千重子 「なよ竹の風にまかする身ながらも  たわまぬ節はありとこそきけ」

眉寿子 「死にかへり幾度世には生きるとも  ますら武雄となりなんものを」

由布子 「武士の道と聞きしをたよりにて  思いたちぬる黄泉の旅かな」

船がくる身をのり出して手を振って  山本昌乃

09c56b11.jpeg  52eeab80.jpeg

          西郷頼母家の広大な屋敷(復元)

「西郷頼母一族の自刃」

若松城の城門近くに、

会津藩の家老の西郷頼母の家老屋敷があり、

この家老屋敷で西郷頼母一族21人が自刃に倒れた。

西郷頼母一族の自刃があったのは、

頼母が国境警備にあたっている時のことである。

藩士の女性や子どもたちも最後の戦いに臨もうとする中、

なぜ、頼母の妻や娘たちは自刃を選んだのか?

慶応4年8月23日(閏1868年10月8日)早朝、

城下町に早鐘が鳴り響き、

藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、

西郷一族21人は西郷頼母の家老屋敷に集まっていた。

血小板に彫り込んである家訓  井上一筒

ffd1f715.jpeg
      aba1868c.jpeg
    西郷千恵

頼母の母親・西郷律子は、

「女が城に居ては足手まといになる。

されど、敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」


と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。

頼母の妻・西郷千恵子は義母・西郷律子の後に続き、

まだ自害できない幼い我が子を刺した。

そして、妻の西郷千恵子は我が子の死を確認すると、

返す刀で自分の喉を貫き、

会津藩士の妻としての役目を果たした。

こうして、頼母の家族9人が自害した。

また、別室に集まった頼母の縁者12人も、

西郷律子らに続き自害した。

この日、西郷頼母の家老屋敷では一族21人が自殺した。

小刻みに揺らぐ別れのレモン水  藤本鈴菜

55ba49ac.jpeg

「土佐藩の中島信行の介錯」

このとき、新政府軍・土佐藩の中島信行は、

若松城の近くにある屋敷を一軒一軒、調べていた。

中島は大きな屋敷に鉄砲を撃ち込む。

しかし、反応が無いので、屋敷内を捜索した。

中島が長い廊下を渡って1室の障子を開け、

目にしたのは西郷家の女・子供たち21人の自刃の姿だった。

中に、17~18歳の女が1人まだ息を残していた。

年齢から考えて、

女は頼母の長女・西郷細布子だとされている。

西郷細布子は母に頼らずに自害したが、

急所を外して自殺に失敗し、意識がもうろうとしていた。

西郷細布子はもうろうとしながらも、

障子を開けた中島信行の気配に気づくと、

「敵か、味方か」 と問うた。

ト書を消そう 海のシナリオ  森吉留里惠

中島が「安心せい、味方じゃ」と答えると、

西郷細布子は力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだ。

中島信行は「御免」と言い、西郷細布子の首を落としてやった。

 (このエピソードの主役・中島信行はこのとき土佐藩を脱藩しており、

 会津戦争にも参加していないため、別人の可能性がある)


会津藩士の家族の中には、

頼母一族と同じように新政府軍の辱めを受けることを

危惧して、自害した者が大勢居た。

柴五郎の家族も自害している。

内藤介右衛門の家族も面川泰雲寺で自害している。

戊辰戦争で死んだ会津藩の女性の数は、

計230人に上ったという。

わさびだな涙のツボを知っている  徳山泰子

404f5cd5.jpeg

明治時代に撮られた西郷頼母の写真

目立つのは伸びるにまかせた長いあごひげ。

「妻も子も失ってー頼母30年の漂泊」

慶応4(1868)年8月、新政府軍が若松城に迫る中、

頼母は陣頭指揮にあたっていた。

新政府軍のあまりの猛攻の前に、

重臣達の中には講和を申し出て降伏しようと言う者が現れた。

それに対し頼母は、

「降伏すれば会津の恥をさらすだけだ」 と激怒する。

しかしこの直後に頼母は城を追われ、

唯一残された長男・吉十郎と共に会津を去ることになった。

(これは敗色濃くなる会津藩で、

  降伏論に激しく反対した頼母の口を封じるためとされている)


明治元年9月22日、会津藩降伏。

戊辰戦争の会津藩の犠牲者は、

女性や老人 子どもも含め3千人に及んだ。

その後、頼母は北海道へ向かう旧幕府軍に合流、

戦いに敗れるが、頼母は生き延び幽閉の身となった。

まんぼう笑う しょいきれぬもの抱きしめて  太田のり子

9d1dc3cc.jpeg

eeb6b530.jpeg


頼母の自叙伝「栖雲記」

会津戦争の後に頼母が伝え聞いた

妻や娘たちの凄惨な最期の様子が記されている。


明治3(1870)年、頼母は幽閉を解かれる。

会津藩は事実上解体、藩士たちは方々に離散してしまう。

40ecbd98.jpeg

頼母は長男とともに各地を転々とすることになり、

頼母は有志が開いた私塾で歴史や漢学を教えた。


明治7年、国の新たな制度で公立小学校が作られ、

頼母の塾が閉じられた。

それでも働いて跡取りの吉十郎を成人させた頼母だったが、

明治12(1879)年に吉十郎が病死。

頼母が会津崩壊とともに切腹をせず、

生き恥を晒すことを選んだのは、

西郷家の血である吉十郎を守ることであった。

が、ここで吉十郎が死んだとて、会津滅亡から12年今更、

切腹の意味もなかった。

切腹はいやだ 首吊りもいやだ  新家完司

0fba6217.jpeg

頼母の心の内を伺わせる直筆の唄が残されていている。

そこに記されていたのはかたつむりだった。

その後、頼母が各地を渡り歩いた年月は20年に及んだ。

明治32年、70歳となった頼母は会津若松へと戻り、

ふるさとに居を構えた。

5cab4b93.jpeg

食べるだけのやっと暮らしだったのか、玄関には戸もなく、

筵を下げただけの長屋住まいだったという。

お金を無心することもあり、

恥を晒してでもふるさとへと戻ってきた頼母は、

妻や娘たちが眠る墓の傍らに、

自らの墓を建てることが最後の願いだった。

明治36(1903)年、西郷頼母 永眠 享年74。

白紙の周辺から一行足らずの私情  山口ろっぱ

拍手[3回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開