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喉仏ふたつの影の置炬燵 山本早苗
「佐川官兵衛」ーエピソード
天保2年(1831)9月5日。
家禄300石の佐川直道の長男として、
会津若松城下に生まれる。
性格は直情的だが、槍の名手で勇猛果敢、
人情に厚く、多くの藩士から慕われた。
文久二年(1862)藩主・松平容保が京都守護職に就くと、
それに従い上洛する。
元治元年(1864)には、
藩士の子弟を選んで「別撰隊」を組織し、
隊長として、京都市中の警護にあたる。
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鳥羽・伏見の戦いで、伏見街道で薩長勢を迎え撃った時、
その壮絶な抜刀切込みや、
また、銃弾により眼を負傷したにもかかわらず、
ひるまず血まみれた阿修羅のごとき形相で、
指揮を執っていたことから、
「鬼の官兵衛」と呼ばれるようになり、
薩長の志士を震え上がらせたという。
その戦いに破れ、ついに会津藩も降伏。
官兵衛は下北半島へ追放され、謹慎生活を送る。
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江戸幕府が倒れ、明治維新となり、
廃藩置県が行われると会津藩に帰郷。
その後、官兵衛は、多くの藩士をつれて、
東京の警視局に奉職。
一等大警部の職を得るが、大藩の家老としては低い待遇に、
藩士たちは怒るが、官兵衛はこれをなだめ、
月給五十円のうちから一部を、
藩主に送るなど忠臣ぶりをみせた。
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明治10年(1877)の「西南の役」が起きた時、
麹町の警察署長をしていた官兵衛は、
西南の役に参戦するよう、政府から命ぜられる。
当時の官軍は、農民を中心に組織されており、
基盤が弱かったため、
士族の警察隊が必要だったのである。
そして、官軍として戦った官兵衛は、阿蘇の地で散る。
明治10年(1877)3月18日、46歳。
辞世の句は、
"君が為都の空を打ちいでて 阿蘇山麓に身は露となる"
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