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川柳的逍遥 人の世の一家言
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私が私であるための指紋  三宅保州

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「八重の生まれた山本家」

裕福な暮らしではないが、

生真面目な父・権八をはじめ、

面倒見のよい母・佐久、自慢の兄・覚馬

年の近い弟・三郎とともに八重は育つ。

時に射撃の音が響く家では、笑い声も絶えなかった。

「八重のファミリー」

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山本権八ー八重の父

山本家の通りを挟んで、

向かい隣4軒目にあった永岡家の四男で、

八重の母・佐久とは幼なじみ。

19歳で山本家の養子となり、

名を繁之助から権八と改める。

山本家の家督を継いで、砲術師範役となるが、

十人扶持(1日米五升)で決して裕福ではなかった。

会津戦争時、すでに隠居をしていたが、

50歳以上の男性からなる玄武隊の一員として出陣する。

父あわれ太田胃酸が膝に散り  時実新子

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      山本佐久ー八重の母

会津藩砲術師範役の山本左兵衛の一人娘。

16歳の時に3歳年上の永岡繁之助と結婚し、

三男三女を産む(次男と次女は早逝)

おおらかで気さくな性格で、貧乏暮らしも苦にせず、

困っている人がいると放っておけずに世話をした。

城下では賢夫人として評判で、

会津で初めて種痘が行われた時、

敬遠する領民たちに根気よく効用を説いてまわり、

疱瘡の流行を防いだ。

覚馬は「母の聡明さにはとても及ばない」と語っている。

母と子がだまって母が折れてくる  桜井六葉

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山本覚馬ー八重の兄

八重があこがれた17歳年上の兄。

生傷が絶えないほどのわんぱくな少年であったが、

辛い家事を平然とこなし、佐久を助けた。

日新館に学び、

文武に秀で弓馬槍刀の師伝を得て褒章を受けた。

23歳の時に江戸に遊学して、洋学を学び、

先進的な見識を持つに至る。

日新館教授となり蘭学所を開設し、

軍事取調役兼大砲頭取に抜擢された。

割烹着つけた夫を見直そう  柚木奏子

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山本うらー覚馬の妻

安政4年(1857)頃、樋口家から覚馬に嫁ぐ。

長女・初子を授かるが夭逝。

文久2年(1862)に次女・みねを産むと、

ほどなく夫・覚馬は藩命で上洛し、留守を預かることに。

「会津戦争」では、城中の足手まといになることを恐れ、

避難することを望んだが、

八重に説得され、ともに籠城する。

戦友と呼びたい妻と幾山河  小泉国男

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山本みねー覚馬の娘

文久2年(1862)覚馬・うら夫妻の次女に生まれる。

ほどなく父・覚馬は上洛したため、

幼少期の父との触れ合いはほとんどなかった。

会津戦争時は7歳で、

八重やうら、佐久と行動をともにしたと思われる。

ユーモアを覚え泣かなくなった次女  桑原伸吉

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山本三郎ー八重の弟

八重の2歳年下の弟。

幼い頃から八重にくっついて遊び、八重も心底可愛がる。

一人前の会津藩士になるため鍛錬に励み、

藩命で京都勤めとなる。

「鳥羽伏見の戦い」で負傷し、海路江戸に戻るが、

傷がもとで芝新銭座にあった藩邸で死去。

会津の山本家には三郎の遺髪と衣服だけが戻り、

八重はその衣服を着て、籠城戦に参加する。

弟が好き 弟も姉が好き  平良航海子

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川崎尚之助ー八重の夫

八重の最初の夫。

但馬出石藩に仕える医家の家系に生まれ、
     せいみ
蘭学と舎密術を学ぶ。

砲術家・佐久間象山の塾で知り合った覚馬が惚れこみ、

会津に連れ帰って日新館の蘭学所教授に就けた。

山本家に居候し、慶応元年(1865)頃に八重と結婚。

「会津戦争」では籠城戦に参加し、

銃隊や砲隊の指揮をするなどの活躍をする。

計算の下手な家族の灯が丸い  渡辺静江

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