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川柳的逍遥 人の世の一家言
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腹のたつときにはたてよ鰯の目  森中惠美子

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      孝明天皇の歌二首と宸翰(しんかん)
 やわ
"和らくもたけき心も相生の まつの落葉のあらす栄へん"
もののふ
"武士と心あはしていはほをも 貫きてまし世々の思ひて"

「八月の政変」とは、文久3年(1863)8月。  

孝明天皇中川宮に「会津藩・薩摩藩」が協力する形で、

京都から長州藩を中心とした尊王攘夷派を追放した事件。

長州藩は攘夷実行のため、天皇の大和行幸を計画。


これに対抗するための公武合体派である会津・薩摩の

両藩が起こしたクーデター。

この結果
三条実美三条西季知ら急進派の公卿が長州に下った。

どないにもならなくなったので消える  竹内ゆみこ

「八月の政変」

馬揃いの日から13日後の8月13日、

大和行幸の詔が下される。

天皇が大和の神武陵・春日社に行幸し、

攘夷祈願を行った後に、伊勢神宮に向かうというものだった。

時に孝明天皇は妹・和宮を将軍・家茂に嫁がせ、

公武合体による朝廷と幕府の共存を願い、

激派公家に朝廷が牛耳られる現状を憂えていた。

曲がるべき辻はいくつもあったのに  清水すみれ

孝明天皇の行幸は、表向きであり、

実はその間に御所に火を放ち、

帝を戻れなくして関東に下向させる。

その後、箱根で倒幕の挙兵をして、

江戸へ攻め込むという長州派の陰謀だった。

容保は苦慮する。

この情報に乗って薩摩と組んだら、

一歩間違えば、朝敵の汚名を着せられる畏れがあった

ちょっと待ってそっちは聞こえぬ方の耳  安土理恵
                                                       大和行幸が決行されれば、幕府にとっても一大事。

容保は将軍後見職の一橋慶喜等と図り、

尊攘激派一掃を狙う。

容保は、交代で上京してきた新参の藩士に加え、

会津に戻る途中の千名の藩士も呼び寄せ、

二千人を御所の警備にあたらせることにした。

枝分かれしたのか明日が尖ってくる  谷垣郁郎

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   八月の政変

8月18日、午前零時。

容保の号令一下、会津藩士二千人は、

黒谷の本陣を出て、御所へ向かった。

行列の最後尾には、斉藤一たち壬生の浪士たちもいた。

やがて、会津・薩摩の両藩士たちは、

御所の門という門を閉じて兵で固めた。

会津の旗が翻り、

全員が配備に就いたのを見計らって空砲が放たれた。

砲声を合図に、在京の諸侯や公家たちが集められ、

中川宮が帝の勅書を読み上げた。

この道を行かねばならぬ赤い月  森田律子

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勅書は、長州を御所の警備からはずし、

三条実美らの参内を禁止、

追って取り調べるというものだった。

異変に気づいた長州藩は、武装して河原町の藩邸から、

自分たちが警固を担当していた境町御門へ駆けつけると、

門前に大砲二門を据えて陣を敷いた。

門前に立った久坂玄瑞が、

中にいる会津藩士に怒鳴った。

砂時計くるりそしてそしてを繰り返す  太田のりこ

久坂 門を開けれ!ここはわが藩の持ち場じゃ!

覚馬 長州は禁門守護の任を解がれだ。早々に退散せよ!

会津・薩摩の連合軍と、長州のにらみ合いが続いたが、

夕刻になると長州は引き上げた。

会津、薩摩の連合軍が御所を守り通したのだ。

負け犬の足ふるさとの長い橋  奥山晴生

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長州藩は京都政界から失脚し、

三条実美ら激派公家7人は長州に逃れた。

孝明天皇は、自分の悩みを払拭してくれた

容保の忠誠を喜び、

公武合体の平和な世をともに実現しようと、
                         しんかん
詠んだ歌二首を納めた宸翰を密かに贈った。

以後、

この宸翰を心の支えにした容保は、

薩長新政府軍に鶴ヶ城を攻められた時も、

会津が決して「賊軍でない」という

何よりの証として、肌身から離さなかった。


だあれにも見られずそっと土になる  嶋澤喜八郎

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「大河・ネタばらし」

お国入りした照姫を迎えるために、

八重たち会津藩の子女は、

黒河内道場で薙刀の稽古をしていた。

そこに西郷頼母の妻・千恵がやってくると、

久栄綾絵が進み出た。

頼母は家老職を免じられ蟄居中、

「その妻が公の場所に来るとは何事か」

と非難して道場を出るように促した。

だが、千恵は蟄居の身でも、

「夫の忠誠心は変わらない」と意に介さない。

そこに照姫がやってくる。

待つだけの場所に並んだ固い椅子  八上桐子

稽古がはじまると、照姫は、八重と千恵に目がいった。

必死で薙刀を振るう二人の姿が、

照姫になにかを感じさせたのだ。

稽古が終わり、照姫が訓示を垂れた。

その照姫の話に、千恵が、会津の子女たちが涙した。

八重も同じで、

なんとしても照姫のお側に仕えたいと思った。

そして、藩士の子女から、

照姫の右筆を選ぶという話があり、

八重が「右筆」の最右翼だと噂が立った。

いつになく私の場所が騒がしい  北原照子

時尾たちと一緒に、尚之助から、

漢書の読み書きを習っていた八重は、

やんわり否定しながらも、まんざらでもなかった。

誰もが八重が選ばれると思っていたが、

指名されたのは高木時尾だった。

前のめりしたのは春の土踏まず  前中知栄

【豆辞典】-右筆

武家の秘書業務や文書作成を担当する文官。

鎌倉時代など中世においては文書の代筆が主な業務

だったが(文盲の武士も多かったため)、やがて公文書や

記録の作成といった事務官僚的な役割をはたすようになる。


右筆とも表記する。

一途とは柩には 窓 いりません  田中博造

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