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川柳的逍遥 人の世の一家言
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嘘に嘘まぶしてかぎりなく濁る  たむらあきこ

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       雨中の馬揃え

「尊攘激派」

京都守護職に就任した松平容保は当初、

井伊直弼の「安政の大獄」による強権政治の失敗を,

教訓として、宥和策をとる。

だが激派浪人たちは図に乗り、「天誅」と称して、

標的とする相手の家臣、出入りの小者までも襲って、

その耳、手首、さらに首を落として、

屋敷に投げ込むなどの狼藉を繰り返した。

また、尊氏ら足利三将軍の木像を等持院から奪い、

首を切り落として、三条大橋下に獄門台を据えて晒し、

「今世にこの奸賊に超過するものあり。

  その罪悪足利の右に出ずる」


と徳川将軍家を誹謗・弾劾する捨札を掲げた。

騒いでいるのはキプロス島の蝦蛄  井上一筒  

「軍事演習ー馬揃え」

容保は尊攘激派の果てしない無謀な抵抗に宥和策を捨て、

「新選組」を登用するなどして、

市中見回りを厳重にする強硬策にうって出た。

この容保を目の仇にしたのが尊攘激派の公家であった。

当時、長州藩と結んだ公家たちが、

朝廷での主導権を握っていた。

彼らは上洛した14代将軍の家茂に攘夷決行を迫り、

賀茂社への天皇の攘夷祈願に随従させるなど、

権勢を振るい、また容保失脚の機会を狙った。

感情の正面衝突おお危な  柴本ばっは

三条実美

京では三条実美が策略を巡らし動いていた。

慶喜が江戸に戻ったまま、一向に攘夷を決行しないので、

容保を江戸へ下向させて檄を飛ばすべく、

その旨、孝明天皇の勅書を出したのだった。

孝明天皇は、自分の意志を無視したやり方に憤慨し、

三条や長州派の公家には内緒で、近衛忠煕を呼びつけた。

勅書を受け取った容保も、いぶかっていた。

この時期に江戸へ下向するなど考えられなかったからだ。

そこに本物の勅書が届いた。

勅書は、孝明天皇が、

「会津を、容保を、頼りにしている旨」が書かれてあった。

容保は読みながら涙を流し、命をかけて帝を守る決意をする。

青や角かなぐり捨てて君の前  酒井かがり

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      建春門前

文久3年(1863)7月、

なお彼らは、天覧の軍事演習である「馬揃え」で、

容保に恥をかかせて失脚させようとした。

容保は、

「人心が不安な昨今御所の傍らで武事を演じるのはよくない」

と反対したが、彼らは強引に押し切った。

仕方なく会津藩は、御所で軍事訓練を披露することに。

天覧の馬揃えは、280年前に織田信長が行って以来で、

会津藩にとっては名誉だったが、

当日は雨で順延となった。

翌日も雨。三日目も雨が降った。

この日朝早く延期の達しがあったので、

容保は藩士を解散させた。

ところが御前十時、朝廷から

「雨中で馬揃えをやる」 と急に決行の知らせが届いた。

一秒の休み欲しいと言う時計  平田元三

「無理だ」と返答しても「ならぬ、やれ」との命のため、

容保は、ふたたび藩士たちに招集をかけた。

当時会津藩士には、薩長土の藩士のように、

祇園などで遊ぶような者はおらず、

堅物なほど真面目で、休みでも宿舎にいて、

緊急の召集にも強い団結力をみせた。

夕方四時、御所建春門前に、

甲冑具足をまとった会津兵が集結し、容保の合図のもと、

一糸乱れぬ長沼流軍法による、実戦さながらの

練兵を披露した。


この時、容保が着ていた陣羽織は、

帝が与えた衣で作ったものだった。

鍵穴のむこうで蜘蛛になる男  清水すみれ

この豪壮かつ規律ある演習に、孝明天皇は感激する。

藩士が集まらず、右往左往する姿を露呈させて、

職務怠慢のかどで、

容保を追放しようとした激派公家の思惑は外れた。

後ろ手で寒い雑音閉めました  美馬りゅうこ

【豆辞典】「馬揃え」

騎馬を集めてその訓練の状況や優劣を競いあった武家行事。

軍事パレード的な意味合いも持つ。

1184年の源義経による駿河浮島原、

1581年の織田信長が行なった京都馬揃え。


1632年に品川宿で徳川家康が行なったもの、

そして1863年に松平容保が孝明天皇の勅命によって、

行った馬揃えが有名。


国滅ぶ時も行列崩さずに  板垣孝志

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