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川柳的逍遥 人の世の一家言
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針山の身の置きどころ泣きどころ  森中惠美子

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「禁門の変へ」

8月18日のクーデターの直後、

尊攘激派の脱藩浪人たちが組織した天誅組は、

大和や生野などの戦いに敗れて地下に潜った。

長州の志士たちも、復権を目指して京都に潜伏し、

不気味な動きを見せた。

会津にいた山本覚馬が京都に召集されたのは、

世情が一段と混迷を増す、

元治元年(1864)2月のことだった。

思い切り舞おう やがては石になる  奥山晴生

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覚馬は砲術師範の家に生まれ、

軍事取調役兼大砲頭取として百五十石を食み、

日新館の蘭学所の教授をしていた。

佐久間象三、勝海舟らに学び、

西洋文明を積極的に取り入れることを、

是としていた覚馬は、

「軍艦建造や砲台の設置をすすめ、

  藩の武器も刀槍中心から脱却し、

  砲銃中心の西洋軍制に改革をすべきだ」


と主張していた。

だが保守的な会津にあって、その意見は軽視された。

覚馬は旧守派を痛烈に批判して、

一年間の禁足処分を食らうなどもしていた。

読み過ぎて通りを悪くする小骨  三村一子

上京した覚馬は、大砲・鉄砲の教練にあたるとともに、

藩士のための洋学所を開き、

藩外の者にも門戸を開いた。

覚馬は以降、会津には帰らず、京都を終の栖として、

新島襄を助けて同志社経営に協力するが、

その覚馬の教育者としての原点は、

他藩の士も受け入れた、

この洋学所にあったといえる。

点滅にいよいよ華やぐ膝頭  酒井かがり

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元治元年(1864)6月、

京都に潜伏した長州の志士たちが、

他藩の脱藩浪人と結託して、

風の強い日に市中に火を放って、

中川宮、松平容保を殺害し、孝明天皇を、

長州に連れ去るという密謀をめぐらしていた。

その下準備の会合が、

5日夜に行われるとの情報を得た「新選組」は、

局長の近藤勇以下30人の隊士が旅籠・池田屋を襲撃、

周囲を会津兵などが包囲して、

志士7人を斬り殺し、23人を捕縛した。

マツタケを警察犬が嗅いでいる  井上一筒

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この池田屋事件は、新選組の名を高らしめる一方で、

長州とその一派を激怒させ、

7月19日の禁門の変
(蛤御門の変)を誘発した。

長州は「薩賊会奸」を叫んで3人の家老が、

1600人を率いて上洛し、

他藩同士も加わり、三方から御所を攻めた。

迎え撃つ幕府側は、

禁裏守衛総督になっていた慶喜のもと、

会津・薩摩・桑名・福井・彦根などの諸藩が御所を守った。

この時、肝心の容保は、

重病を患い指揮がとれなかった。

鴉止まれりバーコード付きの門  筒井祥文

幕府軍は伏見、山崎方面から攻めた長州軍を撃退したが、

嵯峨方面から迫る長州勢に蛤御門まで攻め寄せられた。

長州勢は目くらましの砂を詰めた大砲を放って、

銃を連射し、

刀槍隊主体の会津兵を突き崩して内門に迫る。

銃弾は御所内をも飛び交い、

睦仁親王(後の明治天皇)が気絶し、

公家はあたふたして、天皇を比叡山に移そうとした。

痛み痒みギブスは何も答えない  山本芳男

孝明天皇の窮地を知った容保は、

歩行困難な体にもかかわらず、

慶喜と弟・松平定敬(桑名藩主・京都所司代)に、

両脇を抱えられながら天皇に拝謁し、

その袖にすがって引き留めた。

天皇は容保の必死の嘆願に、

「朕の身はそなたに任せよう」

と言って、御所に留まったとされる。

疑問符がからんだまんまケセラセラ  山本昌乃

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