きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中 大西泰世
日本初の女子留学生たち
左から、永井繁子、上田貞子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松
「文明開化の女性たち」
明治政府は一刻も早く日本が欧米諸国と肩を並べるために、
優秀な若者を次々と欧米各国に送り、
進んだ文化や技術を取り入れようとした。
女性もその一環として明治4年、
女性教育に感心のあった
黒田清隆の独断で、
津田梅子や山川捨松ら、5人の女子をアメリカに留学させた。
しかしその翌年の明治5年に
女性の断髪を禁止する条例が出された。
髷を切り落とす断髪は、
「文明開化」の象徴であった。
だがそれは男性だけで、
「女性は日本髪を結うべきだ」
という文章がこのころ、盛んに新聞に取り上げられている。
文明の清潔好きに落とし穴 佐藤后子
風刺画(ビゴー)ーフランス
ビゴーは浮世絵に惹かれ明治15年から17年間を日本で過ごし、
日本の伝統美に敬意を持っていたが日本の近代化、欧化政策は鋭く批判した。
(風刺画ー履きなれない靴を脱ぎ捨てている。 鏡に映った紳士淑女が猿と犬になっている)
明治15年に
津田梅子たちが日本に帰ってきても、
男性と違って、彼女たちに用意されたポストはなく、
女子の留学もたった一回で終わってしまった。
当時の日本では、
女性は結婚しなければ一人前とみなされないという風潮が強く、
大学を卒業して帰国した留学生3人のうち2人までが、
活躍の場を求めて高名な男性と結婚している。
つまり、女性が何かことを成そうとするには、
高名な夫の力が必要だった。
鼾が聴こえるタウンページの奥 桑原伸吉
大隈重信夫人綾子
その一方で、高名な男性と結婚した身分の高い女性は、
それまではほとんど、人前に出ることはなかったが、
欧米の
「婦人同伴」という慣習に倣って、
夫人達にも社交の表舞台に出ることが要求される。
鹿鳴館でダンスをしようにも、ダンス以前に多くの女性たちは、
洋装に戸惑った。
なかでも彼女たちを悩ませたのはハイヒールだった。
なれない靴をはいたため足には靴ずれができ、
しばらくは靴がはけない状態になったという。
大隈重信の夫人・
綾子が大の洋装嫌いで、
和服で
鹿鳴館に登場するとこれを真似する女性が増えた。
傷口に盛りたい塩を買いにゆく 清水すみれ
跡見学校校舎正面 (神田中猿樂町)
東京神田に女学校として開校。
生徒は4・5歳から17・8歳の上流名門の子女で、
開校当初の科目は、
国語、漢籍、算術、習字、裁縫、挿花、天茶、絵画、琴であった。
当時の急進的な欧化政策とは異なり、日本の伝統的な文化も取り入れながら、
情操教育にも重きを置く教育方針は多くの支持を得た。
あとみ かけい
跡見学校は、明治8年、
跡見花蹊が開校した。
叱り飛ばすのも教育だ知ってるか 矢須岡 信
「維新後のお嬢様が通う学校」
女性たちが教育をうける学校として明治初年には、
東京の跡見など20校余りが開校し、女子教育が行われるようになった。
こうした学校では現在の学校で学習するような地理や歴史、
英語の授業などもあったが、良家のお嬢様であればあるほど、
習字や裁縫、手芸など、
従来から女性のたしなみとされる学科の成績がよかった。
焼き方三年煮方で五年食方終生 山口ろっぱ
跡見花蹊 (1840~1926)
跡見花蹊は摂津国で寺子屋を営むちちのもとに生まれ、
幼児より学問に興味を持ち育つ。
20歳のとき父の姉小路の出仕を受けて私塾を継ぎ「跡見塾」を開いた。
こうしたお嬢様は、卒業までに結婚が決まらないのは恥とされる傾向が強く、
お嬢様の結婚がお嬢様の意志とは関係のないところで決められるのは、
江戸時代と変わりがなかった。
ただし明治時代になって変わったのは容姿が重視されるようになったこと。
雑誌には、不美人と結婚すると生れてくる子供も不美人になるので、
美人と結婚すべきと主張する記事が掲載されるほどであった。
学校に嫁候補となっている女性を見に来たり、
写真を見たりして選ぶことも盛んに行われた。
0時にはさや豌豆になるダイヤ 井上一筒
東京三越呉服店の裁縫部(明治42年)
「一般庶民の教育事情」
では東京のお嬢様学校ではなく、一般庶民はどうかというと、
農家にとって子どもは大切な労働力であったため、
子どもを学校にやる親は少なかった。
学校も初期のころは、江戸時代の寺子屋の看板を、
付け替えたようなものだったこともあって、親も女の子には学問よりも、
裁縫など実生活で役に立つ技術を身につけさせたがっていた。
晴れた日にわたしの意思を干してやる 佐藤美はる
女の子には、
「女性の教員が教育にあたるべき」 という容貌が強く、
女性教員の育成が急務となった。
当時、女性の職業は限られており、教師はその代表的なものであったが、
働く女性は結婚できない、経済的に恵まれないなど、
常に負のイメージがつきまとった。
※ 江戸時代には場合によっては女性にも財産相続が認められていたが、
明治31年に民法における
「家長制」が確立すると、
財産のすべてを実質上、長男が相続することとなった。
明治の女性は見方によっては、それまでの時代よりも、
社会進出を阻まれ、「男性の付属品である」 ことが、
求められるようになったといえるだろう。
正しい事は正しい黄色いジャンパー 田中博造[5回]