儀礼的歯ぎしりだけを登記して 井上一筒
三木城跡にある三木合戦の様子を描いた絵図
(画像は拡大してご覧下さい)
ここに抜粋の絵図を参照しながら三木合戦のあらましをお楽しみください。
三木城本丸
本丸は現在、上の丸公園として残る。
公園内には長治の辞世の歌碑がある。
「今はただうらみもあらじ諸人の いのちにかはる我身とおもへば」
(自分が死ぬことにより長年親しんできた多くの領民の命が、
救われると思えば、何の恨みもない)
くしゃくしゃの紙はひろげてから捨てる 森田律子
「三木の干殺し」
上月・福原二つの城を攻略した後、
信長との協調を約束していた播磨の地侍たちは次々と
毛利に寝返った。
強敵は播磨最大の勢力、三木城の
別所長治だ。
一度は信長に拝謁しながらも、いつ寝返ることもできるようにと、
長治は三木城で戦闘態勢を固めていたうえ、
勢いづいた毛利方は、動乱の播磨に本隊を送り始めた。
じわじわは山芋的で百足的 石田柊馬
加古川加須屋館に於ける軍議
中央が秀吉、別所賀相(山城守)の顔も見える。
秀吉は、加古川城に播磨の諸豪族を集め、毛利攻めに関する軍議を行った。
軍議には別所長治の名代として、叔父の別所山城守吉親(別所賀相)
が参加していた。
秀吉はすぐさま開城させたばかりの上月城に収まった
尼子勝久に、
迎撃を命じたが、強力な毛利勢には歯が立たない。
援軍を要請するも、他の地域との戦闘に追われていた
信長には、
戦力に余裕はなく、あっさりと断られた。
残った道は、三木城を陥落させ、
播磨を統一すると同時に毛利の勢いを絶つのみである。
問題は、強固に抵抗する三木城をどう攻略するかだ。
切り取って切り取り線ができあがる 兵頭全郎
三木城内の軍評議
中央が別所長治・その前に別所賀相
播磨に信長方・羽柴秀吉が進出して来ると、長治は信長に従属したが、
賀相は加古川での会談で秀吉と衝突、長治を説得して信長に反乱を起こす。
親織田派であった重宗は浪人となった。
秀吉が一度包囲を解き退いた後も、
信長の軍勢が入れ替わり三木城を攻めようとしたが、
激しい攻撃にあい手も足も出ない。
その間、秀吉は
官兵衛そして、官兵衛の盟友であり、
もう一本の懐刀である
半兵衛とともに、次なる策を講じていた。
三木城へのすべての補給路を寸断しつつ周辺を幾重にも囲み、
自滅をまつ
「兵糧攻め」だった。
天正6年
(1578)に再び秀吉軍に包囲された三木城は、
22ヶ月もの間、補給も無い完全な孤立状態にさらされることになる。
ブレーキが効き過ぎザクロ割れぬまま 嶋澤喜八郎
馬上の長治を守る別所賀相とその妻
この間に
官兵衛は有岡城に幽閉され、
半兵衛は病死を遂げる。
信長の有岡城攻撃の隙をついて牢獄から官兵衛の姿を見て、
秀吉は号泣したという。
頭髪は抜け落ち、痩せさらばえて足も動かなくなっていたのだ。
回復した官兵衛に待っていたのは、
「三木城開城」の仕上げである。
条件はひとつ、
別所長治の首ひとつ差し出せば、
残りの者は解放する・・・。
巻き爪の駱駝を馬と言いくるめ くんじろう
三木城大手門の合戦
天正8年正月、三木城合戦も大詰めを向える。
別所賀相の妻も果敢に戦っている。
交渉に赴いた官兵衛が見た三木城内は、
虚ろな目の痩せ細った者たちがうずくまる、異様な光景だった。
降伏した長治は切腹し、約束通り他の者は解放された。
「三木の干殺し」と語り継がれる凄惨な戦いだったが、
結果として切りあう戦に比べ、犠牲者の数ははるかに少なかったのである。
トンネルを抜け出たようだファンファーレ 笠嶋恵美子
羽柴秀吉三木城包囲の図
「三木城の戦い」-概要
別所長治が織田方から離反して居城の三木城に篭城したの時のこと。
三木城は三方を崖に囲まれた天然の要害であった。
そこで
秀吉は、
半兵衛の献策と
官兵衛の助言によって、
力攻めをすることを避け、
「兵糧攻め」という手段だった。
しかし、その間に
尼子勝久が死守する
上月城が、
毛利軍5万に包囲されるなど戦局が悪化し、
それを見かねた信長が、
織田信忠・明智光秀・滝川一益・荒木村重らを
送り込んだ。
ところが彼らは、農民あがりの秀吉の下に入ることを嫌がったため、
戦況は何の進展もしなかった。
結局、信長の指令で上月城は見捨てることになり、尼子氏は滅ぶ。
手を繋ぎ爪を裏切り離れゆく 酒井かがり
秀吉、三木開城の申し入れを諾して城内へ酒肴を贈る
さらに、この合戦に従軍していた
荒木村重が、
突如として毛利方に寝返った。
寝耳に水だった
官兵衛は、
あわてて単身で村重の居城・有岡城へ説得に向かうが、
逆に捕らえられ地下牢に幽閉されてしまう。
もう一人の軍師・
半兵衛も病気養生のため陣を離れ、
参謀役を欠いたことが、
この合戦を約2年にわたる長期戦にしてしまった。
手の平で転がしている昼の月 合田留美子
長治最期の酒宴
城中で、秀吉から贈られた酒樽と肴で最後の宴があり、
その後古式通り、まず長治の3人の子を刺殺、
各正室らは懐剣を口にくわえ突っ伏して絶命した。
有岡城の落城後、救出された
官兵衛は、
幽閉中に没した
半兵衛にかわって、三木城攻略に尽力する。
幽閉と前後して官兵衛は、
宇喜多直家を調略し、
陸路での毛利氏からの補給路を断ち、三木城の完全孤立に成功する。
やがて、兵糧が尽きた三木城は、
馬や牛を食べ、ネズミや木の根や、土塀の中の藁までも、
口にしたほど、飢えに苦しみ大勢の餓死者を出した。
戦う気力を失った
長治たちは、城兵の助命と引き換えに開城に応じ、
自分たちは切腹して果てたのである。
恐ろしいものを見すぎた月の暈 木本朱夏
別所長治割腹 (うしろは弟・友之〔21歳〕)
城主の長治・弟の友之・叔父の吉親の切腹と引き換えに、
3千人ほど残っていた城兵の命を助けるというものであった。
長治塚 (雲龍寺にて長治と妻・照子の供養)
雲龍寺では毎年1月17日の別所長治の命日に、
籠城した兵士が壁土の藁をも食べたとの言い伝えから 、
藁に見立てた「うどん」を食べて当時を忍ぶ会が催されている。
静止画像の視線の先をふと思う 籠島恵子[4回]
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