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川柳的逍遥 人の世の一家言
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彼岸花歩幅合わせてくださいな  岩根彰子



「荒木村重」と妻「たし」の歌碑

"思いきやあまのかけ橋ふみならし なにはの花も夢ならむとは"

「果たして思ったであろうか、これまで自分のやってきたことは、
 漁師が間に合せの、仮橋を踏んで平らにするように、
 同じところを何回も往ったり来たりしているようなもので、
 難波の花も結局は夢のまた夢であろうとは」

"霜かれにのこりてわれは八重むくら なにはのうらのそこのみつくに"

「霜枯れの冬にのこる私は、幾重にも生い茂った雑草のようなもので、
  難波の水底の屑になってしまうのだなあ」

この道で良かったかなと自問する  原 洋志



  文禄伊丹の図

「有岡城の悲劇」

別所の叛乱は収まらず、三木城の攻防は続いている。

その最中、宇喜多直家の調略は成ったものの、事態は悪化した。

信長によって摂津国を任されていた荒木村重もまた、

叛旗を翻したのである。

深呼吸辛い話はみんな吐く  小豆沢歌子  

      

「信長は他国の者が恭順してくる時は、それなりの待遇を用意する。
         れいか
 だが一度、隷下となるや、牛馬のようにこき使う。

 そればかりか言うことを聞かぬ者に対しては、

   何の憐憫も与えない。

 尼子勝久、山中鹿之助を見よ。

 あれが信長の意に沿わぬ者の最期だ。

 尼子だけではない。赤松政範はどうであったか。

 政範が死しても尚、信長は許さず、城兵悉く首を刎ね、
    けんぞく
 一家眷属の果てまでも斬殺した。
             はりつけ
 子供は串刺し、女は磔。 

   その酷さはどうだ。誰の指図だ」


これが村重の言い分である。

無意識と意識を揺れる象の鼻  八上桐子   



官兵衛の考えは異なった。
                  おうさつ
確かに見せしめのために、鏖殺せざるを得なかったことはあった。

だがその時、秀吉は大粒の涙を溢れさせ、

念仏を唱えるようにして処置していた。

官兵衛はそうした秀吉をまのあたりにし、この男は本物だと思った。

半兵衛が「生涯を掛けるに足る器」と認めただけのことはある

と感じ入った。

鏖殺】=皆殺しにすること。

懐の深さにひかれついて行く  河村啓子

そんな秀吉の崇敬するのが秀吉ならば、

己の全身全霊をもって織田家に賭けてみよう。

信長の果たそうとしている国造りに貢献してみよう。

その国を見てみたい。

だから不本意ながらも、

多少の犠牲は止むを得ないと自身に言い聞かせたのだ。

しかし、有岡城の村重はそうではない。

「信長の本性は魔であり、それに従うのは悪の道だ」

と判断していた。

黒黴か忍者なのかがわからない  たむらあきこ    



「信長には血も涙もない。秀吉とて同様じゃ。

 信長が進めと命ずる道は、
         ききょく
 どこまで行っても枳棘の道じゃ。

 傷だらけにされても尚、

   信長の犬となって歩み続けてゆくつもりはない。

 わしは、有岡に篭城する」

枳棘】="枳棘は鸞鳳の棲む所に非ず" より居心地の悪い処の意味

ここに村重は有岡城篭城を宣言した。

天と地が揺れても正座崩さない  板野美子


     井 戸(有岡城跡

もと伊丹城は村重が入城して大改修を行う。

鉄道敷設の際に多くが取り壊された。

本丸には井戸や礎石、石垣、土塁が残る。


     石 垣         土 塁

「そして悲劇が・・・」

天正7年(1579)12月13日、

まず女房衆112人が尼崎近くの七松に引き出され、

或る者 は磔刑となり、或る者は鉄砲で射殺され、

また或る者は槍で刺殺された。
  かせさむらい
また、悴侍の妻子や女中ら388人

と女房付の若党124人の併せて

512人は、四軒の民家に押し込められて家ごと焼き殺された。
 
【悴侍】=雑役に当たる身分の低い侍。
【若党】=最下級の武士

さよならの予感的中してしまう  竹内ゆみこ

「村重家族の辞世」

"みがくべき心の月のくもらねば 光と共に西へこそ行け"
                          荒木たし
      
”露の身の消え残りても何かせん 南無阿弥陀仏にたすかりぞする
                      村重の娘(15歳
      
”世の中の憂き迷いをばかきすてて、弥陀の誓いに会うぞうれしき
                       おいち(たしの侍女)

残照に緑の縁を縫いつける  蟹口和枝



  岩佐又兵衛

もう一つの村重の没年説がある.。

天正7年、村重が有岡城を逃げ、尼崎にて自害したというのである。

「岩佐家譜」

岩佐家譜は岩佐又兵衛の没後八十年に書かれたものであり、

又兵衛を「浮世絵の祖」とする系譜である。

又兵衛は、有岡城が落城したときに脱出させられた

村重と、たしの子・荒木村直といわれている。

ここでは村重は、武将でなく、

絵画の道に生きた又兵衛の父親として、死去している。

淋しさの具象抽象描き分ける 森吉留里惠

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