死ぬなんて思っていない人ばかり 新家完司
隋願寺
官兵衛の叔父・黒田高友はこの随願寺、地蔵院で休夢と称する僧侶であった。
和歌に秀で、秀吉に仕える。
天正元年、別所長治に攻められ全山を焼失。
同13年に羽柴秀吉が再興した。
"名を残す長門の海を来て見れば むかしにかへる春のうらなみ"
「黒田休夢」
黒田一族の中で、官兵衛が傑出した存在であることは疑いないが、
もう一人、
官兵衛に負けず劣らず優秀な武将がいる。
その名は、
黒田千太夫高友。
号は
休夢と称する。
休夢は、
重隆の次男として、大永5年
(1525)1月に誕生。
兄・
職隆とは、わずか1歳違いで、官兵衛の叔父になる。
たっちゅう
永禄7年
(1564)頃、休夢は隋願寺の塔頭地蔵院に入り、
ぜんけい
「善慶」と称した。
次男であったがゆえに家督を継げず、出家していたのである。
後に兄の
職隆と同じく、最初は
政職に仕えた。
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荒木村重に官兵衛が捕らえられた際、秀吉は休夢に書状を送り、
休夢が、
「信長に忠誠を誓っていることを満足に思っている」 こと、
「村重が官兵衛を幽閉したことは許し難い」 こと、
「幽閉された官兵衛を早く救い出したい」 ことなどを記している。
黒田家当主が囚われの身となったことは、
黒田一族にとって大きな衝撃であった。
一方、
秀吉が指揮する
「三木合戦」は継続中である。
この時、黒田家は
官兵衛の妻・
光を中心に一致団結した。
そして隠居した官兵衛の父・
職隆とともに、官兵衛の代わりとなって、
秀吉を支えたのが休夢だった。
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別所長治との交戦において、
秀吉は三木城攻略方法などについて、
休夢に指示を行った。
天正8年、三木合戦終了後も休夢は、秀吉から重用され、
姫路市内における
「村落間相論」の裁定にあたっている。
つまり休夢は秀吉に信頼され、
官兵衛の代わりに合戦にも参加したのである。
さらに合戦終了後も、
有岡城から瀕死の状態で救出された官兵衛に代わり、
姫路における村落間の紛争の難しい裁定に臨んだ。
こうした点を見ても、
休夢が非常に高い能力の持ち主であったことが窺える。
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秀吉が
休夢を重用したことで注目されるのは、
秀吉の
「御伽衆」に起用されたことである。
御伽衆とは、古来から主人に対して武辺話を行う家臣が存在した。
やがて、それは職業化し、御伽衆と敬称されるようになる。
御伽衆の資格は、
① 咄がうまいこと、② 咄に適応する体験や技術を有すること、
が条件であった。
むろん、その背景には豊かな教養が必要とされる。
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茶人・
津田宗及の茶会記・
『宗及自会記』に休夢の名前が見られ、
また
千利休とも交流があったことも確認できる。
天下第一の宗匠と交友関係を持っていたことは注目すべき点であり、
休夢の高い教養が窺い知ることができる。
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箱崎・千代松原の茶会にて
さらに、休夢は和歌や連歌にも通じていたことで知られる。
天正15年
(1587)5月に、薩摩の
島津氏が秀吉に降伏すると、
はこざき
戦後処理は、筑前筥崎(現在の福岡市東区箱崎)で行われた。
つけあい
その際、休夢は秀吉に同行し、同地で連歌会を催して付合を、
一句詠んで秀吉を喜ばせている。
(付合=前の句に次の句をつけること)
千利休が
秀吉に献じたこの茶会には、
津田宗及・黒田如水(官兵衛)らも
顔を連ね、和歌を詠じた。
秀吉も二首詠じている。
(右から2・3の句が秀吉)
なお冒頭の句は、九州征伐も最終段階に入ろうという時期の、
天正15年3月、赤間関で
安徳天皇追福の和歌会に
休夢が参加したときの一首である。
大空を飛んで私の今である 森田律子[4回]
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