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川柳的逍遥 人の世の一家言
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太陽の裏へご一緒致します  井上一筒 



  別所長治

「播磨混沌」

官兵衛半兵衛という稀代の戦略家が二人も揃ったことで、

秀吉による播磨平定の戦いは順風満帆に進み始めた。

そして作用城と上月城を鮮やかに落としたことで、

播磨の豪族たちの心は織田方に靡いたようにも見えた。

だが、天正6年(1578)正月、

秀吉が戦勝報告のために信長の元へ戻った隙に、

再び毛利と気脈を通じる者たちが出てきた。

白いめまい背信のその日から  安土理恵 

そして、2月になると東播磨を治める別所長治が反旗を翻す。

理由については、後世、さまざまに語られている。

その一つは、織田軍の総司令官である秀吉の出自だ。

播磨のような田舎では、まだ中世的な身分意識が強く残っており、

名族意識の強かった豪族たちに侮られた。

それと別所家の場合、家中に一向宗の門徒が多く、その本山である

大坂石山本願寺と敵対していた織田家を敵視する者も多かった。

さらに別所氏と昵懇であった丹波の波多野氏織田氏の対立も、

要因のひとつとされている。

反逆の血をたぎらせて緋を纏う  森吉留里惠

いずれにしても東播磨で約43万石という大勢力を誇る別所氏が、

毛利方についたことで、多くの小豪族がそれに従うことになった。

秀吉は3月末から三木城の攻撃を開始。

だが4月になると、

別所一族で唯一織田方に付いていた別所重宗の別府城を、

毛利の軍が急襲する。

この時は、官兵衛が兵を率いて救援にかけつけている。
                あ べ
これが、官兵衛の引きつけ戦術・「阿閉城の戦い」である。

尻尾のない男が一人まぎれこむ  居谷真理子



  山本山城二の丸跡

山本山のことを、山の南側の山本村では山本山(山本山城)と呼び、                
                    あつじ

対して、東側の阿閉村側では、阿閉山(阿閉城)と呼ぶ。

この呼び名は、この城が南向きに機能していた時と、

東向きに機能していた時の名残でふたつの顔がある。

「阿閉城の戦い」

三木城の城主・別所長治が信長に叛旗を翻したときのこと。

加古川市にある阿閉城は、別府城とも呼ばれ、

長治の叔父にあたる別所重棟の居城である。

重棟は、足利義昭を奉じて上洛した信長のもとに馳せ参じるなど、

別所家の親織田派の急先鋒だったが、
    よしすけ
兄・別所賀相との内部抗争に敗れて、主家と袂を分かつ道を選んでいた。

沈黙がカリフラワーになっている 岩田多佳子

東播磨で毛利方についた別所長治に同調しなかったのは、
      かすやたけのり
この阿閉城と糟屋武則が城主を務める加古川城だけだった。

そのため毛利輝元は阿閉城と加古川城を落とし、

それから三木城の別所長治と協力して、

西播磨の姫路城へと進軍する戦術をたてた。

そこで輝元は、備前国・岡山城主の宇喜多直家の軍勢8千を海路で、

阿閉城に派遣した。

一方、時を同じくして秀吉に命じられた官兵衛が、

5千の兵を率いて、篭城の援軍に駆けつけた。

二枚貝ほどの扉で守る城  清水久美子



阿閉城(山本山城)は小谷城の西約5kmに位置し、

琵琶湖岸の標高324mの山本山の山頂付近に築かれている。

山本山の山頂からは琵琶湖を一望できることから、

湖上交通をも掌握する上で、重要な役割を担っていた。

官兵衛はまず、兵の数をより少なく偽装するため幟や旗を隠させた。

それを見た大軍を擁する宇喜多軍は、

もともと阿閉城が防衛力に乏しい小規模な城だったこともあって、

侮りきっていた。

官兵衛は城兵たちに、いっさい反撃せずに敵を十分に引きつけ、

的を外さない射程距離まで引き寄せたら、

一気に鉄砲や弓矢を放つ、戦術を指示していた。

銃とパンあげるどちらか取りなさい  森 廣子

敵が無抵抗なのを甘く見ていた宇喜多軍は、

鉄砲用の盾も持たずに城壁を登り始めた。

そのため官兵衛の号令で、

いっせいに射かけられた鉄砲や弓矢に死者が続出。

敵のパニック状態をみて官兵衛の手勢が城門を開いて突撃すると、

宇喜多軍は総崩れとなって敗走したのである。

口パクで枯れ木も山のにぎわいに  藤本秋声

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