紫陽花と約束のある途中下車 美馬りゅうこ
三木城攻めの最中の天正7年4月、半兵衛は病に倒れた。
秀吉は京で療養させたが、「戦場で死にたい」 と願い、
秀吉の本陣で亡くなる。
「二兵衛の絆」
無言のうちに互いの戦略を理解したという天才軍師同士の逸話。
「二兵衛」と呼ばれた
半兵衛と官兵衛が、
実は、共に闘った戦の数はそう多くはない。
反織田方である
「三木城の奪取」に向けて、
秀吉は、天正6年
(1578)戦を起こしたが、
以外にも相手が手強く、城攻めに手を焼いていた。
そんなある日、
500名ほどの兵が小高い山中に消えるのを秀吉は見る。
「あれは敵か味方か」
判別できぬ秀吉が半兵衛に尋ねると、
「あれは官兵衛様でございましょう。
今日は殿の勝利に終わるに違いございませぬ」
と、半兵衛はきっぱり言ってのけたのである。
設問の1でホクロの数を訊く 井上一筒
半兵衛最期の戦い
半兵衛はその日、官兵衛が動くとは知らされていなかったが、
今回の戦で劣勢が続く中、
「この辺りで策を打ちたい」と思っていた矢先のことだった。
「あの山中は以前より兵を進めるならここだ」と見込んでいた場所。
官兵衛も同じ読みをしたに違いない。
そう即座に判断し、秀吉に進言したのである。
半兵衛はさっそく援軍をだして敵をおびき出した。
そこを官兵衛隊が襲撃。
官兵衛に花を持たせるかたちで、
秀吉勢に勝利をもたらすことに成功した。
二人の阿吽の呼吸が伝わってくる。
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しかし、ふたりの運命を大きく揺さぶる事件が、
その
「三木城攻め」の最中に起こった。
小寺政職と謀って造反した
荒木村重を説得するため、
単身敵城に乗り込んだ官兵衛であったが、
予期せぬことに捕らえられてしまい、
幽閉されたのだ。
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帰らぬ官兵衛に謀反の嫌疑をかけた
信長は、
官兵衛の嫡子・
松寿丸の処刑を秀吉に命ずる。
躊躇する秀吉に、
「私におまかせくだされ」と、
申し出たのは半兵衛だった。
忠誠の証として、我が子を差し出した官兵衛が、
「裏切るわけがない」という確信。
松寿丸を命を守ることこそ
「自分の忠心」という思い。
それらが心を突き動かし、なんと主君の命に背き、
松寿丸を己の領地内に匿って助けるという大胆な行動に出た。
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ところが、病弱ゆえ、すでに自分の余命を悟っていたのだろう。
天正7年、三木陣中で病に倒れ、京都で療養していたが、
「武士たるもの、戦場で死すべし」と、
病を押して陣中に舞い戻り、この世を去った。
享年36歳。
そばには、官兵衛こそが自分の思いを受け継ぐ軍師であると
言わんばかりに、愛用の采配が横たえられていた。
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幽閉から一年後、無事に救出された官兵衛の耳に届いたのは、
命をかけて松寿丸を救った盟友・半兵衛の死だった。
形見の采配を受け取った官兵衛は、
半兵衛が貫き通した
仁愛の心を心底、理解したのかも知れない。
生まれつき体が弱かったため命を慈しみ、
戦では無駄な血を流さずに勝つための知略を尽くした軍師。
暗い牢獄で死の淵を彷徨った官兵衛も、
戦の不毛さを身を以って悟り、
半兵衛の戦い方こそ真の軍師と確信したのであろう。
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三木城攻めを受け継いだ官兵衛は、城に乗り込み、
城主の切腹と引き換えに兵の解放を提案し、
長い戦は終息した。
晩年、官兵衛が
長政(松寿丸)に遺したのは、
「家臣を信頼し、民を愛せよ」 という言葉だった。
官兵衛の心には、25年という年月を経てもなお、
半兵衛は生き続けていたのである。
頂点の笑顔競ってきた笑顔 籠島恵子[5回]
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