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川柳的逍遥 人の世の一家言
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夜明けから三角波に飛び込んだ  森田律子



  伊丹荒木軍記

「荒木村重という人物」
 
荒木村重は摂津池田家・荒木高村の嫡男として池田で生まれる。
                     
織田信長に見初められ、秀吉や光秀、家康らを逐う武将として台頭し、

天正2年(1574)に200年以上も伊丹城に君臨した

前城主の伊丹親興を攻め、無血開城し伊丹城に入城する。

摂津一帯に支城郡を構え、

三十七万五千石の摂津の國の戦国大名となった。

この伊丹城は、村重によって大幅に修築され、

「有岡城」と改名される。

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それから4年後の、天正6年10月、

信長が信頼を置いていた有岡城の村重が叛旗を翻した。

これまで村重は信長から重用され、摂津の支配を任されていた。

ところが村重は、三木城主、別所氏と呼応し、

毛利氏・大坂本願寺に与したのである。

さすがの信長もこれには驚いたらしい。

桃よりも傷つきやすくなっている  高橋かづき



最初は信長は、

「村重の母親を人質にすれば、この一件は水に流す」とした。

しかし、村重の気持ちは変わらなかった。

弱った信長は、一度は朝廷を通して、

本願寺との和睦を模索したほどである。

村重に謀反の翻意をさせるべく使者に送り込まれた明智光秀、

松井友閑、万見重元に説得され、釈明に安土城に向かったが、

途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から、

「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」

との進言を受け、伊丹に戻り城に籠もった。

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これを怒った信長は有岡城を包囲して兵糧攻めを敢行。

村重は、織田軍に対して徹底抗戦したが、

中川清秀と高山右近が信長方に寝返り、落城は必至の状況となった。

それでも村重は、

「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。

  これがうまくいかなければ、

  尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」

と家臣に覚悟を示した。

階段の手摺のあでやかな芝居  くんじろう



ところが、その村重が、天正7年(1579)9月 2日の夜、

武将として、あるまじき行動をとるのである。

妻・たし子女、それに多くの家臣女房衆を見捨て、

密かに有岡城 を脱出し、嫡男・村次尼崎城に逃亡してしまったのだ。

主を失った有岡城はその後、

信長の焼土作戦で西は武庫川の手前まで、

南は尼崎猪名寺まで焼け野原となり、

1年余りの籠城の末ついに、有岡城は陥落する。

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その後、村重は、支城である花隈城に移りそこで籠城する。

しかし、花隈城も池田恒興の軍勢が包囲する。

そこで、信長は尼崎城や花隈城の明け渡しを迫った。

ただし交換条件に、「家臣や妻子を助けてやる」という、

その信長の提案をも,村重は拒否した。

その上で、肝心の村重本人は花隈の籠城戦に敗れ、

各地を転々としながら、

結局、毛利を頼って海路尾道 へと落ち延びたとされる。

これを聞いた信長の怒りは、頂点に達し、みせしめという形で、

村重の妻子や家臣の家族達に向けられる。

家臣512名は尼崎の七つ松で焼き殺し、

家臣及び村重の妻など36人は、京都六條河原で斬首した。

石が浮き木の葉が沈むこの世情  柳瀬孝子



「見捨てられた妻子従者5百数十人の末路」(『信長公記』)

「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、

  見る人目もくれ心も消えて、感涙 押さえ難し。

  これを見る人は、二十日三十日の間は、

  その面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり」

村重の妻子や重臣の家族達三十六人は、京に護送された。

そして12月16日、

見せしめのため大八車 に縛り付けられ、

京の市中を引き回された後、三条河原で首を刎ねられている。

風だけが住んでる町になりました  こはらとしこ
 
美貌で世に聞こえた村重の妻・たしの最期は潔く、髪を高々とい直し、

帯を締め直し、
武士の妻らしく従容とし て死についた

と信長記に記されている。

享年21歳であった。

次の辞世の歌が涙を誘う。

"消ゆる身は惜しむべきにもなきものを 母の思ひぞさはりとはなる"

"残しおくそのみどり子の心こそ 思ひやられて哀しかりけり"

男はみな嘘つき野の仏と話す  森中惠美子
  


南宗寺の茶室・実相庵

南宗寺は茶道や茶人と関係が深く、武野紹鴎・津田宗久、

千利休らが、ここで修行をしたという。

また沢庵和尚が住職をしたことでも有名。

南宗寺には家康の墓もあり、ミステリアスな伝承に興味が引かれる。

そして再び、村重が歴史の表舞台に登場するのは、

天正11年(1583)、信長が明智光秀の謀反に滅び、

その光秀が山崎で秀吉に捕まった後のこと。

天下人を目前にしていた秀吉に、士官を勧められる。

天下統一への足掛かりに秀吉は、

村重は貴重な人材と考えてのことである。

しかし村重はこれを丁重に断り、茶人として生きることを決心。

悲惨な処刑で幼い子供まで殺された村重は、

戦いの世を憂いてのことか、過去の過ちを恥じ、
          どうふん
剃髪して「荒木道糞」と名乗ったとされる。

後悔の数だけ雨が漏っている  木本朱夏

 
    荒木道薫
        道薫の茶碗

その後「道糞」の名は、秀吉に「畑の肥やしに」と言われ、
 どうくん
「道薫」という名をもらい、茶人として仕えたとされる。

道薫は文化人として能を良くし、多くの名物茶道具を持ち、

「利休七哲」の1人に数えられたほどの茶人になる。

この後、村重は堺で終焉を迎える。

享年51歳。

位牌は堺・南宋寺に保管されている。

投げ頃の小石ばかりが手に残る  笹倉良一

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