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川柳的逍遥 人の世の一家言
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 月光で影を洗ってから眠る  木本朱夏

「戦国時代の軍師」



安国寺恵瓊 (1539-1600)
えけい
恵瓊は毛利家の外交僧。

つまり対外交渉の任を務めた禅僧として、秀吉の窓口となった。

本能寺の変で信長が横死することを予言。

その鋭い眼力で外交手腕を発揮し、秀吉にも信頼されて、

伊予6万石の大名に抜擢されたともいわれ、

九州征伐や朝鮮の役にも出陣する。

政治家や外交官の顔を持つ宗教家として戦国の世を生き抜いた。

天正元年(1573信長が将軍・足利義昭を京から追放すると、

毛利輝元は自家に迷惑が及ぶことを避けるため、

恵瓊に講和の斡旋を命じた。

恵瓊は、輝元の使者として奔走し、信長配下の秀吉と面会する。

その後、毛利家家臣へ送った手紙に、

「信長の世は3年や5年は保つし、

  来年は公家の位階を得もしようが、

  しかし、派手派手しく仰向けにひっくり返るように見えます。

  そして、秀吉はなかなか出来る人物ではないかと考えています」

と記し、10年後の信長を予言し、秀吉の才能を見抜いていた。

優れた交渉力と観察眼で後世に名を残した恵瓊だったが、

「関が原の戦い」で捕われ六条河原で斬首された。

かき混ぜておく糖床の私小説  本多洋子  

  

山本勘助 (1493-1561)

10年もの長きに渡って遍歴を続けた勘助の兵法家としての名声が、

やがて武田家の重臣に届き、間もなく信玄の耳に入る。

信玄は、築城術や諸国の情勢について勘助と語り、

「呪術や占いにも精通した知識の深さ」に感心して厚く信頼。

300貫という破格の待遇で迎えた。

天文19年(1550)

勘助は、北信濃の豪族・村上義清「戸石城攻め」に従軍する。

苦戦に陥ったが、勘助は一計を案じて、

敵軍を南へ向けさせる作戦を、信玄に進言した。

それは武田軍が太陽を背負う陣形にすることで、

相手方の目を眩ませるというもの。

この作戦が奏功して劣勢を覆し、見事に村上軍を打ち破った。

そして「第4次川中島の戦い」では「キツツキの戦法」を立案。

この戦法は、軍を二分させ一隊が上杉軍を背後から襲い、

狩り出されたところをもう一隊が挟み撃ちにすうるというもので、

キツツキが口ばしで木を叩き、

出てきた虫を食べる様子にたとえた戦術だった。

しかし謙信はこの戦法をいち早く察知、実現されず、

かつ勘助はこの戦で討ち死にしたが、奇策として後世に語り継がれる。

大甕の底に信玄の股引き  井上一筒



小早川隆景 (1533-1597)

隆景は、類稀な計略の才で西国の覇者となった毛利元就の三男。

元就には9人の男子がいたが、

その資質を最も色濃く受け継いだのが隆景である。

事実外交手腕に長け、秀吉の心を巧みに掴む切れ者だった。

軍を率いて戦場に出れば、勇猛果敢に敵陣を駆け抜けてみせた。

幼少期に諸国をたらい回しにされた者の処世術か、

隆景は、「世の趨勢を見通す眼力」も備えていた。

毛利家は、秀吉に臣従する道を選ぶ。

隆景と官兵衛は、四国、九州、小田原各征伐にも揃って出征。

官兵衛は、「私に比べ、小早川殿の判断には狂いがない」

と評したという。

年齢は隆景が一回り上だが、

主君の懐刀という同じ立場にある者同士、器量を認め合う仲だった。

また、小田原城攻略の長期化にしびれを切らし、

大坂城へ帰ろうとする秀吉に逗留を促したのが隆景だった。

やがて北条方は戦意喪失し、降伏を申し出る。

「この殿は深い思慮をもって平穏裡に国を治め、

  日本では珍しいことだが、

  伊予の国には騒動も叛反もない」

と宣教師のフロイスが著書「日本史」に書いている。

夕焼けに染まったほうが素顔です  清水すみれ



竹中半兵衛 (1544-1579)

半兵衛は、戦国時代屈指の軍師で、秀吉の参謀として活躍。

官兵衛とともに「二兵衛」と称された。

また三国志の軍師・諸葛孔明の再来とも言われた。

「長篠の戦い」で武田勢の一部が向って左に移動した。

秀吉は、回りこまれるのを警戒したが、

半兵衛は織田勢の陣に穴を開けるための「おとり」だと判断。

秀吉は迎撃のため兵を動かしたが、

半兵衛は手勢と共に持ち場を離れなかった。

すると武田勢は元の位置に戻って、秀吉不在の地に攻め込んだ。

半兵衛が守っている間に秀吉は慌てて帰還したという。

半兵衛は純粋に勝つことを追求。

秀吉が天下統一が出来たのは、半兵衛と官兵衛の力だと言われている。

二人は時にライバルとして対立しながらも秀吉に尽力したが、

三木城攻略中に半兵衛が病死。

享年36歳。

遺された采配や軍配団扇を官兵衛が譲り受けた。

なあ時計あまりに律義すぎないか  佐藤美はる      



真田昌幸 (1547-1611)

昌幸は、父・幸隆と子・幸村とあわせて「真田三代」とうたわれた。

信玄からは「我が両眼の如し」と評されて、

「小信玄」「信玄の懐刀」と称される。

武田氏滅亡後に自立し、後に秀吉に臣従。

「上田合戦」で2度にわたって徳川軍を撃退したことで知られ、

とくに関が原の戦いの前哨戦「第二次上田合戦」では、

徳川秀忠率いる約4万の大軍をわずか2千の軍勢で上田城に足止めし、

秀忠軍を関が原に遅参させることに成功している。

ブラック珈琲みんなアドリブだった頃  菊池京



真田幸村 (1567-1615)

幸村は通称で、本名は信繁。

名軍師である祖父・幸隆、父・昌幸の血を受け継ぐ猛将だった。

関が原の戦いで兄・信之と袂を分かち、

昌幸とともに西軍につくことを決意。

秀忠を「上田決戦」で足止めした逸話はよく知られているが、

しかし、西軍は破れ、

幸村は14年もの幽閉生活を強いられることになる。

幸村が軍師としての活躍を見せたのは、

晩年になり「大坂の陣」においてだった。

慶長19年(1614)家康は全国の大名に豊臣討伐令を下した。

それに対して幸村は、大坂城を固守しながら、

敵に甚大な損害を与える籠城策「真田丸」を構築する。

一説には、この「冬の陣」における東軍の大半の犠牲者が、

真田丸から出たとも言われるほどの成果を上げた。

そして決戦の「夏の陣」

大坂城の堀は埋められたために、野外で迎撃する方針に変更。

幸村は本陣へ突入するして家康の命を危うくするが、

あと一歩のところで失敗に終わり討ち死にする。

蒼い光少し放って待っている  安土理恵                



直江兼続 (1560-1619)

兼続上杉景勝のもとで辣腕をふるい家康にまでも反旗を翻した。

彼は優れた武将であると同時に、詩歌や書物を好んだ文人であり、

さらに民政にも並々ならぬ才を発揮。

まさに「知勇兼備の人」だった。

上杉家は西軍敗北の報を受け、撤退を余儀なくされる。

しかし兼続は冷静に指揮をとり、

被害を最小限に抑えて次の手を講じた。

家康に歯向かった上杉家は、

これまでの4分の1となる米沢30万石に減封されたが、

改易には至らず減封だけで済んだ背景には、

兼続の政治工作があったという。

ほとんどの家臣は、上杉家を去らずに米沢へと移った。

兼続は下級武士に今で言うところの仮設住宅を与え、

着々と町づくりを進めた。

米沢城の改修、城下の整備、治水工事、農業指導など、

多岐にわたる都市計画を指揮。

後に江戸時代の名君・上杉鷹山は、藩政改革の折に、

兼続の政策をお手本にしたと言われている。

兼続は一国の大名に引けをとらない知勇を持ちながら、

上杉景勝を生涯ただ一人の君主とし、

政治、経済、軍事すべての面で支え、己の人生を捧げた。

天よ地よせめても心して動け  徳山みつこ

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