答出たのね靴ひもを結ぶふり 森田律子
「如水謀る」
春、家康に対抗できる大物・
前田利家が病死すると、
事態は一気に動きはじめる。
如水の嫡男・
長政が
加藤清正や
福島正則など、
「武断派」と呼ばれる大名たちと組んで、
論功行賞凍結を遵守する立場の三成を襲撃しようとし、
三成は隠居に追い込まれた。
秋には、前田利家の後を継いだ
利長に謀反の疑いがかけられ、
家康が前田討伐を号令する。
これは利長の必死の陳弁によって回避されたが、
もはや領地を欲する大名たちに歯止めは利かなくなっていた。
ひがな一日祈ろうか呪おうか 筒井祥文
石田三成肖像画
その後、家康は、
おねに譲ってもらった大坂城・西の丸に入り、
大名の加増や転封・婚姻などを次々と実行していった。
家康は我がもの顔で歩き、
まるで天下人のような振る舞いをしている。
所領の近江・佐和山で隠居生活を強いられていた三成は、
家康のこうした動きに焦りを覚えつつも、何もすることができない。
そこへ中津へ帰る途上といい、如水が訪ねてきた。
逝く時を知るも知らぬも蟻地獄 三宅保州
挨拶もそこそこに如水は唐突に切り出した。
「ひとつ、うかがってもよろしいか?」
「石田殿は、いかにして徳川殿を倒すおつもりか?」
三成がその気はないと一蹴すると、如水はさらに言った。
「志を同じくするものが集まれば、別でござろう」
如水は、
三成とは昵懇の間柄である会津上杉家の直江兼続の名を挙げて、
「わしがおぬしなら、まず上杉景勝に兵を挙げさせる」
から
そうすれば家康は討伐の軍を起こして東へ向かい、大坂は空になる。
その時、
秀頼を奉じて徳川討伐の兵を挙げる。
挟み撃ちになった家康は万事休すだ。
「もう」言うな水はしばらく止められん きゅういち
上杉景勝と直江件続像
「だがやめておかれるがよい」
この策は家康にはお見通しであろうし、
むしろ、事が起こるのをまっているはず。
「策を立てるのとまことの戦はまるで別物じゃ。
これはわしのおぬしへの、最後の忠告でござる」
そこで三成は五大老のひとり、
会津の上杉景勝の家老・直江兼続と謀議した。
如水が描いた絵の通り、上杉家がまず会津で挙兵し、
それを討伐しようと北に向かった家康の軍を、
大坂で秀頼を旗頭にした三成の軍が挙兵し、
挟み撃ちにしてしまうという策を練った。
如水が三成を余り好もしくも思っていない三成を煽った事も、
他で実際に、こうした謀議がなされたかは、定かではないが・・・。
シリカゲルの太る音 人潰す音 岩田多佳子
慶長5年(1600)6月、
上杉景勝に謀反の疑いがあるということで、
家康は自ら兵を率いて大坂城を後にした。
この好機に三成は、五大老のひとり
毛利輝元を盟主に仰ぎ、
7月に大坂で兵を挙げた。
そして手始めに、家康の老臣・
鳥居元忠が守る伏見城にせまった。
7月18日には、輝元の名前で元忠に開城を求めた。
城将のひとり、
木下勝俊のみは勧告に応じて城を出たが、
元忠は断固拒否の姿勢を崩さなかった。
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そこで翌19日から、西軍による伏見城総攻撃が始まった。
宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万もの大軍に囲まれたため、
元忠ら城兵は大いに奮戦したが、8月1日に落城した。
この戦いを皮切りに約2ヶ月にわたる東西対決が続くのである。
三成が挙兵したことを、
中津の居城にいた如水はわずか3日後に知った。
その意味では、同じように秀吉へ讒言された如水も、
三成をよく思っていなかったはずである。
如水は、長年仕えた秀吉の死を悼む反面、
ここから新たな政治局面が始まる、ことも読んでいた。
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家康像
「貴公の才知、甚だ鋭敏」(黒田家譜)
秀吉亡き後、次の天下人と目されたのは、
五大老筆頭の家康である。
如水も家康の人物を買っている。
よし
だから家康が存命中から、何かと誼みを通じてきた。
息子の長政に家康の養女を娶らせている。
家康の会津征伐にも、
長政が5千5百の兵を引き連れて参陣している。
だが家康とて絶対に勝利するとは限らないだろう。
戦いが長引けば、不測の事態も必ず起こるものだ。
そう考えていた如水は、すぐさま蓄えていた金銀を放出。
浪人から農民、町人に至るまで人数を集め、
約9千名もの速成軍を編成。
この兵をもって素早く九州を平定し、さらに、
中国から上方を目指せば、天下人への道が開けるかも知れない。
梅干の種噛みながらスクワット 井上一筒[5回]
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