まんじゅしゃげ 端はあの世かあなたかな 河村啓子
吉川広家
西軍の総大将・
毛利輝元に出陣させず東軍と密約を結んだ
吉川広家。
どういう裏事情があったのか?
「裏切り者」か「功労者」か見解が分かれる人物である。
「司馬遼太郎の意見」
毛利連合軍計約三万は、敵味方あわせての二割以上にもなる。
これが観望したり裏切ったりせず、最初から西軍のために働いていれば。
戦闘経過からみて、どう計算しても西軍の勝ちということになるだろう。
ところが、毛利連合軍のふしぎな行動のおかげで東軍が勝った。
にもかかわらず、その毛利家が
「西軍の旗がしら」だった、
からという理由で、戦後つぶされることになった。
替りに家康は毛利家の旧領のうち長州、防州の二ヵ国三十余万石をさき、
それを
吉川広家に与えようとした。
広家はおどろき
「自分の功にかえて毛利本家を残していただきたい」
と哀願し、ついに、毛利本家は、防長二州三十余万石、
吉川家は、無禄ということになった。
ばかなことをしたものである。
策士・吉川広家の無用の策謀のおかげで、西軍はつぶれ、
毛利家は百二十万石から三十余万石になり、当の広家は無禄になった。
東軍諸将は、広家が自分の功をすてて、
本家の温存をはかった義心をほめたが、
毛利家の家中は、広家をよろこばない者が多かった。
魂はあとかたもなく湯剥きされ 山本早苗
関が原合戦図屏風(岐阜市歴史博物館)
「関が原の裏側でー長政、広家内通工作」
慶長4年(1599)7将による
「石田三成襲撃事件」が勃発すると、
にわかに、
家康が台頭した。
五大老の一人でもある
毛利輝元、
そして
吉川広家は、態度を決めかねていたが、
やがて
黒田長政が広家に急接近してくる。
長政は朝鮮出兵における遺恨があったため、
三成に並々ならぬ対抗心があり、早い段階で家康に与していた。
慶長4年3月、長政は広家に宛てて、血判起請文を差し出している。
内容は
① 公私において問題が生じたときは、とにかく相談すること。
② 両者で交わした話の内容は、一切してはならないこと。
③ 何事も相談した通りに行い、裏切ってはならないこと。
というもので、長政と広家は強固な関係を結んだ。
軍手でつかむつるりとした未来 高島啓子
長政と広家が親密であったことは、ある事件からも伺える。
慶長4年7月、広家は五奉行の一人・
浅野長政と伏見で喧嘩に及んだ。
輝元は自ら仲介役を務め、広家に助言を与えるなど解決に懸命であった。
ところが、結果的に解決に導いたのは、黒田長政である。
同年8月、長政は広家に対して、
浅野長政の一件が和解したことを告げる書状を送った。
黒田長政は家康と懇意であったので、
そのルートを用いて解決に導いた可能性が高い。
長政は広家に恩を売った形になった。
点と点つないで銀河まで伸ばす 三村一子
一方、
如水は長政が家康に忠誠を誓うのをよそに、
慶長5年8月1日付けで,広家に対して、
「天下の儀については、輝元様が号令をなさるように、と
三成ら奉行衆が申しており、大坂城に移ったことは、
めでたく存じます。
秀頼様に別心のある者は存在すべきではなく、
やがてめでたく鎮まることでしょう」
という内容の書状を送っていた。
あなたとの隙間を生めていくコトバ 安土理恵
同年7月17日に家康を糾弾する
「内府ちかひの条々」が、
各地の大名に発せられると、輝元はすぐさま大坂城に入城した。
長政が東軍に与する一方で、如水は曖昧な態度を示している。
また、如水は四国・九州の諸大名から人質を徴集するように、
広家を通して輝元に提案を行ない、
九州の
鍋島直茂、加藤清正、立花宗茂、毛利吉成、島津義弘が
与同するとの見解を示し、やがて、家康が西上することは明白なので、
広家が輝元を全力で支援するように、と助言している。
この時点で如水は広家を通して、輝元と連絡をとり、
西軍に味方するとも受け取れる動きを見せている。
似た声を拾って歩く左耳 八上桐子
同年8月20日、如水は広家に宛て、
① 天下の成り行きが混沌としているので、
常に心構えをして驚かぬように。
② 広家が長政に心遣いをしていることへの感謝。
③ 如水の領国の豊前は加藤清正と連絡を取り合っているいるので、
万が一のときは対応できるということ。
④ 一方で、如水は今度のことが決戦にならない、
と見解を提示しつつも、弓矢に熟達した者を広家に遣わす、
という内容の書状を送った。 最後は
⑤ 「日本がいかに変わろうとも、
広家と私の関係は変わることがないように心得たい」
という言葉で結んでいる。
波風は立てずに斜めから見つめ 北原照子
ただいずれにしても、すでに毛利氏は,
大坂城に入城しており、西軍に与する態度を鮮明にしていた。
一方で広家は長政に、家康との仲介を託していた事実も判明する。
これより以前の8月8日、家康は長政に対して、
「吉川広家からの書状をつぶさに拝見しました。
事情については、よく理解できました。
私と輝元は兄弟のごとく通じていたので、
輝元が謀反の意を持っていたことを不審に思っていたところ、
広家が輝元の謀反を承知していないことを承り、満足いたしております」
という内容の書状を送った。
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広家は、長政を通して家康に対し、あらかじめ輝元が,
大坂城に入った経緯などを釈明した弁明書を送っていた。
当初、家康は
「輝元が西軍に与していたことを不審に感じていた」
が、広家の書状を手にして安心したようである。
つまり、広家は家康に内応していたといえる。
同年8月17日、長政は広家に対して、家康の書状を写し添え、
「今回、輝元が西軍に与したことは、輝元が心得ていないことで、
安国寺恵瓊が独断専行で行なったことである、
と、家康公もお考えになっている。
そのようなことなので、広家から輝元に内情をよくよく説明し、
家康公と輝元が入魂になるように、ご尽力をお願いしたい」
という内容の書状を送った。
ぼんやりとかすかな ふかいもやのなか 大海幸生
広家は輝元が西軍に与したのは、
安国寺恵瓊が勝手に進めた、と申し開きをしたようである。
家康からすれば、輝元を敵にするのは得策ではなく、
逆に懐柔して、東軍に引き入れるほうが有利である。
そこで長政を用いて広家を丸め込み、
責任のすべてを恵瓊に押し付けた。
こうして輝元が大坂城に入城し西軍に属した事実は、
恵瓊に責任を転嫁し終結するかのように見えた。
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