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川柳的逍遥 人の世の一家言
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運命にもDNAがあるらしい  武本 碧                    

  
 黒田長政所用黒漆桃形大水牛脇立兜
                
「家康と長政」

慶長3年(1598)、朝鮮の役のこと。
                 うるさん
「黒田長政と蜂須賀家政は蔚山城の救援に向かったが、

    臆病にも戦わなかった」   

福原直高、垣見一直、熊谷直盛ら三目付の、

そんな報告に接した秀吉は激怒し、長政家政は窮地に陥った。

後にこの報告は、誤りであったことが証明されるが、

長政は三目付及び彼らと結びつく三成を憎み、対立することになる。

一方、秀吉没後もなお朝鮮にあった長政に対し、

たびたび労いの書状を送ったのが家康であった。

頃合いの男を笛で躍らせる  上田 仁


 家康

家康は秀吉が逝去すると、無断で有力大名と次々と婚姻を結び、

味方を増やしていた。

長政だけでなく、父親である如水に対して、

長政帰国を祝う手紙を送っているのも、その一環である。

長政は家康に感謝し、ビロードを贈っている。

さらに3年12月には、長政は家康重臣・井伊直政と起請文を交わし、

お互い蔑ろにせず、秘密を他言しないことを約束した。

長政は徳川家と盟約を結んだに等しく、

それは、三成らの勢力との対立を前提としていた。

下地には仏の顔を書いておく  中川隆充        


  黒田長政

五大老の前田利家が没すると、慶長4年3月4日、

「七人の将」が三成を襲撃計画を企てた。

朝鮮出兵時に不当な扱いをされたことへの復讐のためである。

その中心にいたのが長政だった。

その2週間後の3月19日、朝鮮の役での蔚山城の一件が再調査され、

長政や家政は名誉を回復する。

真一文字の口の男だ振り向かぬ  柴本ばっは
                              あずか
一方、三成は佐和山に隠退し、政治には今後、与らないことに決した。

長政にすれば名誉回復と三成失脚で溜飲を下げたであろうが、

一連の騒動で最も特をしたのが家康であることは疑いない。

では、長政は家康にうまく利用されただけかといえば、

必ずしもそうではない。

幼少より秀吉の世話になった長政だが、

次の天下人が誰かを冷静に値踏みし、家康に接近した可能性がある。

如水が、家康と一定の距離を置いたのとは対照的だ。

山の端の雲が大人になった雲  井上一筒

このような長政の考えの外で、七将の目線の違いもある。
    ここう
秀吉の股肱の臣である三成に秀頼を託す路線を支持する人々がいる一方、

家康に託す路線を支持する勢力が生まれた。

その代表が七将の加藤清正福島正則である。

「豊臣命」とも言うべき加藤と福島は、

秀頼に政権を継がせて、「豊臣の天下を続けたい」と目論んでいる。

そのためには、秀頼を三成にまかるよりは、

家康を後見人役にした方がよいと考えていた。

この点において長政は、二人とは違っていた。

長政は父・如水同様「天下は力ある者の回り持ち」

という発想を持っている。

つまり、次の天下は秀頼ではなく、家康であると考えたのである。

展開は真みどり三重奏の靴  富山やよい

                
           す
官兵衛は秀吉に天下を統べる力量がある、と考えたので後押しをした。
                          さんだつ
それは秀吉が、織田家の天下統一事業を簒奪することを意味する。

長政は父が秀吉の天下取りを支えたように、

長政は、「自分が家康に天下を取らせよう」と考えたのではないか。

言い換えれば、稀代の調略家の息子としての矜持をもち、

父に対する対抗心が長政にあった。

実際に長政は、「関が原の合戦」において、

自分の判断で吉川広家小早川秀秋を説得するなど積極的に動き、

多大な貢献をしている。

修羅ひとつこえて枕を裏返す  山本昌乃

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