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川柳的逍遥 人の世の一家言
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針のない時計と獏を飼っている  奥山晴生


 石垣原の合戦布陣図

「もう一つの関が原」

家康と三成の天下分け目の戦いが関が原で、

今にも始まろうとしていた。

如水は関が原の戦いが起こると同時に、

蓄えていた金銀を大放出して、浪人や農民を傭兵として雇い入れ、

一世一代の大勝負に出る。

如水は、「関が原の戦い」が一ヶ月は続くと予測していて、

その隙に九州を平定し、余勢を駆って東へ進撃して、

関が原の勝者と対決すれば、天下を取れると目論んでいた。

果たして、慶長5年7月13日

大坂雑説(うわさ)の騒動が起こった。

三成が毛利輝元を大将に担いで、家康を打倒することを決し、

家康派と三成派の内戦が勃発したのだ。

夢を盛る器はでかい方がいい  須磨活恵

 
   母里太兵衛         栗山善助

この報せは大坂留守居役・栗山善助、母里太兵衛から早舟によって、

17日に、如水のもとに届けられた。

隠居の仮面をかなぐり捨て、気鋭の軍略家に戻った如水は、

「急いで軍勢を催し、まず九州の敵を掃討し、中国地方に進攻して、

  毛利家の領国を平定し、播磨から京へ攻め上って我が運命を試そう」

と宣言する。

倹約家・家康の地味ななりを思い浮かべながら、

如水は肥後熊本の加藤清正に連携の使者を発した。

これに対し清正からは、

「三成らと仲が悪い自分が今さら彼らに味方など出来ないから、

   如水殿のお考えに従って判断したい。

   相談の上、秀頼様への奉公第一で動く」 

という回答である。

ハイエナの名に恥じぬようよういきていく 笠嶋恵美子        

こうして猛将・清正という心強い同盟者を確保した如水は、

中津城天守の金蔵の金で9千にも及ぶ急ごしらえの軍勢をかき集め、

8月中旬に軍義を開く。

家臣たちの中には、

「家康公がいまだ関東から上方へ発向したとも連絡を受けないうちに、

   私的に兵を発するなはまずいのではありますまいか」

と慎重論を唱えるものもいたが、如水は、

「三成の反逆は明らかなのだから、家康公が関東を出ようと出まいと、

  九州の平らげるべきだ」 とした。

自分の顔だけしっかり塗り潰す  皆本 雅                         

そんな如水のもとに、

8月25日付けで、家康の重臣・井伊直政が発した書状が届く。

如水は長政を通じて家康に味方し、九州の西軍拠点を攻めることを、

申し送っていたのだ。

その一文に、
          はいりそうろう     おんてにいるべきところ おおせつけられるべく
「何分にも此節に候入條、御才覚候で可入御手所、可被仰付候」

(お手にはいるところはいくらでもお手に入れられよ)

とあった。

領国は切り取り次第、攻め取り放題、

という家康の意を体した保証書である。

こうして家康側の言質を得た如水は、満を持して作戦を開始した。

花びらをまとって風も狂うとき  居谷真理子



9月9日、如水は9千余りに膨れ上がった軍勢を率いて 

豊後へ進軍を始める。

翌10日、国境を越えて豊後高田城下に入った。
しゅそりょうたん
首鼠両端を持していた高田城主・竹中重隆は如水が、

攻囲の姿勢を見せるや、驚愕して与党を約し、

息子の重義に兵2百を添えて如水に同陣させた。

次の標的は富来城だ。

行軍を再開して国東半島を東進して、

赤根峠で野営中の11日未明、早馬が陣中へ駆け込んできた。
    よしむね      きつき
「大友義統の軍勢が杵築城を攻撃中。助勢をお願いしたい」

首鼠両端=どちらに付くのがよいか決め兼ね曖昧な態度で形勢を窺うこと。

右肩が嵐が丘になっている  清水すみれ


   大友義統

大友義統宗麟の嫡子で、もともと豊後国を領有していたが、

朝鮮の役で敵前逃亡をした罪で秀吉から改易され、大坂に幽居していた。

そこへ西軍の誘いの手が伸びた。

恩賞は旧領の返還だ。

義統は首を縦に振り、9月9日、豊後別府に上陸し、

廃城になっていた立石城に本陣を置いた。

直後から吉弘統幸ら旧臣が続々と馳せ参じてきて、

10日、義統は3千ほどに急増した軍勢をもって、

周辺で唯一の東軍である細川忠興の支城・杵築城を囲んだのである。

そこで如水は井上九郎衛門らに兵3千を預け、

杵築城救援に向かわせた。

いち早く救助被災のボランティア  柴辻疎星

杵築城を落城寸前まで追い込んでいた義統は、

黒田軍の支援を知ると、立石に転進した。

如水はそれを追う形で全軍を南下させ、
                  かくどの
立石に対峙する実相寺山と角来殿山に布陣する。

両者の間に広がる「石垣原が決戦」の舞台となった。

戦闘が始める前、如水は義統に降伏を勧める書状を送った。

しかし拒絶されたため、9月13日に戦いの火蓋が切って落とされた。

人生の赤エンピツがやけに減る  田口和代

両軍が激突すること都合7度。

最終的に凱歌をあげたのは黒田軍を主力とする連合勢であり、

義統は立石城に立て籠もった。
   しょうほう                          かしらなり
如水が捷報に接したのは、石垣原から約8キロの地の頭成だった。
        そじ
立石城への卒爾な攻撃禁止を命じ、その日の夕刻に

如水は実相寺山に本陣を構えた。

そして翌14日に如汚水は首実検が終わると、東方の浜の手を空け、

残る三方から立石城を囲ませた。

その上で母里太兵衛に和睦交渉を命じた。

太兵衛の正室は宗麟の娘。

縁戚関係を利用しての和睦交渉である。

15日の早朝、戦意を喪失した義統は剃髪して、

黒衣をまとって如水の軍門に降った。

エンディングノートに書いておく寓話 合田留美子           


大友軍の武将・吉弘統幸が最後を遂げた七ッ石稲荷大明神

奇しくもこの15日、関が原の大戦で東軍が勝利していたが、

如水は知る由もない。

それからは大友軍の降兵の大半を配下に組み込んで進軍を再開し、

日の出の勢いで、小倉・久留米・柳川方面へ進撃をする。

開城した緒城の降兵を取り込んでいった如水の軍は、

柳川城を包囲するころには、4万人にふくれあがっていた。

そして、11月初め

九州における最後の西軍勢力である島津氏討伐のために

南進を開始したが、11月12日、熊本城の加藤清正と合流して、

水俣まで進軍したところで、家康からの停戦命令が届いたのであった。

ルーペの向こうの風が差し出す片道切符 たむらあきこ         

ここに至り官兵衛は、自分の夢が終わったことを悟る。

幸いなことに九州のほとんどの大名が西軍に属していたので、

如水はあたかも家康の代理として、九州を平定したかたちで

軍を中津へ撤退させたのである。

疾風迅雷、出陣からわずか2ヶ月ほどで、

縦横無尽に九州を席巻した「如水の関が原」の終幕であった。

真っ二つに割ると梅干と味醂  井上一筒

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