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川柳的逍遥 人の世の一家言
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灰色を桃色にする春嵐  新家完司



   フランシスコ・ザビエル

スペイン・ナバラ生まれ。
ポルトガル王ジョアン三世の依頼でインドのゴアに派遣された。
天文18年(1549)日本へ初めて訪れ、キリスト教を伝えた。
                                  (画像は拡大してご覧ください)

リアリスト・官兵衛」

日本に初めてキリスト教が伝来した戦国時代。

天文18年(1549)、F・ザビエルの九州上陸に始まり、

大勢の宣教師が海を渡り、わが国に教えももたらした。

「ドン・シメオン」これが官兵衛の洗礼名である。

官兵衛がキリスト教に入信したのは、

天正13年(1585)前後といわれている。

その模様が当時布教活動にあたっていたルイス・フロイス

著書・
「日本史」にみられる。

空即是色あんたはわたし手を挙げろ  むさし



フロイスが記した「日本史」

ここには書かれていないが、官兵衛は表向き棄教しただけで、
ひそかにキリスト教を信仰し続け、信徒らを保護したという逸話もある。

「時に天下は太平で、各地の武将たちは頻繁に政庁を訪れるために、

 大坂に出入りし、その機会に我々の説教を聴き・・・中略・・・洗礼を受けた。

 その受洗者の中に関白(秀吉)の顧問を務める貴人がいて、

 毛利との和平を成立させた」

この貴人こそが官兵衛である。

彼は日本人キリシタンの一人としてフロイスの書物に登場している。

官兵衛をキリスト教へ誘ったのはフロイスではなく、

高山右近小西行長であった。

2人ともキリシタン大名として知られる熱心な信徒だった。

当初、官兵衛はキリスト教のすべてを理解していたわけでなく、

右近や行長の熱意に応えた格好だったようだ。

よもぎ餅あんたの鼻へストライク  井上一筒
  
それでも一時期、官兵衛は熱心にキリスト教の布教にも協力した。

秀吉の命令で九州征伐を行う前、

彼は先発隊の司令官として毛利家の領地・下関へ赴き、

退廃していたキリスト教の教会を復活させるよう、

領主・毛利輝元に頼んでいる。

挑戦を受けてみろよと言う日差し  立蔵信子

ここでは、司祭が定住することを認め、

司祭に無期限で土地を提供すること、自由に布教することなどを認めた。

下関では、名声のある貴人たちに説教を聞かせ、

およそ60人が洗礼を受けたほか、

播磨から遠征してきた二人の弟(利則、直之)にも、

説教を聞くよう命じ、洗礼を受けさせた。

秀吉の側近中の側近である官兵衛の名は全国に轟いていたため、

輝元の重臣たちは、輝元の前に出る時以上に緊張していたという。

弓を引く的はあなたののどぼとけ  池部龍一

その官兵衛が司祭に対して、深い尊敬と恭順を示したので、

人々はこれを見て驚嘆したそうだ。

九州征伐では布陣中の諸隊の陣営を巡回したが、

その際に2名の修道士を同伴した。

各陣営には、キリスト教の訓えに興味を持つ者もあり、

その者らに対して修道士の口から説明させたのである。

しかし天正15年(1587)7月に秀吉がバテレン追放令を出し、

右近らがこれに反抗して改易されると、

官兵衛は率先して令に従い、キリスト教を捨てた。

揺れたのは片時歩には歩の仕事  松谷大気



   ルイスフロイス

ポルトガル・リスボン出身のカトリック司祭。宣教師。
戦国時代の日本に上陸し織田信長や豊臣秀吉と会見。
文才に優れ『日本史』や『日欧文化比較論』など、
当時の日本社会や偉人たちの、
人物像を伝える貴重な資料の数々を書き残した。

秀吉の側近である官兵衛を頼りにしていたフロイトを

はじめとする宣教師、他のキリシタン大名は、

秀吉の側近である官兵衛の棄教にショックを隠せなかったようだ。

高山右近は棄教できず、マニラに追放されたほどで、

官兵衛がもし公に信仰を続けていれば命はなかったかもしれない。

一方、フロイスは官兵衛のことを

「熱意にもかかわらず、教理の知識が不足していた」 と評している。

嘆き節である。 

続篇の生むアドリブが騒がしい  古田祐子

官兵衛は、「宗教は頼るものではなく利用するもの」

と考えていたリアリストだったのだろう。

彼にしてみれば、「秀吉がダメというのならダメ」

というスタンスに従っただけであり、

そこにはいささかの躊躇いもなく、秀吉への強い忠誠心も伺える。

秀吉は当初、キリシタンやキリスト教に寛容であったが、

やがてその勢力拡大および、それに伴う外国の侵略に危機感を覚え、

先の「追放令」を結構したのだ。

続いて政権を握った徳川家康もキリスト教を禁じてる。

官兵衛と同じく、息子の黒田長政もキリスト教を捨て、

江戸時代になると率先して、キリシタンを迫害する側へ回っている。

信仰に関していえば、その変わり身の速さは、親子共通だったようである。

片方の耳はしぶしぶ承知する  山本昌乃 

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