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川柳的逍遥 人の世の一家言
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イモリの黒焼きで眉毛だけ生えた  井上一筒



「弾正忠松永久秀」ー芳年武者牙類

刀を抜いた久秀の頭上に破片のようなものが飛び散っている。

自刃の前に最期の杯を飲み干して叩き割った刹那を描いている。

「松永久秀」

逆上型で知られる信長が、何故か、松永久秀には甘かった。

信長を久秀は2度裏切っている。

しかし、信長は「この男なかなかの悪人である」と言いながら、

3度目の裏切り対しても「許そう」 と使者を送っているのだ。

狡猾で傲慢不遜の「戦国乱世の梟雄」とか「日本三大梟雄」といわれ、

謀略や暗殺など手段を選ばない人物なのにである。

戦国の三梟雄=『斉藤道三』・『宇喜多直家』・『松永久秀』
日本三大梟雄=『斎藤道三』・『北条早雲』・『松永久秀』

みての通り、どちらにも久秀の名前が見てとれる。

さらに、

① 13代将軍・足利義輝暗殺。
② 東大寺大仏殿の焼討ち。
③ 主家・三好家に対する暗殺と謀略。

この三つを前置きして、信長は、

「この人物は全く油断ができない、

 彼の三悪行は天下に名を轟かせた男である」

と久秀を家康に紹介しているのである。

着地する悪い噂のどまん中  嶋澤喜八郎   



三好三人衆・岩成友通

永禄3(1559)年8月,松永久秀、大和信貴山城主となる。

主家の嫡男・三好義興と供に将軍・足利義輝の御相伴衆になり、

主君・三好長慶と同格の桐紋と塗輿の使用を許された。

久秀は多聞山城を築き六角家と争い、政所執事伊勢家を討伐。
                   そごうかずまさ
永禄6年(1562)、長慶の弟・十河一存、嫡男の義興を毒殺し、

弟・三好義賢の討死後、三好政権は、
                      ろうだん
三好長逸「三好三人衆」と久秀が壟断するようになる。

長慶が病死すると、久秀らは喪を秘したまま、将軍・足利義輝を暗殺。

(三好三人衆=三好長逸・三好政康・岩成友通)

久秀はこの三人衆と別段仲が良かった訳でも無く、

足利義栄を擁立直後、三人衆との対立が表面化する。

その辺から久秀は孤立、一時、消息が途絶える。

矢面に立てるか長になるならば  伊藤志乃



永禄10年(1566)、突如として姿をみせた久秀は、

東大寺に立て篭る三好三人衆を奇襲し、大仏殿に火を放つ。

この内粉で消耗、弱体化した三好政権は、

翌年の9月、信長の軍事力の前に崩壊。

このとき久秀だけは、大和一国を安堵されている。

信長が足利義昭を擁して上洛した際は、

義昭は兄の義輝暗殺の首謀者として、「久秀を誅殺せよ」と命じた。

が、信長は久秀を庇って助命に持ち込んだ。

この時この恩をもって久秀は信長に、

臣従の証しとして名器・「九十九髪茄子茶入」を献上している。

第一次信長包囲網の折には朽木元綱を調略し、信長のピンチを救う。

これが信長に対する久秀最初で最後の忠節であった。

敵の敵は味方じゃないと傷が言う  竹内いそこ

元亀2年(1571)、義昭と呼応し、久秀は武田信玄に通じて信長に背く。

これは信玄の死によって実らず、降伏。

これを信長は、「一回目は許す」を信条として,

久秀を許し、大和支配を安堵させた。

天正3年(1575)、多聞山城と大和守護を失うと、

北陸の上杉謙信を頼んで,再び信長に背く。

天正5年(1577)、上杉謙信・毛利輝元、石山本願寺などの

反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。

信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり、

再び対決姿勢を明確に表した。

時々は堪忍袋解き放つ  合田瑠美子



『太平記英勇傳松永弾正久秀』-平蜘蛛釜・謀反-落合芳幾

信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、

使者には会おうともしなかった。

信長は、嫡男・信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、

信貴山城を包囲。

所有していた「名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命する」

と寛容な対応を提示したが、それに対して久秀は

「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ。

  粉々に打ち壊すことにする」

と返答したという。

信長のもとに人質として預けていた2人の孫は、京都六条河原で処刑。

そして東大寺大仏殿を焼き払った10年後の同じ10月10日に、

久秀はついに抗しきれず、名器・「平蜘蛛の茶釜」を抱いて、

火中に投身した。享年六十八。 

『平蜘蛛の釜と俺の首の二つは やわか信長に見せさるものかわ』

は久秀辞世の句とされている。

地獄の扉に「ようこそ」と書いてある  新家完司

「信長のなぜを考える」

信長が語った久秀の「三悪事」に対し、

信長自身も主君に当たる織田大和守家の当主・織田信友を討滅し、

将軍であった足利義昭を追放し、「比叡山焼き討ち」を敢行する等、

久秀とまったく同じような所業を成している。

似た者同士、「親近感を抱いた」のではないかという説がある。

また、下克上でのし上がった乱世の奸雄としては、

斎藤道三とも類似しており、

「信長は道三の面影を久秀に見ていた」

のではないかという説もある。

赤い血を出さないように串を刺す  寺川弘一


「平蜘蛛」


蜘蛛が這いつくばっているような低く平らな形から名付けられたという。

「松永久通」

大和国多聞山城主。 松永久秀の嫡男。
                         ながやす
三好三人衆の一人三好長逸とともに将軍義輝暗殺の実行犯となった。

三好三人衆との内戦では多聞山を死守し、

将軍義昭を奉じて、上洛した信長に父・久秀とともに臣従。

しかし信長と義昭が不仲になると、父とともに信長に反逆して敗北。

裏切者にきびしい信長からなぜか父子とも許されたが、

その後に謙信の上洛の話にのって再度反旗をひるがえし、

父とともに、信貴山城で自害した。

ポキポキポキポキそれは無駄骨  鳴海賢治

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