木漏れ日は古い小さな椅子になる 河村啓子
三顧の礼ー(月岡芳年/玄徳風雪に孔明を訪う)
劉備、関羽、張飛が「軍師」孔明を迎える三国志の名場面・『三顧の礼』
江戸時代・「三国志演義」が日本に輸入されて民衆にも広く愛読され、
その名場面が錦絵にもなった。
(画像は拡大してご覧ください)
諸葛孔明
「軍師の原点」
この世に、
「軍師」という存在が初めて誕生したのは、
ちこう
遡ること紀元1世紀、西暦23年
(地皇4年)と考えられている。
『後漢書』に、
かいごう
隗囂という君主が、方望なる人物を軍師として招聘したと記され、
彼が正式な形で、軍師の地位・肩書きに就いた史上初の人物とされる。
かんきん こうほぶん
同時代には、
韓歆や皇甫文が軍師の地位に就いていたという。
制度としては彼らが初めてなのだが、
それ以前にも、似たような地位に就いた人物はいた。
切株に父の帽子が置いてある 笠嶋恵美子
太公望
りょしょう
有名な処では紀元前1100年頃に周の
文王を補佐した
呂尚(太公望)、
りゅうほう ちょうりょう
前漢の
劉邦(紀元前200年頃)に仕えた
張良などがいる。
とくに張良は、戦場で手柄を立てたことは一度もなかったが、
いあく
「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」
と、主君の劉邦に評価されている。
帷幄=幕。作戦を立てる所。
そこから時代が少し下ると軍師は、よりハッキリとした形で現れる。
中国の後漢時代
(25~220年)で、その末期が
「三国志の時代」である。
飛び降りてよいかあなたのてのひらへ むさし
張 良
軍師を初めて制度化し、有効に使った君主といえば、
そうそう
三国の中でも最大の勢力を誇った
「魏」の創始者・
曹操である。
じゅんいく
この曹操に仕えた軍師で、もっとも有名なのが
荀彧だ。
彼は正式に
「軍師」という役職についたわけではないが、
「わが子房(張良)が来た」
と曹操に喜ばれたほどの才知をもって、曹操の相談役を務めた。
戦争の際は同行せず、
曹操の留守を預かって、政務を代行することが多かったようだ。
曹操は窮したとき、戦場から手紙を出して彼に戦況を知らせ、
軍の進退を相談したほどだった。
沖凪いで沖の返事がいま届く 桑原伸吉
じゅんいく じゅんゆう かくか ていいく
曹操は荀彧の他に、
荀攸をはじめ、
郭嘉、程昱など、
複数の補佐役を、傍において重用し、
その参謀グループに
「軍師祭酒」という名前をつけていた。
その筆頭が荀攸だった。
荀攸は荀彧の甥にあたるが、叔父とは異なり、
よく戦場に同行して、謀をめぐらせるタイプの軍師だった。
例えば呂布軍との戦いでは、
水攻めを考案して曹操に提案し、
籠城した敵を追い詰め開城させた。
こだわってけやき並木のもたれぐせ 墨作二郎
周 瑜
そんけん
同じ三国の一つ
「呉」の孫権は、制度上「軍師」という職は用いなかった。
しかし特定の有能な人物に軍の全権を預け、
総指揮を任せるという活用の仕方をした。
しゅうゆ ろしゅく りょもう りくそん
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜 などがそれである。
とくに周瑜は、
「赤壁の戦い」で曹操軍を撃退し、
陸遜は、
「夷陵の戦い」で劉備軍を撃退するなど、
いずれも国難に際して重要な働きをし領土を守り抜いた。
ひと口に
「軍師」といっても、用いる人物や制度によって、
さまざまにその役割を変えたのである。
裏側の貌は見せない薔薇の艷 前岡由美子
曹操の石像
【荀彧】
涼やかな風貌を持ち、
若くして「王佐の才」(王者を助ける才能)を持つと評された。
大局を見据えることに長け、人材を見る目も確かで数多くの賢人を曹操に推挙した。
【荀攸】
戦場に同行することが多かったが、性格は慎み深く、
常に目立たないよう振る舞って曹操を盛り立てた。
【郭嘉】
常に前線において曹操のために献策し、勝利にたびたび貢献した。
呂布討伐戦では、荀攸とともに徹底抗戦を進言し水攻めを提案した。
太陽の裏へご一緒致します 井上一筒 [2回]
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