ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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川崎尚之助
太陽と月を跨いでいるひたい 谷垣郁郎
木の上で読書に耽る八重
(画像は拡大してご覧ください)
「川崎尚之助」
八重
の兄・
覚馬
は江戸での
「遊学」
を通じて、
幕府や諸藩の開明の士との間に、人脈を広げていったが、
その中の一人に、
川崎尚之助
がいた。
八重の最初の夫となった人物である。
本名は
「正之助」
だが、
会津松平家の始祖である
保科正之
と、似ているため、
配慮して改名したという。
薄皮を剥いでシーラカンスは昆布〆 山口ろっぱ
尚之助は、出石藩の医者の家に生まれ、
覚馬と同様に、江戸で医学や蘭学を学んでいた。
出石藩きっての俊才と評判の若者で、
覚馬は会津藩の藩校・
日新館
に設立した蘭学所の
教授陣を充実させるために、
尚之助をスカウトして、会津に呼んだのだ。
尚之助は蘭学所で教鞭をとるかたわら、
覚馬の「軍制改革」を補佐した。
大文字山を盆地で摺り下ろす 筒井祥文
木の上の八重を見上げる尚之助
近年の研究では、尚之助は、
覚馬の肝いりで後に正式に会津藩士として、
取り立てられたことがわかっている。
覚馬は尚之助を、自分の家に寄宿させていたため、
八重は十代前半の頃には、
尚之助と一つ屋根の下で、暮らしていたことになる。
≪八重と尚之助のそれ以上の馴れ初めについては不明≫
アッハッハ女心が描けない 徳山泰子
近年になって八重が、尚之助の妻となったことが、
確認できる資料が発見されたため、
二人が夫婦だったことは、間違いないとされる。
しかし、
「二人の結婚生活がどのようなものであったか」
が解るエピソードは残ってないし、
八重自身も尚之助のことについては、
口を閉ざして、語りたがらなかった。
擂鉢の節目に点滅信号 岩田多佳子
一方、二番目の夫である
新島襄
については、
回顧録で思い出の数々を語っており、
まだ封建的な道徳観念が色濃く残っていたことを、
差し引いても、あまりに対象的な扱いといえる。
それでも、八重にとって尚之助との夫婦生活が、
忘れたい過去だったかといえば、
決してそんなことはないはずだ。
美辞麗句君はフリーズドライ刑 岩根彰子
特に兄の覚馬が京都に発ってからは、
洋学に明るい尚之助が、
兄に代わる八重の心の拠り所となったことは、
確かだろう。
尚之助は、
「会津戦争」
の敗戦と時を同じくして、
八重と別れたとされる。
それまでは、会津藩士ではないので開城の際に、
会津を去ったというのが定説であったが、
近年になって、尚之助は会津藩士だったことが
わかっているので、疑問の余地がある。
ボンネットバスに二人で乗った頃 井上一筒
他藩出身の尚之助に責めが及ばないように、
「八重の方から別れた」
という説もあるが定かではない。
会津藩が斗南に移封になると、
尚之助も斗南藩士として同行している。
その後、廃藩置県を経て斗南藩も消滅。
尚之助は裁判に巻き込まれて、
東京に身柄を送られ、
判決を待たずに獄中でひっそり死んだ。
花屋のない街を通って来た別れ 森中惠美子
[2回]
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y2013/01/19 09:30 z
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