ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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妖霊星流れる
人間をすぐに数える紙コップ 森中惠美子
ドナチ彗星
イタリア人の天文学者・
ジョヴァンニ・P・ドナチ
が発見した彗星。
「ドナチ彗星―箒星」
尾が伸びたように見える姿から、
箒星
(ほうきぼし)
と呼ばれる。
彗星
のこと。
その形状が流星と似ているが、
移動速度が異なるため、
彗星は天空に、留まっているように見える。
1858年10月10日に最も地球に接近した。
次に接近するのは3811年とされている。
どうしても流れの先を見てしまう 立蔵信子
井伊直弼
「難問にケリをつけた幕末の剛腕大老―井伊直弼」
井伊直中
の子として生まれた
直弼
は、
14男で兄弟が多かった上に、庶子であったこともあり、
養子の口もなく、父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、
17歳から32歳まで、
三百俵の捨扶持の部屋住みとして15年間、
茶道や和歌、禅、居合術などを学び、
世捨て人のように生きた。
その風流な姿から
「チャカポン」
(茶・歌・鼓)
とあだ名された。
昼寝から欠伸ひとつをした大器 辻内次根
ところが弘化3年
(1846年)
、
第14代藩主で兄の直亮
(なおあき)
の世子であった、
直元が死去したため、人生一変、
兄の養子という形で、彦根藩の後継者に決定する。
そして、36歳のとき、第15代彦根藩主となる。
彦根藩時代は
藩政改革
を行ない、名君と呼ばれた。
その実績から江戸城にスカウトされ、辣腕を振るう。
そして、安政5年
(1858)
4月、
将軍
家定
の後継に
慶福
(よしとみ)
を推す
「南紀派」
の、
政治工作により、将軍に次ぐポストである、
大老
に登りつめる。
弾むたび古い鱗を振り落とす 嶋澤喜八郎
彼が
「桜田門外の変」
で命を落とす、
およそ2年前のことである。
井伊は、幕府がかかえていた二つの大きな問題を、
強引な手法で解決へと導いていく。
ひとつは、
「日米修好通商条約」
。
日本側に不利な
不平等条約
であったが、
井伊は日本の行く末を考え、
孝明天皇
の勅許を得ないまま、
強引に条約締結へと踏み切った。
そして、もうひとつが、
「将軍の跡継ぎ問題」
である。
投げかけた答は長い長い貨車 山本早苗
時の将軍・家定に子がいなかったため、
直弼は、当時まだ13歳だった紀州徳川家の
慶福
(家茂)
を、
十四代将軍の座にすえた。
後継候補にはもう一人、水戸徳川家出身で、
聡明だとして評判の高かった当時22歳の
一橋慶喜
もいたが、
直弼は、慶福のほうが将軍家の血が濃いとし、
慶福を将軍職につけたのだった。
器からはみだしていくボヘミアン 高島啓子
水戸斉昭
これには、血統を重んじて、
徳川将軍家の権威を強化するという意図のほかに、
自分の意のままになる若い将軍をすえ、
「自身の権力を強めたい」
という狙いがあったと考えられる。
しかし、直弼が行った強権的な政治は激しい反発を呼んだ。
とくに不満をつのらせたのは、
慶喜の出身家である水戸藩である。
水戸藩をはじめとする
尊王攘夷派
は、
直弼が、勅許を得ずに条約に調印したことを理由に、
直弼の諸政策に対して、
真っ向から反対の姿勢を示していく。
塩壺の底に貧乏神がいる 新家完司
そこで、直弼は
「安政の大獄」
という大弾圧で、
反対派を多数処罰した。
水戸斉昭、一橋慶喜、松平春嶽
、ら一橋派が、
違勅調印と詰め寄ると、
「不時登城」
を理由に隠居謹慎を命じ、
一橋派の朝廷工作
(戌午の密勅)
が明らかになると、
斉昭らを蟄居、橋本左内、吉田松陰ら、志士を斬刑に処し、
皇族や公卿も粛清した。
異議のある人は方物線上に 井上一筒
しかし、直弼の独裁政治も長続きはしなかった。
自派の幕閣も次々と罷免し、孤立を深めていく。
そして、安政7年3月3日雪の朝、
外桜田の藩邸から江戸城に向かう途上、
水戸脱藩浪士ら18名に襲撃され、
井伊直弼は44年の生涯を閉じる。
(桜田門外の変)
何が変わったか おそらく風とおし 下谷憲子
パリの夜空に輝いた巨大な箒星(1858年)
「大河-ちょっと覗き見」
井伊直弼
への談判のあと、
直弼邸の裏門から出た
松平容保
は、
空に長い尾を引く巨大な箒星を見て、
不吉な思いにかられる。
容保が見た箒星を会津の
八重
も見ていた。
「あれ、見らんしょ!妖霊星だし」
妖霊星が現れると幕府が滅ぶなど、
不吉な予兆と言われていたが、
八重の不安をよそに、
覚馬
や
尚之助
は迷信だと切って捨てる。
あいまいにしておく影のことなんか 清水すみれ
ところが八重の不安が的中する。
長崎で流行りだしたコレラは、
瞬く間に広まって大勢の死者を出し、
薩摩藩主・
島津斉彬
の命も奪った。
さらに幕政では、
井伊直弼による大粛清が始まっていた。
水戸藩への密勅に関わった者たちへの、
一斉検挙が行われたのだ。
雲行きが怪しい笑顔片付ける 和田洋子
当時の箒星の出現についての日記
宮崎県・
「宮崎県史史料編近世5」
より。
「一 安政五年戊午八月酉戌之間ニ
ほうきぼし
出、
長さ一丈五尺計・横壱尺計、暮六時下刻ニ出、
夜五時上刻ニ入、星入時者弐丈五尺計ニ尾を引相見合候」
永浜家文書・高原所系図壱冊(天保四年十二月吉日)」
(永浜公法氏所蔵)に、と書かれている。
※ 一丈五尺(約4.5メートル) 弐丈五尺(約7・5㍍)
悠遠を斬る一瞬の流れ星 中島国夫
[2回]
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y2013/01/27 09:30 z
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