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川柳的逍遥 人の世の一家言
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とりあえず意思は曲げない接続詞  たむらあきこ

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   西郷頼母

会津藩祖・保科正之の同族で、

代々家老職を務めた西郷家、西郷近思の嫡男として、

天保元年(1830)に生まれた頼母は、

万延元年(1860)、31歳で家老職を継ぐと、

藩主・松平容保に忠誠をもって仕えた。

しかし、時代は幕末に向かって混乱を極め、

頼母は会津藩とともに、歴史の渦の中に巻き込まれる。

ひん曲がり斜めに咲いてそれも花  山下怜依子

頼母、そして会津藩にとって、

後の命運を左右することになったのは、

文久2年(1862)だった。

幕府は容保に「京都守護職」を命じた。
 
これを知った頼母は急ぎ江戸へ上り、

朝廷と幕府の間に入り、

「難局にあたることは容易ならざるため、

  京都守護職は辞退すべし」


と容保に説いた。

咲きなさい自分の好きな色かたち  嶋澤喜八郎

しかし、幕府の執拗な要請に、

容保は、京都守護職を受諾してしまう。

それでも、強固に辞任を求めたことで、

容保の怒りを買った頼母は、家老職を解かれ、

蟄居させられてしまう。

残照を描き私を俯瞰する  前中知栄

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    鶴ヶ城外景 (画像は拡大してご覧下さい)

慶応4年(1868)「戊辰戦争」が起こると、

頼母は急ぎ家老職に復帰する。

江戸藩邸の後始末を終えた後に会津へ帰ったが、

維新後の新政府は、「会津藩征伐令」を出し、

会津に攻め入る。

「不戦恭順」を唱えていた頼母だったが、

恭順の意が朝廷に届かず、

総督として新政府軍を迎え撃ったが敗れて、

鶴ヶ城に帰る。

頼母は長子の吉十郎を伴って城を出たが、

母をはじめとする一族は籠城の末、全員が自刃した。

字余りのままで流れてゆくのです  中 博司

その後、頼母は、榎本武揚らと合流し、

箱館で政府軍と戦ったが、最後には降伏、

館林藩に預けられて幽閉される。

明治5年(1872)に開放されると、

伊豆に私塾を開設し、

塾長として里人らに学問の指導を行った。

明治8年(1975)からは福島県の霊山神社の宮司を勤め、

明治36年(1903)会津若松の旧藩邸のすぐ近くにある、

十軒長屋で74年の生涯を終えた。

手も足も口も出さない石となる  河村啓子

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