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川柳的逍遥 人の世の一家言
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折り紙は品行方正で通す  谷口 義

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     松平容保

「火中の栗を拾う」

嘉永6年(1853)、黒船が来航し、

強硬に開国を迫るペリーを前に、幕府は翌年、

日米和親条約を締結。

続いて安政5年(1858)に、

大老・井伊直弼孝明天皇の勅許を得ないままに、

日米修好通商条約を結んだ。

この幕府独断での締結に、

尊王攘夷を唱える人々が反発する。

が、井伊は彼らを大弾圧を実行する。(安政の大獄)

しかしこれが、尊王攘夷派暴発の引き金となった。

樟脳がころころと落ち冬近し  森中惠美子

安政7年(1860)桜田門外の変で井伊が討たれると、

文久2年(1862)には、老中・安藤信正も襲撃されるなど、

各地でテロの嵐が吹き荒れる。

その最たる地が、京都であった。

この頃の京都は、長州藩を中心に

過激な尊王攘夷派志士が跋扈し、

彼らは安政の大獄で、幕府に協力した者たちを、

「天誅」と称して、次々と暗殺していくのである。

砂漠が増えたねと月が言うている  井上一筒

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 吉田松陰処罰の場面

こうした状況下で、

幕府が京の治安を回復すべく設けたのが、

「京都守護職」である。

京都守護職は、京都の警察機構の頂点にあたる。

京都役所代京都町奉行という、

従来の治安維持機構を傘下に置き、非常時には、

畿内の諸藩に対する軍事指揮権を持つという、

絶大な権限が付与されていた。

格子の向こう花魁ですか神ですか  安土理恵

しかし、尊王掛激派の取り締まりは容易ではなく、

当然、人も金も莫大にかかり、

幕府からの年5万石の投料ではとても賄いきれない。

さらに、恨まれることはあっても、さしたる実利はない。

そう考えると「貧乏くじ」と言わざるを得ない役職なのだ。

そのお鉢を回されたのが、会津藩だった。

まだ横に貧乏神がいるようで  くんじろう

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  松平春嶽

「ぜひとも就任していただきたい」

幕府政事総裁職・松平春嶽松平容保に、

京都守護職を打診したのは、文久2年5月3日のこと。

会津藩が選ばれたのは、幕府にとって、

「頼りがいのある」存在だったからで、

会津藩は「軍事力」の面からも幕府を支えていた。

横っ腹に草間弥生の玉受ける  三村一子

文化3年(1806)から翌年にかけてのこと。

ロシア船が蝦夷地を襲撃するという事件が発生すると、

会津藩は幕府に出兵を願い出た。

藩の武威を天下に示す狙いがあった。

その9ヵ月間の樺太警備を務め、

藩兵の規律正しい行動は、世間でも評判となった。

大根の髭は他人を騙さない  桑原伸吉

また、文化7年(1810)から相模沿岸警備を10年間、

さらに、弘化4年(1847)からは、

房総海岸警備に7年間就いたことで、

会津藩は幕府にとって、

「非常に強力な軍備を持った雄藩」

であるとの認識に、つながったのである。

君のこと好きです広い意味ですが  前原正美

また、黒船来航時には、江戸湾防備に当たった。

強悍で知られ、

かつ幕府に絶対の忠節を尽くす会津藩が

京都守護職を命じられたのは、

ある意味必然的な流れだった。

君が代を歌いつづける海の底  大森一甲      

もっとも、会津藩にとっては、

京都守護職就任の打診は青天の霹靂のこと。

江戸湾防備に続き、

混迷を極める京都市中の取り締まりが、

「火中の栗を拾う」 任務であることは、

誰しも分っていたことである。

ゆえに西郷頼母田中土佐ら重臣たちは反対し、

容保も、

「不肖の身である自分は、そのような大任に堪えない」

と松平春嶽の求めを一度は断っている。

吹雪襲来わたしがなにをしたという  夏井せいじ

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