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川柳的逍遥 人の世の一家言
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障子から射すのがきっと未来です  清水すみれ            



       福原城本丸跡

「毛利との攻防の始まり」

信貴山に籠る松永久秀を攻め滅ぼした信長は、

毛利との直接対決を決断。

天正5年(1577)10月、秀吉を将として兵7千を西播磨へと進攻させた。

ただ、この秀吉播磨出陣前の9月、信長は官兵衛に人質を求めている。

それに応じて官兵衛は、嫡男の松寿丸を人質として信長のもとに預けた。

官兵衛は小寺政職の家臣でしかなかったが、

実質的に、小寺家を支えていたのが官兵衛であることを、

信長が見抜いてのことである。

秀吉を迎えた官兵衛は、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り渡す。

一族は国府山城に移らせ、自らは姫路城の二の丸に詰めた。

いよいよ,5年に亘る織田軍の毛利との攻防がはじまる。

ぽろりんと生れた日から鬼ごっこ  菊池 京

秀吉の軍勢がやって来たとはいえ、

毛利氏の勢力圏内に近い西播磨の豪族の多くは、

信長に敵対する姿勢を崩さなかった。
                      すけなり          まさのり
なかでも作用城の福原助就、上月城の赤松政範などは、

毛利方の有力大名のひとり、備前の宇喜多直家の支援を受け、

あからさまに反抗してきた。

秀吉軍は11月、1千の兵で福原城(作用城)に籠る福原軍を包囲。

この福原城と同時に、4キロほど離れた上月城も攻撃している。

この陣には竹中半兵衛も参加、官兵衛との揃い踏みとなった。

「福原城の戦い」である。
                                           いしひっけつ
ここで、『孫子』軍第7にある兵法のひとつ「囲師必闕」の策を、

官兵衛は見事に活用している。

わたくしとまだやりますか泥試合  安土理恵          



              福原霊社

福原城跡・福原霊社には、頭脳明晰だった城主・福原氏を祀っている。

「福原城の戦い」

官兵衛の調略によっての播磨の大半の城主たちは戦わずして、

秀吉方になびいたが、作用城(福原城)と上月城だけは、

毛利氏に属す宇喜多直家の支配下にあるため、

徹底して織田氏の軍門に降ろうとはしなかった。

そこで官兵衛は、半兵衛とともにこれらの城を攻めることになった。

孫子の兵法・「囲師必闕の兵法」とは、

「囲師には必ず闕き、窮冠に迫ることなかれ」

と続き、

「敵を追い詰めても必ず逃げ道をあけ、

  窮地に追い込んだ攻撃をしかけてはならない」

というものである。

これは四方全部を囲んでしまうと「窮鼠猫を噛む」の状態となった敵が、

死にもの狂いで抵抗するため、

味方の損害がそれだけ増える危険性がある と教えているのである。

考える形で影が離れない  早泉早人

官兵衛はそれに倣い、福原城を三方から攻めた。
            すけなり
城主の福原助就をはじめ城兵たちは、

思惑通り、包囲のゆるい一方向から逃げてくる。

官兵衛は空けておいた逃げ道の先に伏兵を潜ませた。

そのため逃げ出してきた大部分の城兵たちが討ち取られたのである。

官兵衛に指示されてその場所に待機していた平塚為広は、

秀吉の勘気にふれて浪人の身となっていたが、

官兵衛のおかげで、見事手柄を挙げることができ、

秀吉の配下に復帰することができたというオマケまでついている。

(黒田家の記録「黒田家譜」には、官兵衛の計略、孫子の兵法・「囲師必闕」

  によって福原城(作用城)を落城させたと記されている。

  そして毛利に与し敗北した宇喜多直家は天正7年に織田方に寝返っている)

沈黙のしこりをついに笑わせる  岡内知香



福原則尚の肖像画福圓寺所蔵)

「福原助就」
                                           のりひさ
播磨国高倉山城主。本来、福原城主は福原則尚と伝わるが、

『黒田家譜』などは、福原助就が福原城主としている。

秀吉の中国遠征がはじまると、毛利と手を結んで抵抗したが、

官兵衛らの猛攻にあい平塚為広によって討たれたという。

『黒田家譜』では、城主・福原助就、城主福原則尚両名とも

黒田官兵衛の家来に討ち取られたことになっている。

が、地元の伝承では、福原則尚は戦死せず、

城に火を放って高尾山福円寺まで逃れ、

12月1日ここで自害して果てたと伝えている。 (『三日月町史』)

福圓寺には則尚の墓だけでなく、後世の人が想像して描いた肖像画もある。

国滅ぶ時も行列崩さずに  板垣孝志



      柴田勝家ー(太平記英雄伝)

【豆辞典】ー「手取川の戦い」

現在の石川県白山市付近を流れる手取川で繰り広げられた合戦。

信長の先発隊である柴田勝家と上杉謙信軍が矛を交えた。
                            ちょうつぐつら
畠山の居城・七尾城の重臣・長続連の救援要請に応じた信長は、

柴田勝家を総大将とする先発隊を派遣して、

自らも大軍を率いて加賀へ出陣した。

ところが柴田軍が進軍する途中、
                                ゆさつぐみつ 
以前から続連が実権を握ることに不満を抱いていた遊佐続光
ぬくいかげたか
温井景隆ら親上杉派が内応して、七尾城は落城。

その情報を手取川を渡りきったところで知った勝家は、

すぐさま撤退を命じたが、

満を持して待っていた上杉軍の襲撃にあい惨敗。

運悪く手取川の増水で逃げ場を失った柴田軍は多数の溺死者を出した。

謙信は関東情勢が気にかかっていたので柴田軍を追撃せず、

関東を平定した上で上洛しようと考えて、

居城・春日山城にいったん凱旋したが、その半年後に病死した。

川あかりだけを頼りに行きますか  酒井かがり

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