酢味噌和えつまむと霧が濃くなった 森田律子
赤漆塗合子形兜
櫛橋左京進は播磨城主の嫡男。
青年期は近習として
小寺職隆に仕え、同僚の
官兵衛をよそ者と侮る。
やがて妹・
光が官兵衛と結婚して義兄弟となるが関係は改善せず、
家督を継いでからも官兵衛と対立した。
さらにもうひとりの妹・
力が嫁いだ上月城を攻め落とした官兵衛に、
より深い遺恨を抱くようになり、
そのことが播磨を揺るがす動乱に発展する。
この左京進と官兵衛のエピソード。
ゾーンぎりぎりの男で我慢する 中村幸彦
「赤漆塗合子形兜」
永禄10年(1567年)、御着城の城主・
小寺政職が櫛橋光を養女とし、
小寺家の家臣・黒田官兵衛と結婚させた。
櫛橋左京進は、この結婚に際し、
黒田官兵衛に
「赤漆塗合子形兜」を贈られたといわれている。
この兜の特長は、お椀を逆さにしたようなユニークな形状で、
合子とは、蓋付の小型容器を意味している。
あかうるしぬりごうしかぶと
赤漆塗合子形兜を着用した官兵衛は、
戦場で
「赤合子」と呼ばれ、敵方から恐れられたという。
ところが、櫛橋左京進からの贈り物とされる合子形兜は、
黒田の子孫である三代藩主・黒田光之が官兵衛を偲んで、
貞享5年
(1688)に領内の具足師に依頼し作成されたものなのだ。
疑問符は続く明日も明後日も 岡谷 樹
「合子形兜の成り行き」
合子形兜の実物は、現在、岩手県盛岡市の歴史文化館が所蔵している。
なぜ、福岡から遠く離れた盛岡に、官兵衛の合子形兜があるのか。
元和9年
(1623)
黒田長政が没すると、
新しく福岡藩主になったのが
忠之である。
しかし、忠行は粗暴な性格でもあり、長政から廃嫡を迫られていた。
この事態を救ったのは、
栗山大膳である、
大膳は血判した嘆願書を長政に送り、忠行を廃嫡にするならば、
家臣一同切腹すると申し出た。
そのような事情から長政は、後見として大膳を頼み、
死後に家督を譲るようにしたのである。
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ところが大膳が送った諫書が忠之の機嫌を損ね、
以来、忠之は大膳と距離をおくようになった。
寛永元年
(1624)に新藩主についた忠之は、
譜代の家臣を退けて、新たに
倉八十太夫らを登用した。
なんと一万石も与えている。
そして幕令を無視し、軍船・鳳凰丸の建造、足軽隊の増強は、
幕府のお咎めを受けることとなった。
水底にゆっくり溜まる不協和音 青砥和子
家老の大膳は忠之を諌めたが、
却って忠行は大膳を殺害しようとした。
寛永9年大膳は豊後府内藩主・
竹中采女正とともに、
江戸にのぼり、忠之が謀反を起こすと幕府に訴えたのである。
翌年の裁定により黒田家は存続し、
大膳は陸奥盛岡藩・南部家に預けられた。
いわゆる
「黒田騒動」である。
こうした経緯を踏まえて、
大膳が所持してい
た合子形兜は盛岡に移ったのである。
官兵衛の形見といわれる合子形兜は、
正式には
「銀白檀塗合子形兜」という。
涙こぼれます天地無用に願います 美馬りゅうこ[3回]
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