真夜中にバケツの水を入れかえる 河村啓子
天正6年(
1578)元日。
織田信長は
松井友閑を茶頭にして茶会を開催した。
この時代の茶の湯は政そのもので、信長の茶会に招かれることは、
織田家中で一歩抜きんでることにほかならなかった。
茶会に招かれたのは、
秀吉、信忠、光秀、村重、長秀、一益 ら12名で、
謙信に備える
勝家は席に加わることが出来なかった。
茶会で秀吉がひと月で播磨を平定したことが話題になると、
秀吉は、
「すべて信長の威光のおかげ」だと主君を立てる。
そんな秀吉は毛利攻めに際して、信長の出陣を願い出た。
対して信長は、
荒木村重に本願寺との和睦を急かせると、
毛利氏を自ら叩き潰すと宣言する。
砂嵐と根気比べをする駱駝 高島啓子
村重は、石山本願寺の
顕如に和睦を申し入れていた。
しかし身内を殺されていた門徒たちは、信長の卑劣さを憎み、
死ぬまで戦い続ける覚悟を決めていた。
顕如でも門徒衆を止めることは出来ない状態だった。
石山に留まって顕如の返答を待っていた村重は、
元朋輩と再会した。
旧友にも信長の非道ぶりをなじられた村重は、
逆に信長のやり方が嫌で、
気苦労が重なっているのではないかと労られる。
古い付き合いだからこそ、村重の心中を察するものがあったのだ。
すみません作り笑いの時間です 鳴海賢治
まもなく石山本願寺・顕如から村重に返事が届いた。
本願寺は和睦には応じないという返答であった。
和睦しても、信長が門徒衆を皆殺しにすることを、
本願寺側は見越していたのだ。
和睦の失敗を聞いた信長は、
「それなら滅ぼすまで」と声を荒げ、
村重には、本願寺が一区切りついたら播磨に行って、
秀吉の配下になるよう命じる。
屈辱的な命令をされた村重は、手柄を立てて、
ふたたび這い上がるしかなかった。
モリブデン前者の轍の踏み心地 井上一筒
『石山本願寺合戦』ー歌川豊宣画(明治16年)
「石山本願寺との10年戦争」
「天下布武」を目論む信長は、豊富な財貨を所持する石山本願寺に、
戦争資金の支援を求めた。
発展する流通社会のなかで、
街道筋の関所、運送業者、商品生産の元締め、流通市場などを
支配下においていた本願寺は、金銭に困ることはない。
いわゆる
「金持ち喧嘩せず」で顕如は信長の求めに応じ、
五千貫を供与した。
それから、2年後の元亀元年
(1570)9月、
信長は現在の大阪城辺りに位置する本願寺が所有する土地からの
立ち退きを求めた。
味方だと思い込んでいた敵の敵 笹倉良一
本願寺立ち退きには二つの理由が考えられる。
一つは、大きな経済的な基盤を持ち、武装した寺社勢力をなくす事。
権益を守るための寺社は、膨大な門徒宗がそのまま、武力となり、
また武装した僧兵や神人たちは、信長にとって氏族と何ら変わらない
「目の上のたんこぶ」だった。
一つは、信長はこの土地の有効性を知り、
何としても手に入れたかった事。
当時、摂津地方は満潮になると海流が淀川・大和川の奥まで逆流し、
雨が降れば一面水浸しの湿地帯になる。
摂津地方で唯一この石山の上町台地は高台になっており、
乾燥地帯であった。
またこの台地は淀川の河口に位置しており、京都の朝廷の牽制になり、
西国の大名を牽制できる絶好の地でもあったからだ。
地下茎を太らせながら風を待つ 前岡由美子
天下布武とは、
「七徳の武」をもって天下を治めるという意味。
七徳の武とは、
「暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、
民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする」の七つを意味する。
信長のやっていることは、すべてこれらに逆行することだが、
これを達成する為には、
「障害となるものは叩き潰すのみ」
何の批判があろうと、強行手段も止むを得ないと考えたのである。
こうして多くの大名が恐れていた聖域にも足を踏み入れた。
その内に一体となる天も地も 板野美子
一方、本願寺にとって信長の横暴はこれで終わるとも思えず、
信長への不信感が募らせていく。
そんな中、元亀元年(1570)、信長は石山本願寺の対岸に位置する
三好氏の野田砦と福島砦に攻撃を仕掛けてきた。
この砦を攻め落せば、信長の次の狙いは、
「おそらく本願寺」。
そう考えた本願寺の顕如は、
「危機である!」と門徒に決起を促した。
こうして本願寺と信長の10年戦争がはじまるのである。。
手を打つと怪しい雲がやってくる 森 茂俊
信長は、諸国に蜂起する本願寺一派の一向一揆の討伐に手こずったが、
天正4年
(1576)安土城を築くと、ここを拠点として、
一向一揆の本拠地である石山本願寺を猛攻、悪戦苦闘の末、
本願寺の軍を石山城内に閉じ込めることに成功する。
そこで信長は、本願寺の四方十ヶ所に砦を築き、兵糧攻めにした。
大阪湾からの兵糧搬入も水軍で海を包囲した。
これに対し、本願寺方も五十一ヶ所に端城を構え、
長期籠城の構えをとり、安芸の毛利氏の支援を得て、
糧食を大阪湾から寺内に搬入させて対抗した。
極め球を持った男の背のゆとり 山野寿之
さすがに、本願寺を支援する毛利の水軍は強力であった。
そこで、信長は対抗策として巨大な鉄の軍艦を造り、
軍艦には大砲も装備した。
これが有名な信長の巨大鉄船である。
この軍艦は、さすがに毛利水軍を圧倒した。
そして天正8年
(1580)、
正親町天皇が仲裁に入り、
信長は、門徒衆の命を取らないことを約束。
本願寺の顕如は、
「石山からの退去・武力抵抗をやめること、
信心だけなら許すが、武力抵抗のみならず、
武装することすら許さない」という信長の条件を受け入れ、
本願寺を開け渡すに至ったのである。
もう少し酔えば桜を見に行こう ふじのひろし[4回]