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川柳的逍遥 人の世の一家言
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花は散ったそろそろ人間に戻る  谷垣郁郎

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      女紅場    (画像は拡大してご覧ください)

明治5年4月、九条家旧屋敷を校舎とっして設立。

山本覚馬の妹・八重も教官を務めた。

日本初の女学校。

英語も教えられ、明治6年以降に各学区に設けられた。

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                               おおぎ
女紅場の門が移築された京都府立鴨沂高等学校正門。

黄昏を素早く掬うのでとても  酒井かがり

「日本を守るべきに何をすべきか」

京都府知事を務めた槇村正直に見識を買われた覚馬は、

明治3年に府顧問に招聘され、京都の近代化に取り組み、

また京都府会の議長を務めるなど、

維新後の旧会津藩士の中では、

「最大の成功者」の一人となった。

だが明治時代の覚馬で真に見るべきは、

幕末以来掲げていた

日本を守るべきに何をすべきか ―という気概を、

終生、失わなかった点にある。

鑑真和上のクローンではないか  井上一筒

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     御池小学校
                    (写真は明治初期に開校された御池小学校)

京都では明治5年の学制発布より早く、

小・中学校が次々と開校、

その数は最初の一年間で60を超えた。

覚馬が京都近代化の軸に据えたのは、

『管見』で主張した「教育」「物づくり」である。

教育では、学制発布以前より小・中学校を次々と創設。
       にょこうば
また「女紅場」という女子学校を設立して、

女子教育にも力を入れた。 

この女紅場で、

教師や女子寮の監督を務めたのが妹の八重だった。

彼女が覚馬を頼って京都に出てきたのは、明治4年のこと。

7年ほども離れ離れになっていた兄を慕い、

見ず知らずの京都にまで来たのだから、八重にとって覚馬が、

心から尊敬できる兄だったことは間違いない。

地下街の散り初めしバラ手に受ける  山口ろっぱ

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     京都舎密局

物づくりで特筆すべきは、「舎密局」の設置である。

いわば、化学研究所のことで、ガラスや薬剤、ビールまで、

幅広い西洋品の国産化が進められた。

他にも養蚕場製紙場を設け、

古都・京都は日本最先端の工業都市へと変貌、

今日の繁栄の基礎を築いた。

このような、「人づくり」「物づくり」を重んじた覚馬の政策は、

薩長が牛耳る新政府に対して、京都をモデルに、

「近代日本の理想像」 を示したと言えるものだろう。

湿地帯ぬけた足だな濡れている  中野六助

さらに覚馬は、近代日本の精神の核とすべき、

「新たな価値観」の必要性を痛感し、模索する。

そして注目するのが、「キリスト教の精神」である。

故郷会津が新政府軍に理不尽にも蹂躙された悲劇が、

背景に覗く。

会津藩士とその家族の多くが無念の最期を遂げ、

いわれなき「賊軍」の汚名までも着せられ。

維新後も故郷を追われ、

不毛の地で塗炭の苦しみを味わわされ、

職に就くにも差別された。

まさに薩長の、「勝てば官軍」の歪んだ価値観が横行していた。


(この価値観が今尚、幕末・新政府軍の戦死者のみを祀る靖国神社に残る)

白紙には重たい時間埋めてある  瀬川瑞紀

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   同志社英学校

明治8年11月に開校した同志社英学校

覚馬は新島襄を支援し、

自らが所有する旧薩摩藩邸跡(今出川)に校舎を建設させた。

そんな中で、少なからぬ会津の人々が、

「公正」「平等」を重んじるキリスト教に惹かれ、また覚馬も、

「義も節も力で捻じ伏せ、勝てば官軍と称して憚らない

  価値観を断じて許してはならない」 


と信じる中で、キリスト教の精神にある合理性、

公正さに着目するに至る。

そして、このキリスト教精神こそ、

これからの日本に求められると確信した覚馬は、

八重の夫・新島襄による同志社設立を、支援し、

普及に努めていくのである。

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縫針に通す夕日を尖らせる  岩田多佳子

"いかにして国の役に立つか"

覚馬の生涯は、この信念に貫かれている。 

それはやはり、彼が会津藩士であったことの影響だろう。

会津藩士の胸には、藩祖・保科正之が定めた

「将軍家への忠義を第一にせよ」

という、会津藩家訓の精神が深く刻み込まれている。

だからこそ、

黒船が来航すると品川や富津の湾岸警備を務め、

また火中に栗を拾うような京都守護職就任も、

涙を呑んで承諾した。

彼らは、国家を守ることを自分たちの存在意義とし、

そのために、取りうる手立てを真剣に考えた。

あの屋根を越えたいのですしゃぼん玉  三村 一子

「覚馬の推進した殖産興業」

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     養蚕場
                  (各画像は画面をクリックすると画像は拡大されます)
明治4年4月、操業。

養蚕、製紙などの改良に務めた。

覚馬は特に養蚕に感心を示したといい、公卿の子女にも養蚕を習わせた。


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      ふしみ
    伏水製作所

明治6年4月、操業。

土木用の鉄材、鉄具などを製造。

洋式の溶鉱炉を導入し、農具や印刷機械、四条大橋の鉄材も製造した。

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    栽培試験場

明治6年4月、操業。

勧業場前の畑に設けられ、


品質の優れた西洋薬草や木苗の試植、頒布をおこなった。

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       織工場
                    (写真は織工場の後身・京都織物株式会社)


明治7年、6月操業。

織物生産のほか、洋式の織物技術の研究所の役割も担った。


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      製紙場

明治9年1月、操業。

維新前、長崎で知り合ったドイツ商人・レーマンから新鋭機械を導入。

西南戦争での新聞普及に伴い激増した紙需要を賄った。

その他、勧業・製革・牧畜場などを次々開設させている。


幕末の動乱の中で、

師から継承した真の攘夷をなすための道筋を、

見失うことなく、新たな知識を吸収しながら、

日本が目指すべき国家像を描いた先見力と、

その実現のために、

覚馬はあらゆる障害に立ち向かっていったのである。

過ぎた日と未来をそっと綯っている  嶋澤喜八郎

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