ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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八重と新島襄の出会い
風もないのに揺れてしまったココロ 森田律子
八重と同志社女学校の教え子たち
(画像は拡大してご覧ください)
「八重と襄の出会い」
し め た
慶応元年、アメリカ・ボストンに渡った
新島七五三太
(襄)
は、
日本において国民教化を進めるべく、
明治7年に帰国。そのまま「
米国伝道会社」
に所属し、
宣教師として布教活動を行う。
大阪や神戸から伝道活動への協力を求められた襄は、
キリスト教と近代科学を教える学校を設立したかった。
しかし大阪府知事は、学校設立は容認するが、
キリスト教主義の学問や宣教師を教師に当てることを禁じ、
学校設立は暗礁に乗り上げてしまう。
山門があり遊郭があり梅雨があり くんじろう
しかし、大阪にいた
木戸孝充
らの援助で、
京都の大参事・
槇村正直
と知り合うと状況が変わる。
一度は諦めた大学設立を京都で行うことになる。
やがて、襄は槇村の知恵袋のような存在だった
覚馬
と知り合い、そして、のちの妻となる
八重
と出会う。
八重は、兄・覚馬に勧められて、紅場の勤めが終わると、
木屋町のアメリカ人・
ゴルドン
宅に行き、
聖書と英語を学んでいた。
余っても時間は明日に回せない 牧浦完次
新約聖書
八重や覚馬が
キリスト教
に関心を持つきっかけを作ったのも、
宣教師・ゴルドンの家でのことであった。
八重
が聖書を習いにゴルドン家を訪れた時、
ゴルドンの靴を磨いていた
新島襄
に出会うのである。
ある日、玄関で靴を磨いている男を見た。
一見、ボーイと思ったが、ゴードン夫人から、
「宣教師の新島襄」
と紹介された。
身の上をしずかに語るほうれい線 八上桐子
明治8年5月、襄と八重の初めての出会いだった。
八重と襄はしばらくの間は、
お互いを意識することはなかった。
が、最初に相手を意識したのは襄の方だった。
ある時、襄は京都府知事の槇村に、
「君はどのような妻君を迎えるのか」
と問われると、襄は
「亭主が、東を向けと命令すれば、
三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」
と答えた。 すると槇村は、
「それなら、ちょうど適当な婦人がいる。
山本覚馬の妹だ。
度々私のところに女紅場について難しい問題を持ちかけて、
私を困らせているのだ」
と語った。
ストレートな人だきっと馬が合う 佐田房子
そんなやりとりがあった後の、ある夏の日のこと。
覚馬を訪ねた襄は、井戸の上に板を渡し、
その上に座って涼みながら縫い物をする八重に出会う。
襄が、覚馬に危ないと促すと、
「妹は大胆なことをする」
と取り合わなかった。
そんな姿を見て、襄は八重に惹かれてしまう。
落ちそうですよ幅十センチの海 森 茂俊
襄はアメリカの
ハーディー夫人
への手紙で、
『彼女は見た目は決して美しくはありません。
ただ、生き方がハンサムなのです』
と書いている。 また実の父には、
『日本はいないかもしれない女性』
と綴っている。
そして、この年の10月、2人は婚約する。
凸レンズで覗く結実の経過 井上一筒
教科書(裁縫の手引き)
しかし、その直後、八重と襄、覚馬は職を失う。
八重は女紅場を解雇され、
覚馬は京都府顧問を罷免され、
襄も博物館ご用係を辞めさせられた。
京都という土地柄、
仏教界の圧力で3人の行動は、
「英語教育やキリスト教を布教する学校設立だ」
と懸念されたのだ。
なるようにしかならぬもの ちぎれ雲 新川弘子
[5回]
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y2013/08/24 09:30 z
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