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川柳的逍遥 人の世の一家言
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一山に盛られたじゃこに俺もいる  北野哲男


 小伝馬町牢獄図-1

【豆辞典―①】-「松陰時代の牢獄の環境」
               しょうかい
獄舎について、安政元年6月21日に松陰土屋蕭海へ送つた手紙に、

「極暑の候ではあるが牢内は、甚だ清凉で凌ぎよい故、

   御放念願ひたい」

と言ってゐる。

「江戸獄記」の中には、

「江戸獄ば裏表が格子となつて居り、日影が遠い故、夏でも凉しい」

と記してゐる。

更に夏になると「凉み」と云つて、隔日に昼の2,3時頃には、

外鞘の内に出してくれる等、なかなか行届いたものであつた。

日溜まりは恵み日暮れは早いまま  栗田久子

松陰が傅馬町の牢へ入つたのは二度共、夏から秋へかけてであって、

冬の経験はないが、牢内で他の囚人から聽く處に據ると、

「冬になれば格子へ紙を張つてしまふ故、甚だ暖い」

と記してゐる。

又、冬は參湯を給し、

夜になると熱湯を徳利に入れたものを、囚人へ與へ暖を取らせる。

獄中と云へども、相当の情があつた事が分る。

悩むのはよそうミカンに手を伸ばす  嶋沢喜八郎

松陰は最初の入牢の時は、友人達から金を取り寄せ、

それを牢名主に贈つて、遂に「名主の次ぎ」の添役と迄なるに至ったが、

地獄の沙汰も金次第であることは申す迄もない。 

然しながら、

何から何まで金次第だと考へると、大いに違ふとも云つてゐる。

「それは立引と称して、人から頼まれた囚人は、

   名主以下も決して粗末にしない。

   手当囚人は勿論の事だが、諸役人から託された囚人とか、

   或は有名な侠客や博徒から頼まれた囚人等は、

   特別扱ひにしたものであつて、金の力が物を云ふ獄中であつても、

   役付の囚人達に、唯、徒らに金のみを振り廻したとて、

   それは少しも顧みられぬものだ」

   と松陰は獄中の囚人にも猶意氣と云ふものがある事を泌々と感じた。

そうか君は明日も生きてるおつもりか 居谷真理子

又一方、牢屋係の役入獄卒達は賄賂を取る事に吸々として、
       いや
松陰も賤しむべき人達だとは感じたが、

他方に於いて、一度賄賂を貰つて承諾した事は必ず実行する。

約束を違える様な事がないのは実に意外であつて、

誠に左様な賤しい心の人達ではあるが、義理堅いものだと驚いている。

松陰が初めて傅馬町の牢へ入つた時、

友人の手紙の往復、金錢其の他の届物などを託したのは、

獄卒の伊八と云ふ者であつたが、

此の伊八は前に云つた義理堅さはなく、甚だ良くない奴であつた。

其の度に松陰から貰ふ使賃だけでなく、

小倉健作の處へなども度々行つて迷惑をかけたので、

松陰は小倉へ其の事を詫び、以後は伊八に託さぬ事とした。

伏線はあった接続詞が消えた  森吉留里恵

其の後は伊三郎と云ふ獄卒に託したが、

伊三郎は眞面目な人物であつて、松陰が小倉へ送つた手紙にも、

「伊三郎は容貌は怪異ではあるが、

   決して悪い人物ではない故安心してくれ」

と云つてゐる。

松陰が再度、傅馬町の牢へ入つた時は、

獄卒の金六に託して、外部との連絡を取つてゐた。

高杉晋作へ宛た手紙にも、

「金六は前回の入牢以來知つてゐる人物であつて、慥な者故、

   萬事此の者へ託してくれ」
 したた
と認めてあつた。

松陰が處刑になつた後、其の遺骸の引渡を請けやうと尾寺新之丞

飯田正伯が獄吏に賄賂を贈つた時も、この金六の手を通してであつた。

少し訳あり余白に太く引く破線  上田 仁


 小伝馬町牢獄図-2

獄中へ金銀や書物を入れる事は許されない。

即ち牢内法度の品として金銀、刄物、書物、火道具類は、

堅く禁じられて居る事項、松陰が友人から金を取り寄せたり、

或は「靖献遺言」「十八史略」等の書物を入れてもらつたのも、

皆内密の事で、それには此の獄卒を使つたものであった。

着物其の他の必需品は願出れば公然と差入れを許される。

松陰は初めの入牢の時、

紋付袷、紋付帷子、五布蒲團、單物、襦袢、下帯、手拭、

半紙、錢二百文等を差入れて貰つてゐる。

再獄の時も大体同様である。       

オラの画鋲は金に画鋲でごぜえやす  くんじろう

以上の如く松陰の傅馬町牢に於ける揚屋の生活は、

相当気楽なものであつたようだ。

松陰のゐた東口揚屋は間口二間半、奥行三間の部屋に、

同囚が十三人ゐたが、無宿牢となると間口四間奥行三間の部屋に、

いつも6、70人から80人にも達する囚人が押し詰められて居り、

毎日のやうに病死人が出た事は松陰も「江戸獄記」の中に記している。

以上の通り松陰の獄中記を読めば、同じ傅馬町牢の中でも、

揚屋と無宿牢とでは、囚人生活に如何に多くの相違があるかが分り、

又貴重な記録である。       (「梅丘庵・クラシマ日乗」より

後悔を埋めたあたりを掘り返す  美馬りゅうこ


    ホエ駕籠

【豆辞典ー②】「罪人の護送」

江戸時代、町人や農民など庶民の重罪人を運ぶとき、

竹で編まれた円筒状の駕籠が使われた。

これを「唐丸駕籠」又は「目駕籠」と呼ぶ。

「唐丸」とは中国渡来のシャモの愛称で、シャモを飼うときに使う

円筒状の籠を模して作られたことから名付けられた。

唐丸駕籠は、武士の罪人を運ぶために使われる場合もあったが、

一般的に武士を運ぶときには、普通の駕籠に施錠し、

上から青網をかぶせたものが用いられた。

帽子からはみ出す雄鶏のトサカ  井上一筒



唐丸駕籠は高さ90センチほどで、横には中の様子を見たり、

食べ物を差し入れたりする穴が、

底の台には、大小便の落とし穴があけられていた。

駕籠の中央には柱が立てられ、罪人の首にかけた縄を結びつけた。

罪人は手足も縛られ、

舌をかまないように、口に竹の管をくわえさせられることもあった。

真暗がり破って見ても明日がない 森 廣子

唐丸駕籠が通行するときは、前もって沿道の宿場に、

罪人を送り出した大名の名前などの名前や、駕籠の数(罪人の数)、

役人の人数などを記した「触れ書き」が届けられた。

「遠島刑」という刑罰では、離島に罪人を送るために、

船上に小さな牢が設けられた「流人船」という船が使われた。

江戸からは大島・三宅島・八丈島などが、

京、大阪、西国、九州からは壱岐・隠岐などが流刑地に選ばれ、

春と秋の2回出帆した。

船賃をお地蔵さまに借りたまま  笠嶋恵美子

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