|
川柳的逍遥 人の世の一家言
ピリオドの棘をきれいに抜いておく みつ木もも花
「新吉原櫻の景」 (歌川豊国/東京国立博物館)
蔦谷重三郎の本屋人生は、この吉原からはじまった。
夏痩の小川の水をふとらせて むなきもふらすゆふ立の雨 蔦唐丸
むなき=うなぎは古名「むなぎ」が転じた
夏痩せのように流れが細くなった小川の水を再び太らせて(大きくして)
うなぎのような(太い)雨を降らせる夕立の雨よ
蔦谷重三郎ー「戯作者と絵師たちの辞世の句」
生きていれば必ず訪れれ「死」。人間の営みの、また輪廻の一過程に過ぎな
いと言えども、その感覚は生きている者にとってみれば未知の世界であり、
怖いのと恐ろしいのと感情が定まらないので、できれば旅支度を終えてから
逝きたいものだ。落語のお決まりのセリフで「俺ァ死んだことがないから、
わからないが、こんなんだったら、若い時分にいっぺん死んどくんだった」
というのがあるが、まさにその通りである。
まだやりたいことがあったり、出来れば死にたくない者たちにとってみれば
「死」は理不尽で容赦ない。それでも何かを残そう、伝えようとするから、
人びとは「辞世の句」を詠んだ。
今では終活ノートとかいう風情皆無なものを書かされて、それも時代が進む
につれて必要なことで、風情とか言ってる場合ではないかもしれなう。
精霊とんぼ もの問いたげに言いたげに 太田のりこ
「山 居」
山さとも茶菓子ハさらに事かゝす まつ風のおと落雁の声 馬琴
「辞世の句」には、立派なものが多い。
人生を全うし、生きてこれたこと、周りへの感謝が込められている。
死を前に達観している。
人の因果因縁、勧善懲悪を追求した曲亭馬琴の辞世の句は、
「世の中の役を逃れてもとのまま かへすぞあめとつちの人形」
馬琴は74歳で両目が不自由となり、口述筆記で『南総里見八犬伝』を完成
させたのは75歳だった。八犬伝の後、新たに美少年ものに挑戦するも未完
で馬琴は逝く。しかし「生きる役目を終えて、魂は天に、身体は土へと還る」
と詠んだこの句には、大作を描き上げられたという満足と安堵がみえる。
堕ちてゆく時は火球と決めている 山本早苗
葛 飾 北 斎
馬琴が逝った半年後に、葛飾北斎も死出の旅に出る。
「ひと魂で ゆく気散じや 夏の原」
人魂になって夏の草原を気ままに飛んで行こう。
百歳まで生きようとした北斎だが、死期は悟っていたいたかもしれない。
「しょうがねェやな、人間一度は死ぬぬんだ」
という声が聞こえそうだ。
夏の原の向こうで、馬琴とまた仲良く喧嘩しながら絵をえがいてほしい。
永遠にさようならでもありがとう 福尾圭司
十 返 舎 一 九
馬琴も北斎も死を受け入れており、これを粛々と、飄々と詠んでいる。
ところが一筋縄ではいかないのが、粋と洒落を追求したクリエーターたちだ。
晩年の食客であり、重三郎が頼む仕事を何でもこなしたという十返舎一九は、
重三郎の死後に『東海道中膝栗毛』で旅行ガイド戯作という新しい分野で、
成功を収める。そんな彼が詠んだ辞世は、さすがの滑稽本作家で洒落が効い
ている。
「此の世をばどりゃおいとまと 線香の煙とともに灰左様なら」
ドヤ顔で「あばよ」とと言う旅装束の一九が見えるようだ。
遺言はさらりと未練匂わせず 新家完司
朋誠堂喜三二
こうした自分の死をもコメディにしようとした人物は、他にもいた。
「死にとうて死ぬにはあらねど御年には 御不足なしと人の言ふらん」
八十歳近くまで生きた朋誠堂喜三二の辞世の句。
「俺は確かに長生きだけど、死にたくて死ぬんじゃねェんだよ」
とぼやきが聞こえるようだ。
淋しくてまた死んだふりしています 高橋レニ
式亭三馬・浮世風呂
時代は下るが、京伝や馬琴の次世代の作家として、式亭三馬がいる。
十返舎一九と並ぶ滑稽本で一時代を築いた。
「善もせず悪も作らず死ぬる身は 地蔵笑わず閻魔叱らず」
実に平凡な人生だったなァ、みたいなことを言っているが、三馬は京伝や馬琴
を怒らせたり、筆禍を受けたり『浮世風呂』『浮世床』といった日常の滑稽の
他に仇討や勧善懲悪譚を書いたり、あやしい「江戸の水」を売って儲けたりな
ど、それなりに好き放題やっていた。
彼を知る者は「嘘つけ!」と笑って、被せ気味に突っ込んだだろう。
痛いとこ取れたらすぐに行くからね 安土理恵
太 田 南 畝
天明期の文壇の重鎮、太田南畝は多くの人物を見送ってきた。
吉原で共に散々遊び倒し、改革とともに去った恋川春町、ライバルとして意識
しつつも同志だった朱楽菅江、いつの間にか懐に入ってきた版元の蔦谷重三郎
無名の頃に目をかけた喜多川歌麿。自分より早くに逝ってしまった。
「今までは人のことだと思ふたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」
最後の最期で正直な感情を吐露する南畝。
しかし、狂歌師南畝のことなので、言外には、
「まぁ、生まれた時から決まっていたことだし」
と年貢の納め時を詠んだのかもしれない。自分の死をも笑い飛ばしてしまう。
それは当の本人にとっての問題で、他人からしてみれば戯作に描かれる滑稽の
ネタでしかない。自分たちも、そのネタで飯を食ってきたではないか。
だからこそ詠める、ヤケクソの句。そして後世に至るまで「粋な最期」として
語られる。
カタログの海老にはひげがあったはず 原 洋志 「拍子木と幕引き」
蔦屋重三郎は、寛政9 (1797) 年5月6日に48歳で死去した。
脚気であり、江戸の出版王も病には勝てなかった。
この日、重三郎は「午の刻(現在の12時)に死ぬ」と言い、家の者に、今後の
ことを指示し、妻にも礼と別れを告げたという。
辞世の句は遺していない。ただ、最後の言葉は伝わっている。
「場上末撃柝(げきたく)何其晩也」(場はあがれるに、未だ撃柝せず何ぞそ
の遅い「きや」=場が上がるとは場面が終わることで、撃柝とは拍子木をいう)
「芝居が終わったのに、まだ拍子木が鳴らないなんて、遅いじゃないか)
こう言って笑って目を閉じ、夕方に息を引き取ったという。
番号札ときどき軽い咳をする 荒井慶子
蔦谷重三郎の初黄表紙
自分の死を予言して葬式まで始めたのに、死ねない落語に『ちきり伊勢屋』が
ある。占い師に「親の因果で2月25日生九つに死ぬ」と言われた伊勢屋の旦那
伝次郎は、どうせ死ぬならと善行で余生を送り、冥途の土産にと遊び倒した。
金を使いきって予告の前日、芸者幇間をあげてどんちゃん騒ぎの通夜をやり、
当日は葬式を済ませ棺桶に入り、今か今かとと待つが一向に死ぬ気配がない。
待っているうちに腹が減ったので鰻を食べて、煙草を吸ったり便所に行ってみ
たり待てど暮らせど死ねない。死ぬのを諦めて寺から50両借り、帰る家もなく
さ迷っていると占い師に再開する。もう一度見てもらうと「人助けをして徳が
積まれたので、80歳の長生きです」
自らの人生を芝居の舞台に見立てた重三郎は、死をも大団円に演出した。
ところが、予言は、大いに外れて死ぬ気配がない。
これを「鳴らねぇねーか、どうなってるんでぃ」と言ったのを聞いて、周りに
いた人たちは「ホントですよ」「ほら、もー格好つけるから」などと、一緒に
ひと頻り笑っただろう。
鐘を衝くこの世の過去がいとしくて 山本昌乃
蔦屋重三郎
きぬ〳〵は瀬田の長橋長びきて 四つのたもとぞはなれかねける
蔦唐丸(蔦屋重三郎) 想い人と別れる後朝には、別れが瀬田の長橋のように長引いて、
男女双方の両手の袂四(午前三時頃の意を掛ける)が離れられない事だ。 重三郎が充分に生きたかどうかはわからない。
しかし生き急いだ人生は、まさしく重三郎一代物語であった。
自分の人生を笑いで締めくくった重三郎は、生きることこそエンタメであれと、
考えていたのかもしれない。
さみしさの発展形になる夕陽 中野六助
「さようなら」 本望をとけしそひ寝もけさはまた かねをかたきとおもふ別路 十返舎一九
山々の一度に笑ふ雪解に そこは沓沓爰は下駄下駄 京伝
早乙女の脛のくろきに仙人も つうをうしなふ気つかひハなし 蜀山人
我もまた身はなきものとおもひしが 今はのきはぞくるしかりけり 恋川春町
南無阿弥陀ぶつと出でたる法名は これや最後の屁づつ東作 平秩東作(へづつ)
執着の心や娑婆に残るらん 吉野の桜さらしなの 朱楽菅江(あけら かんこう)
狂歌師もけふかあすかとなりにけり 紀の定丸もさだめなき世に 紀 定丸
あの世へのていねいすぎる道しるべ 青砥たかこ
昨日まで人のことかと思いしが 俺が死ぬのかそれはたまらん 蜀山人 PR 故郷にあだ名を付けた山がある 井上恵津子
「堪忍袋緒〆善玉」 国立国会図書館 絵師であり、後に戯作者としても名声を得た山東京伝(左)のもとを執筆
依頼に訪れた蔦谷重三郎(右)の様子。
蔦 屋 茂 三 郎 ✦「ありがたやま」
18世紀の末、天明期と寛政期の江戸は、浮世絵の黄表紙・洒落本・狂歌な
どの大衆文化が一頂点を極めた時であった。そうした中でこれらの出版文化
の創造に貢献し「江戸文化の演出者」と称すべき役割を演じたのが版元・蔦
谷重三郎である。その人となりは「功智妙算」と称賛され、作品の企画力や
経営手腕、そして人の能力を見抜く眼力に人並外れた才能を発揮する稀にみ
る逸材だった。
僕がまだ道頓堀だった頃の 雨森茂樹
『身 体 開 帳 略 縁 起』 ✦「蔦谷重三郎自作の黄表紙」
蔦谷重三郎(蔦唐丸)の黄表紙が三点ある。
うち一点の寛政10年(1798)年刊『賽山伏狐終怨』(にたやまぶしきつねの
しかえし)は、蔦重死後に刊行されたもので、蔦重作らしく装ってはいるが、
曲亭馬琴の代作である。おそらくは、蔦重の遺作と見せかけて、初代が築き
上げてきた蔦屋のイメージを保持しようとしたものであろう。
それを除く『本樹真猿浮気話』『身体開帳略縁起』の二点の黄表紙にはとも
にご丁寧に「蔦唐丸自作」という署名が巻末に座る。
「自作」の文言を戯作の署名に見ることは稀である。
これらの作品はこの版元の趣味の産物ではない。
騙された振りをするのも良しとする 東 定生
蔦屋の店のカラーを定着すべく図った、極めて戦略的な経営方法の産物とい
った方がよいだろう。
(近年でも文壇・論壇に登場し、さらにはテレビコマーシャルにも起用され
て文化の主導者的なイメージを定着させた書店主もいた。
また俳句の世界で名を上げ、さらには映画監督としてメガホンを握ることに
よって自社の名を世間に周知せしめた版元もいた)
蔦重にしても、黄表紙を「自作」するような、前衛を地でいく版元という印
象を世間に定着させようとしているのである。
「黄表紙」というメディア自体が備える宣伝・広告効果は大きく、蔦重はそ
れを巧みに利用しているのである。
裏も表も舌の根までも見せている 大場美千代
蔦屋重三郎(蔦唐丸)の自画像。蔦重の家紋がみえる。 蔦谷重三郎ー蔦重としての第三期・四期 & 終焉
喜多川歌麿の最初期、作品出版の機会を彼に与えたのは、江戸版元界の老舗
西村屋与八だったが、ここには歌麿より一歳年上の鳥井清長がいた。
清長は早熟の天才画家で、早くから希望の星として二村屋の熱い期待を集め
ており、歌麿は、自然とその後塵を拝する形とならざるを得なかったようで
ある。そんな失意の青年に手を差し伸べたのが蔦谷重三郎である。
重三郎の炯眼は歌麿の天分と将来性を透視したようで、彼の才能が大輪の花
を咲かせるまで時間をかけて育てるという方針をとる。
天明期に全盛を迎えていた清長の美人画と、未完の段階にある歌麿を重三郎
はあえて競わせようとはせず、狂歌絵本の挿絵という別の世界でその非凡な
天性を生き生きと飛翔させるのである。
何事を為さんと飯を食っている 新家完司
『婦人相学10躰』 喜多川歌麿 寛政3 (1791) 年、山東京伝作の洒落本三部作が幕府の出版禁止令に抵触し
て重三郎は財産の半分を没収され、順風満帆だった蔦屋の看板にも翳りが現
れ始める。これを乗り越えるべく彼は浮世絵出版の比重を高めていくのだが
この熱意に応えて『婦人相学10躰』や『歌撰恋之部』など、従来の美人画の
粋を次々と生み出し、あらためて版元・蔦谷重三郎の名前を人々に知らしめ
たのが歌麿である。美人画家としての歌麿の名声は、これらの作品によって
一挙に高まり名実ともに浮世絵界の第一人者として君臨するすることになる
のである。一方、重三郎も歌麿美人画の大成功によって財産没収の痛手から
ある程度回復できたのと同時に、歌麿を擁する立場から美人画出版界の覇権
も手中にする。
プロテインが育てた蛙の太もも 通利一遍
「市川蝦蔵の竹村定之進」 (東洲斎写楽)
役を演じる役者の化粧の奥にある素顔までを描き出そうとした写楽の役者絵
は、江戸の人々に大きな衝撃を与えた。これは第一期の作品。
✦「歌麿から写楽へ」
しかし、人間の欲望には限りがない。美人画出版で大当たりをとった重三郎
が、浮世絵界で美人画と並ぶ代表的なジャンルの役者絵を次の目標に定め、
その野心を強めていったのは当然なのかも知れない。
ちょうどこの寛政初期は役者絵界で新旧交代の動きが強まっていた時だった。
大衆はそれまでの勝川派の役者絵に代わる新しい作品の描ける絵師を求めて
おり、その動きを感じ取った版元たちは、新進の歌川豊国をめぐる争奪戦を
繰り広げていた。これに対して、蔦谷重三郎は豊国にあまり関心を示す様子
はなく、別の役者絵師を探すことに熱心になっていた。
そして寛政五年ごろ、重三郎はついにその眼に適う人物に出会うことになる
のである。それが東洲斎写楽である。
何事を為さんと飯を食っている 新家完司
『当 時 全 盛 美 人 揃』 早速、重三郎は写楽による画期的な役者絵出版の準備にとりかかった。
この企画は第一回は28点、二回目は38点の作品を、一挙に売り出そうと
いう内容で、歌麿の場合を大きく上回る模様だった。
こうなると収まらないのは歌麿である。長年にわたり重三郎とパートナーと
しての信頼関係を築き、さらには先のようにその作品の大成功により美人画
界の帝王の地位を獲得して、蔦屋の経営にも多大な貢献ができたということ
に強い自負心と誇りを抱いていた歌麿からすれば、自分以上の存在が蔦屋に
あることなど絶対に容認できなかっただろう。
ましてや、それが新人の絵師ときては、こうして、二人の間には冷たい風が
吹きはじめ、ついには、歌麿は写楽と蔦屋による役者絵出版に対する対抗心
を剥き出しにしながら、他の版元と提携して『当時全盛美人揃』(若狭屋版)
などの力作を発表することになるのである。
たかの爪たくさんいれておきました 西澤知子
「大腹中の男子」と称され、ものに動じない性格の重三郎であれば、歌麿の
大人げない行動にも、おそらくは冷静に対処し、新たな企画の実現に向け着
々と段取りを進めていたと思われる。
寛政六年五月から翌年正月までの間に四回にわたって発表された写楽の役者
絵作品は、その意外性に満ちた前衛的表現によって、江戸市民に賛否両論の
大きな渦を巻き起こすことになった。このうち第一期の大首絵、第二期の全
身像作品では、浮世絵史上を代表する多数の名作が、綺羅星のように輝いて
おり、まさに圧巻である。
(しかし、第三・四期に入ると用様相は一変する。
ここには第一・二期作品であれだけ精彩を放っていた画家の魂は光を失い、
抜け殻としての写楽の姿を見るだけである)
だとしても固定電話はダリの髭 安い紀代子
「山姥と金太郎 耳そうじ」(喜多川歌麿)
✦「きり札を失った焦り」
第一・二期の出版を通じて重三郎は、江戸の人々からある程度の手応えを
感じていたのだろう。彼はこの判断をもとにしながら第三期の企画を立案
したが、それは一度に約70点にも及ぶ作品を出版するという常識を超え
た内容で、このすべてが、写楽に依頼されることになったわけである。
第三期の大胆な企画には、圧倒的多数の写楽作品によって、役者絵市場を
一挙に独占・支配してしまおうという狙いがあったと推察されるが、重三
郎の焦りにも似た気持ちが強く作用したことは否定できない。
さらに重三郎のあまりの性急さは、写楽にとっては過剰な負担以外の何物
でもなかった。それはプレッシャーとなって、彼の創造意識を削ぎ取り作
品の、作品の芸術性も喪失させる結果を招いてしまったのである。
結局、写楽はもとの武士の生活に逃げてしまい、蔦重との蜜月期間は10ヵ
月という短い月日で終局となった。
優しさは日持ちをしない内緒だよ 柴田比呂志
一方の歌麿は、蔦重と組んだ作品によって一躍、時代の寵児となってもて
はやされ、次第に蔦重との距離を保つように
なってゆく。鼻っ柱の強い歌麿にとって、恩は御、内容に関わらず「歌麿」
の名で作品が売れるようになったからには、蔦重の傘の下にいるだけで満
足できるはずもない。また蔦重とて歌麿ひとりにオンブしていると見られ
るのは、片腹痛いことであったのだろう。
その結果、重三郎は、歌麿のみならず、写楽までも失い、美人画と役者絵
出版の覇権を同時に獲得するという夢も、泡のように消えてしまったので
ある。
非通知で過去から石を投げられる 中林典子
歌麿が描いた山東京伝
✦「蔦谷重三郎ー寛政元年~終焉まで」
寛政元 (1789) 年 (39歳)
・「寛政改革」始まる。
・歌麿『潮干のつと』。恋川春町『黄表紙・鸚鵡返文武二道』刊行。
寛政2 (1790) 年(40歳)
・蔦唐丸(蔦重)による黄表紙の初作「本樹真猿浮気噺」(もとき
にまさるうわきばなし)刊行。
恋川春町画作『無益委記』が創始した未来記形式の趣向を踏襲する。
・歌麿の美人画大首絵大ヒット。
寛政3(1791)年(41歳)
・洒落本の出版点数20点。
・山東京伝の洒落本出版により、身上半滅・手鎖50日の刑を受ける。
・葛飾北斎、絵師・勝川春朗として耕書堂の挿絵を描く。
寛政4 (1792) 年 (42歳)
・曲亭馬琴が番頭として蔦屋で働き始める。
のらという大きな虹をしょっている 酒井かがり
十返舎一九 〈奥) 蔦屋に寄宿して笑いをふりまく舎一九
寛政5 (1793) 年(43歳)
・浮世絵界の美人画ブームがピーク。
・相撲絵、役者絵に進出。
寛政6 (1794) 年(44歳)
・写楽の大首絵出版。
・十返舎一九が蔦屋に寄宿。
・結婚を機に曲亭馬琴が独立。
寛政7 (1795) 年(45歳)
・本居宣長を訪問し「手まくら」江戸売出版。
・版元・蔦重として確認されている最後の錦絵(東洲斎写楽)刊行。
寛政8 (1798) 年 (46歳) この秋ごろより体調を崩す。
・この直前まで、新人浮世絵師のプロデュースを計画しており、
病に倒れるまでは財を蓄えつつ、再び浮世絵界を牽引しようとした。
寛政9 (1797) 年(47歳)
・3月危篤。5月6日、死没、死因は脚気。正法寺に葬られる。
(蔦重の妻は、文政8(1825)年10月11日に亡くなったとされ、戒名
は錬心妙貞日義信女。 ドラマの役名である「てい」は、この妙「貞」
から採ったものと思われる。
香典の袋の番号がさむい 井上裕二 生きてゆくこの世の壁に爪立てて 香月みき
「護 国 寺 観 世 音 開 帳・大 達 磨」
「江戸のニュース」
文化元年四月十三日 葛飾北斎が大達磨絵を描く
浮世絵師の葛飾北斎が「画狂人」とも称したように、浮世絵はもちろん、
黄表紙、狂歌本の挿絵まで、おびただしい数の作品を残した。
『新編水滸画伝』や『鎮西弓張月』の挿絵、枕画、七十一歳から始めた『富岳
三十六景』シリーズ、絵手本の『北斎漫画』など、その数は一説には、三万点
以上ともいわれる。
探求心が強く、狩野派や土佐派の日本画を学ぶ一方で、西洋画をアレンジした 司馬江漢からも、影響を受けた。 十九歳で勝川春章の門下となったが、三十五歳で破門されたのも、その貪欲
な姿勢が,保守的な先輩連中から煙たがられた原因だったのだろう。 しかし,北斎は破門されて、かえって自由闊達に活動したというのだからやはり
本物だった。
しばらくは余談が続く峠道 中野六助
四十五歳のこの年にも、奇行とも取られ兼ねない「画狂人」らしいパフ
ォーマンスを行って、人々を驚かせている。『武江年表』には「三月よ
り護国寺観世音開帳あり、四月十三日画人北斎本堂の側において百二十
畳の継紙へ達磨を描く」とある。
平成二十三年福岡市博物館で「大北斎展」が開催された際、この大達磨
絵が原寸大で再現されて話題を呼んだ。
嘉永二 (1849) 四月、九十歳で没、生涯で九十三回も転居したというい
のも、北斎らしいエピソードとしてよく知られている。
五十年後わたしは何処に居るだろう 加藤ゆみ子
隅 田 川 春 雪
隅田川のっ西岸から眺めて光景。江戸の春は雪景色から始まる。
「来てみればむさしの国の江戸からは北と東のすみた川かな」
蔦谷重三郎ー葛飾北斎の狂歌絵本
牛込の毘沙門天へ参詣する人々
門前には,飴細工の男がいる。薄墨の効果をよく知悉した作画である。
喜多川歌麿や東洲斎写楽と比較すれば、葛飾北斎と蔦谷重三郎との関係は必
ずしも強固なものだったとはいい難い。にもかかわらず、ここで北斎を取り
上げるのは、主として狂歌絵本に関しては、蔦重と北斎は、深い結びつきが
あるからである。
蔦重自身は、寛政3 (1792) 年の身上半減の刑から立ち上がるために、まず
歌麿を使って美人画界に旋風を巻き起こし、さらに写楽を登場させて役者似
顔絵に新機軸を打ち立てたが、その八面六臂の活躍の無理が祟ったものか、
寛政9年に惜しまれながらこの世を去ってしまう。
その後の蔦屋は、番頭だった勇助が二代目重三郎を継いで、初代の残した出
版計画を実行していった。
二番手をキープするのも楽じゃない 井上恵津子
隅 田 川
この書のもっとも美しい場面。隅田川の波風に逆らって急速に上って
ゆくのは、吉原へ通う猪牙(ちょき)である。
初代の時代、北斎は山東京伝の黄表紙に挿絵を描くことで、この稀代の版元
と関係をもったのだが、それは寛政4年のことであり、このころは、蔦重が
永年いわば、子飼いのような形で育てていた歌麿を、一気に売り出しにかか
った時期にあたる。その後、歌麿が押しも押されもせぬ浮世絵の「名人」と
なってからは、写楽という画号の人物による新しい役者絵を世に問うことに
蔦重が没頭したためか、北斎を取り分け、引き立てようとはしなかったよう
である。しかし、蔦重は次のスターとして曲亭馬琴と北斎に目をつけていた
と思われるが、その事業に手をつける前に死んでしまった。
(ここに紹介する狂歌絵本と一つの狂歌集は、いずれも初代の蔦谷重三郎の
死後によるものだが、その品格のある描写と繊細な色彩表現には、歌麿の狂
歌絵本に勝るとも劣らぬ北斎の意気込みを感じることができるものである)
神々が素顔に戻る神無月 中井桂子
「北 斎 画 本 東 都 遊」 新吉原、仲の町には、このために選ばれ植えられた桜に花が満開。 左端、大門外に続く五十間道には、蔦重の最初の店があった。 初め墨摺一冊本の「東遊」として寛政11(1799) 年刊行。
享和2(1802) 年に色摺三冊本の『画本東都遊』と改題。
北斎の空間把握が既に相当の高みにあることが知られる。
梅 屋 敷
臥龍梅で有名だった亀戸の梅屋敷である。柿澄人の狂歌に、
「いくとせをふりてかこゝに臥龍梅みきはうろこになりてみゆらん」
とある。
長 崎 屋
長崎から江戸に参府してきたオランダ人たちの場所である長崎屋。
元 結 匠
元結を製造する職人。西洋文化と日本文化の描きわけである。
三囲(みめぐり)の稲荷
右下に稲荷社の鳥居の上部がわずかにのぞく。
川の向こうに見える小山は聖天宮のある待乳山。
野ざらしの地蔵は修行中だろう 安井貴子
雨に降られて帰りを急ぐ人々 『画本東都遊』や『東都名所一覧』と較べると、やや硬質な画風が生起し
はじめているようだ。うしろ姿の人物、傘などで顔の見えない人物など、
後年の北斎画の特徴の萌芽がうかがえる。
野良仕事に向かう人々
朝もやのなかを野良仕事に出かける人々であろうか、もやのなかに見える
森と伽藍は護国寺と推定されている。
ほととぎすの声を聞きながら、女たちの野宴の態
高田のあたりを描いたものであることは、散らされた狂歌から類推する
ことができる。
待っててね釣り針丸くするからね 森井克子 「潮来絶句」
出版は享和二年(1802)とされるが確証はない。当時流行していた潮来節
を記し、それを著者・富士唐麿が狂詩に変えて詠んだものに、北斎が、派手な 色を極力避け、ほとんど「紅嫌い」のような彩色で絵をつけた。 潮 来 節
「しばしあはねばすがたもかほもかはるものかよこゝろまで」
狂詩「暫時不相見(ざんじあいみざれば)容顔異平生(ようがんへいせいにこと
なり)容顔不寧異(ようがんただことなるのならず)漸々異心情(ぜんぜんにし
んじょうことならむ)
ちょっとした言葉の行き違いから喧嘩となって、背中を向け合う若い二人。
その喧嘩の発端はつまらぬ嫉妬だったようである。
男が帰って行くのを見送りもせず、女はただ泣くばかりである。 淡い色彩が女の悲しみを心憎いばかりに表現している。 ふり仰ぐ胸に悲の字を縫いつけて 太田のりこ 造花にも生まれ故郷があるポエム 前中知栄
青楼仁和嘉 女芸者部・大万度 吉原の女芸者による俄(にわか)狂言を題材にしたもの。大首絵で画壇に雄飛 する直前の作品で蔦重御用の彫師・摺師の腕の冴えを見ることができる。 寛政5 (1793)年から6年の作。全12枚からなるこのシリーズは、歌麿の色
彩感覚と構図感覚の非凡さを示して余すところがない。
子の刻から亥の刻までの十二時に、吉原の女たちの生態を描きわけるこの作
品ではひとり立ち、あるいは二人から三人までの遊女をすべて全身像で描き、
その十二枚のことごとくが、、それぞれ細心の注意をもって構図される。
野卑な色彩は意識的に排除されており、ほとんど「様式美」と名づけてもよい
ような女たちの美しさを作り上げている。
積分をして5を足すとキミの頬 井上一筒 十二枚、まったく間然するところのないこのシリーズは、もともと特別の注文
によって作られたもの、とする説が生まれるほどに、最高の彫刻技術が駆使さ
れた作品である。歌麿がかくも完璧な吉原の日常を描くことができたのは…、
蔦重のおそらくは推薦で狂歌仲間「吉原連」に名を連ねたことが大きかったに
違いない。
この作品のあと歌麿は、蔦重とは距離を置き、若狭屋、岩戸屋、近江屋、村田
屋、松村屋、鶴屋など、多くの版元から錦絵を出すようになった。
もちろん蔦重には、歌麿が離れてしまうのは、手痛かったはずである。
ふり仰ぐ胸に悲の字を縫いつけて 太田のりこ
蔦谷重三郎ー歌麿・「青楼十二時」
子の刻
遊女の十二時は子の刻からはじまります。上級の遊女はおそらく床着に着替え
ているところか。お付きの女性は打ち掛けを畳んでいる。吉原の街の営業終了。
これを「引け」と呼びました。
丑の刻
夜中の午前2時頃、目が覚めてお手洗いに行くのでしょうか。電灯のない時代
なので、遊女は手元に小さな火を灯しています。睡魔と戦いつつ、暗闇の中、
足先で草履を探しているような細かい仕草の描写は歌麿ならではの技。
寅の刻
03:00〜05:00、まだ辺りは暗い時間帯です。姉さん風の遊女は、長い花魁煙管
で朝の一服。火鉢の前のお付きの女性は、お客に何か温かい茶でも出そうと準
備をしている。二人遊女は、客の話をするような、おしゃべりがはずむ。
しばらくは余談が続く峠道 中野六助
卯の刻
05:00〜07:00、夜が明け、泊まりの客を送り出す遊女。客に着せようとしている
羽織の裏には、達磨の絵が描かれている。達磨は指をくわえてちょっと物足りな
さ気。はたしてこの達磨は、遊女と客とどちらの心境を表しているのだろうか。
辰の刻
07:00〜09:00
客がひと通り帰って、ようやく体を休める遊女たち。どこかほっとした表情です。
とは言え、また昼の営業が始まるので、ここでは仮眠がせいぜい。
巳の刻
09:00〜11:00、吉原遊廓は昼の営業(昼見世)もあるため、この時間になると、
遊女たちは髪結いに髪を結ってもらい、入浴をして食事をし、身支度をします。
描かれているのは湯上りの遊女。お茶を差し出しているのは、見習い遊女(新
造)でしょう。
古時計メトロノームにして眠る 井上恵津子
午の刻
11:00〜13:00、吉原の昼見世は、夜に比べれば客足も少なく、比較的のんびり
したものだったようです。中央の煙管を持った遊女はおそらく花魁、襷掛けの
遊女は新造か、誰からか届いた手紙をみせています。それを見て花魁が何か話
しかえています。そんな二人にはお構いなしで、嬉しそうに鏡を眺めるのは禿。
新造が櫛を手にしているので、禿の髪を結ってやったのでしょう。
未の刻
13:00〜15:00、この刻限に描かれた遊女たちは、だいぶリラックスモード。
画面左端の冊子の上に見えているのは筮竹で、遊女の向かいには易者(占い師)
が座っているのでしょう。隣の新造が禿の手相を見て占いごっこに興じている。
やや前のめり気味で占い結果を聞いている遊女の姿がなんとも微笑ましい。
申の刻
15:00〜17:00、昼見世が終わると、いよいよ夜の営業(夜見世)の準備です。
「申の刻」では、遊女たち(赤い着物の遊女の後ろに、びらびらかんざしを挿
した禿の頭が見える)が、揃って出かける模様。引手茶屋で待っている花魁の
お客を迎えに行くのでしょう。花魁がお客を出迎えに行く往復路が、いわゆる
「花魁道中」です。華やかな遊女たちがしゃなりしゃなりと遊郭の通りを練り
歩く様は、見物の人々の目を釘付けにしました。
裏も表も舌の根までも見せている 大場美千代
酉の刻
17:00〜19:00、午後6時頃を「暮れ六ツ」と呼び、吉原の夜見世が始まる時刻
です。「暮れ六ツ」には、各妓楼で三味線が鳴らされ、提灯に火が灯されます。
歌麿も、立派な箱提灯の準備をしている様子を描いています。ちなみに、頭の
上に蝶々が羽を広げたような遊女の髪型は、兵庫髷の一種。日本髪は時代を通
じて非常に多くの種類が存在しますが、吉原の遊女たちはさまざまなアレンジ
を加え、そのバリエーションをさらに広げていきました。
戌の刻
19:00〜21:00、遊女が長い巻紙に手紙を書いています。今晩はお客がつかなか
ったのでしょうか。遊女たちは、吉原の外に出ることを許されず、お客を待つ
ほかありません。そのため、手紙はお客の心を繋ぎ止める重要な営業ツールで
した。白々しい愛の言葉を書き連ねても、苦境を露骨に訴えても、相手に引か
れてしまいます。とても難しいですね。遊女が、禿の耳元に何やら次の作戦を
伝えています。
亥の刻
21:00〜23:00、夜も更け、禿が遊女の隣でうつらうつらと舟を漕いでいます。
吉原では、客が遊女と二人きりになるまでに、なるべくお金を落とさせる仕組
みになっていました。遊女や妓楼のランクによって、遊び方のシステムや予算
は異なりましたが、相手が最高位の花魁となると、相応の手順と費用を要しま
した。宴席を開いて羽振り良く振る舞い、詩歌や音曲、書画などの教養を披露
し、一夜限りの殿様気分を味わうのです。客が殿様なら、花魁はお姫様です。
煙管片手に盃を差し出す花魁の姿は堂々としたものです。
プレゼンの途中に挟む自慢談 日下部敦世
東扇・中村仲蔵 勝川春章
「勝川春章と春好」
勝川春章は一筆斎文調とともに役者似顔絵の新機軸を出し、鳥井派風の画一的
表現に慣れていた当代人の耳目をひいた。『浮世絵類考』では、春章のことを
「明和の此歌舞伎役者似顔名人」に簡潔に記している。
役者を似顔で描くということは、役者という存在をリアルに捉えることを意味
するから、春章はこれを推し進めて、舞台以外の役者の日常を似顔で描いた
『絵本役者夏の富士』なども刊行した。
そうこうした彼の作画活動のなかで『東扇』シリーズは、すべて扇の形の中に
役者の似顔による半身像を描いたもので、いわば歌麿の美人大首絵や写楽の大
首絵の先蹤的作品といえるものである。
土足で入る他人の夢の中 蟹口和枝
市川高麗蔵の伊豆の次郎 勝川春好
春好は春草の高弟。彼は役者絵では師の似顔絵を、さらに発展させたことで重
要な位置にある。「市川高麗蔵の伊豆の次郎」は、まさしく写楽の大首絵の源
泉となったもので、半身像をさらに顔面のクローズアップへと進めた。
ただし、衣紋線までもが異様に大きくなり過ぎたきらいがある。
プロテインが育てた蛙の太もも 通利一遍 人生リセット素顔を光らせる 野邉富優葉
「浴 恩 園 千秋館」 国立国会図書館所蔵
「浴恩園 千秋館」は、江戸時代後期に「寛政の改革」を主導した松平定信
が、隠居後に築いた庭園「浴恩園」の中に建てた館です。
庭園は「天下の名園」と称され、定信は隠居後「楽翁」と号してこの千秋館
に住みながら、庭園の作庭に没頭しました
「文化人・松平定信」 松平定信は、万葉調の歌人としてして知られた父・田安宗武の感化を受け、
若いころから芸術文化に慣れ親しんだ。側近の水野為長からは和歌、木挽
町狩野家第六代目の狩野栄川院からは絵画を学ぶなど、文化の素養は豊か
だった。
その定信が三十歳で老中首座に抜擢されて幕政のトップに立つと、社会の
模範となるべき武士の「綱紀粛正」を図って、質素倹約や学問武芸を奨励
する。そのため、武士が小説を執筆したり、狂歌を詠むなどの文化活動に
走ることに嫌悪感を隠そうとしなかった。文化活動への厳しいスタンスは
町人についても同様だった。
風俗取締りを名目に、遊郭を舞台にした洒落本の著者・山東京伝、その出
版の仕掛け人だった版元・蔦屋重三郎をも処罰した。
このように文化を敵視したイメージが強い定信だが、老中退任後の三十年
余にわたる一連の文化活動についてはほとんど知られていない。
実のところは、文化に大変理解のある人物でもあった。
羊だって活断層を秘めている 森井克子
「千 秋 館」
蔦谷重三郎ー幕政を退いた後の定信
定信は、36歳で老中を退任して、政治の第一線から退くと、豹変する。
絵師や学者、作家といった文化人を動員し、多彩な文化事業を展開し始めた。
定信による文化事業の象徴と言えば、全国規模での「文化財調査図録」である
『集古十種』の編纂である。その命を受けた白川藩お抱えの絵師たちは、全国
各地を回り、古書画や古器物の模写に励んだ。
生来、好古趣味が濃厚な定信は、文化財の保護にたいへん熱心だったが、実は
「模写」の重要性を痛感する出来事が老中在職中にあった。
老中首座就任から約半年後にあたる天明8 (1788) 年正月晦日に、京都御所が
焼失した。幕府は、偽書の再建に取り掛かることになり、定信はその造営総督
に任命されたが、ここで苦難が生じる。
ポケットの中にポケットもうひとつ 津田照子
朝廷の要望を踏まえ、御所の建物のうち紫宸殿と清涼殿は、平安時代の様式に
戻すことになった。ところが、平安時代の御所の様子を伝える絵画資料に不足
したため、その再建にたいへん苦労する。
絵画資料は、既に焼失あるいは散逸していたのだろうが、模写だけでもあれば
と思わずにはいられなかったことだろう。
定信は、そうした苦い経験を踏まえ、絵師を総動員して、古物の模写に取り組
むことを決意していた。もともと古物への関心は高かったが、寛政5 (1793)
年7月に退任すると、白川藩の文化事業として模写の作業に本格的に着手する。
その事業の役を任されたのが、田安家家臣の家に生まれ、寛政4年に定信の近
習に抜擢されていた定信の5歳年下の谷文晁である。
文晁は、仙台・松島・平泉で什物を調査し、西へは京都・大阪から高野山・熊
野奈良などを廻り、そして中国や四国地方に足を延ばし資料を集めた。
百年生きたら私をみてほしい 市井美春
『石 山 寺 縁 起 絵 巻』
巻6,7巻は、詞書は飛鳥井雅章。絵は、谷文晁が二年がかりで完成させた。
定信は文晁に、「一草一木たりとも文晁が私意を禁ぜられ」たといい、新図は
定信自ら指導し、図様に関しては、古い絵巻などから抜き出して使用している。
定信は、『集古十種』の編纂と並行し、絵巻や古画の模写集である『古画類集』
の編纂に着手した。『源頼朝像』などの古画、そして『伴大納言絵詞』などの
部分図が収録された『古画類集』でも、その模写にあたったのは文晁たち白河
藩お抱えの絵師たちだった。
定信は、絵巻自体の模写にもたいへん熱心であった。
『北野天神縁起絵巻』や『春日権現験記絵』などを模写させたが『石山寺縁起
絵巻に至っては、欠損していた巻を補作までしている。残された詞書から絵を 推定して復元したが、その作業を任せられたのが文晁だった。
文晁は『春日権現験記絵』などを参考に文化元 (1804) に年から二年にかけて
補作を完成させる。彼らは、絵師に代表される文化人たちの能力を活かすこと
で貴重な文化財の数々を模写といいう形で後世に遺したのである。
世の中は何でだろうのネタだらけ 北出北朗
『江 戸 一 目 図 屏 風』 「江戸一目図屏風」は江戸時代初期の江戸の市街地や近郊の様子を描いている。
下の図はセンター部分を拡大したもの。
「危険視していた戯作者を起用する」
定信は文化財保護に力をいれる一方、新たな作品を世に出すことにも熱心であ
り、他藩お抱えの絵師にも発注して画才を発揮させた。
江戸を鳥瞰して描いた屏風絵として知られる『江戸一目図屏風』の作者・鍬形
蕙斎(くわがたけいさい=北尾政美)は、その一人だが、老中在職時に因縁の
あった意外な作家たちも製作陣に加わっていた。
文化3 (1806) 定信の依頼を受けた蕙斎は『近世職人尽絵絵詞』を制作。
大工、屋根葺職人、畳職など数十種に及ぶ職人の風俗のほか、庶民生活の様子
も描いた作品である。
上中下の三巻から構成される『近世職人尽絵絵詞』の絵を担当したのは蕙斎だ
が『詞』の担当は別の人物だった
胃袋をつかむ「サシスセソ」の塩加減 靍田寿子
仏 を 彫 る 職 人 カマボコ屋・豆腐屋
文化3年、定信は『近世職人尽絵詞』を製作。大工、屋根葺職人、畳職人など、
職人の風俗のほか、庶民の生活が描かれていて、「江戸の職人」の実像を知る
貴重な資料となっている。上中下の三巻で構成され、文章はそれぞれ四方赤良
(大田南畝)朋誠堂喜三二、山東京伝が担当した。
四方赤良は、寛政改革に一環として言論弾圧が強まるなか、身の危機を感じて
狂歌を詠むことを止めた。
朋誠堂喜三二こと秋田藩江戸留守居役の平沢常富は、改革政治を風刺した黄表
紙を執筆したことが幕府の忌諱に触れるとして、藩から執筆活動を止められた。
山東京伝は、寛政改革の一環として発令された出版取締令違反の廉で手鎖50
日の処分、出版した洒落本は絶版となった。
以後、京伝は幕府の目を恐れて勧善懲悪を説く作品を書くようになった。
意地という文字がこの頃出てこない 船木しげ子
定信が進めた言論弾圧の方針を受けて、文芸活動の修正・断念を余儀なくされ
た3人だが、この頃、定信は無役の大名だった。
幕政トップの立場からすると、3人の執筆活動は危険視せざるを得ないが、幕
政に関与していない無役の身としては別に要注意人物ではない。
むしろ、彼らの文才を自分の文化事業に活用したいと考え『近世職人尽絵図』
の詞書を担当させた。それだけ定信は3人の才能を評価していた。
吉原の遊女の1日を、12の時に分けて描いた『吉原十二時絵詞』は、蕙斎だが
「詞」は山東京伝の担当であった。
吉原をテーマとした本であることから、吉原に詳しい京伝に白羽の矢を立てたの
だ。華やかな吉原の世界が絵と詞で、またひとつ後世に伝えられることになる。
湯戻しをして柔らかくする昨日 平井美智子
『 花 月 草 紙 』
『花月草紙』は、松平定信による江戸時代後期の随筆集。
「定信の文化サロン」
文化9 (1812) 55歳になった定信は、藩主の座を嫡男・定永に譲り、築地の白
川藩下屋敷で隠居生活に入った。
隠居したその日から日記を書き始めるいっぽうで『花月草紙』に代表される随筆
も執筆した。『花月草紙』は、格調高い文体である上に、識見の高さと教養の深
さ滲み出ている作品であり、江戸時代の代表的な随筆と評価される。
築地下屋敷には、浴恩園と名付けられた庭園が設けられたが、定信が隠居生活を
送ったのは園内に立つ建坪二百坪ほどの「千秋館」である。
千秋館で執筆活動に勤しむかたわら、園内を歩いて景観を眺めるのが、何よりの
楽しみだった。
余生には無用な過去を破り捨て 松浦英夫
「大 名 か たぎ」
定信は、部屋住み時代(17歳の頃)にハマった江戸の戯作「金々先生栄華夢」
が刊行された安永4年黄表紙風の『大名かたぎ』を執筆している。
浴恩園で余生を過ごす定信のもとには、同じく教養豊かな大名が頻繁に訪れた。
大名だけでなく、大学頭の林述斎、儒学者の成島司直、国学者の屋代弘賢、歌人
の北村季文なども常連だった。文晁たち絵師も同様である。
浴恩園は定信主宰の文化サロンとして、身分の差を超えて文化人が集う場となっ
ていた。浴恩園に集まったメンバーを中心に、詩歌会も催された。
「詠源氏物語和歌」というタイトルの歌集は文化11 (1815) 年歌会で詠まれた
歌を集めたものだが、この歌会には定信はもちろん、好学の大名だった近江堅田
藩主の堀田正敦、備前平戸藩主の松浦静山に加え、国学者の塙保己一たち56名
が参加した。
意地と意地化学反応して消える 竹内いそこ
定信はミュージシャンー心の草紙
翌12年には、浴恩園の51箇所の景勝を詠んだ「浴恩園和歌」が編まれた。 各名勝ごとに儒学者の頼春水(頼山陽の父)や狂歌師の四方赤良こと太田南畝た
ちの詩を添え、正敦が跋文を担当した。南畝も浴恩園に集まったメンバーだった
ことがわかる。定信は浴恩園を拠点として、江戸の文化を満喫しながら余生を送
った。寛政改革後の定信は、一連の文化事業を通して、絵師や作家にその能力を
発揮させた。文化人たちのパトロンのような役回りを演じていたのである。
その後半生に焦点をあてることで、江戸の文化を愛した知られざる素顔が浮かび
上がってくる。定信はこの12年に72歳で死去する。
百年をお眠りなさいサボテンの強さかな 井上恵津子 |
最新記事
(01/05)
(01/01)
(12/30)
(12/28)
(12/21)
カテゴリー
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開
|

