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川柳的逍遥 人の世の一家言
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足跡が消えることなどないのです  市井 美春





『万載集著微来歴』 恋川春町画作黄表紙(東京都立中央図書館蔵)
天明4年正月刊。絵は天明3年時の狂歌の会の様子を描いている。
本の内容は、狂歌会の著名人を戯画化して平家物語の世界にはめこみ、
楽屋落ちに興じた作品。天明狂歌の発想がそもそも極めて戯作に近いもの
であったことがわかる作品である。






" 世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜もねられず "

松平定信「寛政の改革」を皮肉った狂歌。作者は、四方赤良(太田南畝)
「狂歌」は、その「狂」の文字に現われているように、最初から正統でない
ことを意識した短歌で、諧謔や滑稽を旨とする文芸。
こうした内容の誕生は古く『万葉集』の戯笑歌や『古今和歌集』などもこれ
にあたる。のち中世に入っても行われていたが、それは正統な和歌に対して、
あくまでも、戯れのものとされていた。これが江戸期に入って、上方を中心
として生白童行風(せいはくどうぎょうふう)、豊蔵坊信海などの狂歌師が
登場して盛んになり、文芸の一隅に位置を占めるようになっていた。



おもしろい空だいろいろ降ってくる  新家完司




そんな折の天明のはじめ、画期的な狂歌会が催された。
江戸では武士グループの唐衣橘洲、萩原宗古、飛塵馬蹄、朱楽菅江らと、
町人グループの平秩東作、大根太木、元木網、知恵内子、大屋裏住らが、
それぞれ狂歌を作っていたのだが、この両グループが、唐衣橘洲の呼びかけで
橘洲宅に集まり、狂歌会を催し、大きく盛り上がったのだ。
このことに当初は、「狂歌、ひとりで勝手に詠み捨てる程度のもの。わざわざ
集まって読むのは、愚の骨頂」と、嘲笑っていた狂歌師の重鎮・太田南畝も仲
間が次々と参加していると知って、「我もいざ、痴れ者の仲間入りをせん」
して参加。この集まりの盛会ぶりから主流が江戸に移り、狂歌時代の幕が上が
った。



正座して言葉の沼に沈み込む  中野沙千湖 






            『愚人贅漢居続借金』 (東京大学総合図書館)

狂歌仲間連れ立って吉原に遊びにいくところ。
右から、蓬莱山帰橋、四方赤良、清水燕十、朝倉雲楽斎、朱楽菅江、



蔦屋重三郎ー狂歌時代の幕開け






        大 田 南 畝





「同世代人・南畝との出会い」
「黄表紙」というのは、狂歌師ととりわけ縁が深い。
落語が狂歌師から出てきたように黄表紙も狂歌師から出てきたのである。
狂歌師が関わることによって、「赤本・黒本」の幼児的世界は、「知的な大人
の笑い、都会の笑い」に変質したのだった。
ちなみに、蔦屋が狂歌会最大のネットワーカー太田南畝と出会うのは、恋川春
朋誠堂喜三二が蔦屋に移ってすぐの、天明元年 (1781)12月17日のこと
である。この時は、春町が同行している。朱楽菅江も一緒だった。
南畝と菅江はもっとも親しく、ともに幕臣、つまり、国家公務員としては同僚
である。この時は、この3人の武士、重三郎と一緒に吉原の大文字屋に遊んだ。
重三郎はこのころまだ、、吉原大門口にいる。
大文字屋は、重三郎のご近所であるばかりでなく、狂歌・吉原連のリーダー、
加保茶元成{かぼちゃのもとなり)と秋風女房が経営している妓楼である。
重三郎はやがて「蔦唐丸」として吉原連のメンバーになり、歌丸は、「筆綾丸」
としてメンバーになる。




時には夢を食べてみるのもいいもんだ  北川拓治




次に南畝と出会うのは、天明2 (1782) 年の3月10日の朝である。
前の番、幕臣・土山宗二郎の招待で大文字屋に宿泊した南畝は、次の日の午前
中、菅江とともに大門口の蔦屋に寄って宴会をしている。
「午後、書肆肩與(しょしけんよ)を命じ舎に帰る」と南畝の記録にあるから、
蔦屋は、駕籠を呼んで帰宅させている。かなり気を使った扱いかただ。
(書肆肩與=本屋が駕籠を呼ぶこと)
さらにこの年の秋、歌麿が上野で宴席をもうけて、南畝、朱楽菅江、恋川春町、
朋誠堂喜三二、清水燕十、南陀伽紫蘭(なんだかしらん・絵師の窪俊満)市場
通笑(表具師)、芝全交(大蔵流狂言師)、竹杖為軽(蘭学者)、北尾重政、
勝川春章、鳥居清長、朝倉雲楽斎など、約20人を招待している。
新人の歌麿を主催者にして、パーティーを開くことによって、戯作・出版界と
浮世絵に歌麿を売り出す考えもあったものと思われる。
ここに集まった人たちの多くが、後に歌麿と組んで仕事をすることになる。





ようこその入口やけに上機嫌  下谷憲子






                                                       『百千鳥』 (日本浮世絵博物館蔵)

『画本虫撰』の予告にあった「鳥の部」がこのような形で実現された。
歌麿の写実的な相変わらずすばらしい。
 鳥とともに泣きつ笑ひつ口説く身をそれぞと聞かぬ君がみみづく
市仲住(いちのなかずみ)
 うそと呼ぶ鳥さへ夜は寝ぬるものを止まり木のなき君のそらごと
笹葉鈴成(ささばのすずなり)
狂歌は、奇々羅金鶏の撰であるが、このポッと出て派手に振舞う狂歌師の入銀
(出版経費の負担)は、相当なものであったと思われる。



もやもやが晴れる引き摺ることはない  佐藤 瞳






                                   『夷歌連中双六』(歌麿画)

天明5年の四方側の歳旦狂歌集は道中双六の体裁で出されている。
狂歌に遊んだ歌麿は「筆綾丸」の名で、蔦重こと「蔦唐丸」のものと並べて
右下に狂歌を寄せている。



戯作も浮世絵も、芝居や映画と同じで、ひとりでは作れない。
プロデューサーの手腕と、優れた人材と、スター性とが組み合わさって作品と
なる。それをコーディネートしてゆくのが、蔦屋の仕事だった。
天明元 (1781) 年、志水燕十と組んで戯作を作った歌麿は、この連の亭主を務
めた後、南畝とも、狂歌連とも組んで仕事をするようになり『夷歌連中双六』
など三冊の狂歌本、そして (1788) 年には、南畝をはじめとする30人の狂歌
師とともに、あの狂歌本の傑作『画本虫撰』(むしえらみ)が出来上がる。
この狂歌本の系譜が、1790年代 (寛政年間)の歌麿の大首絵時代を準備
するのである。



新刊が拓いた脳の新境地  北出北朗






      『狂歌百鬼夜行』



「天明狂歌」の集まりは南畝を中心としていた。
しかし南畝が、常にその仕掛け人だというわけではない。
連にはまとめ役はいるが、ボスはいない。
後に「咄の会」を生みだし、落語発祥のもととなる天明3 (1783) 年の「宝合わ
せの会」は、竹杖為軽によって主催され、その記録である『狂文宝合記』は、
上総屋によって刊行されている。ここには、蔦唐丸も参加している。
そして連の典型例として、かつて、石川淳が注目した天明5 (1785) 年の「百物
語の会」は、蔦唐丸によって『狂歌百鬼夜狂』として、蔦屋に寄って発刊されて
いる。主催とは「亭主」をつとめることである。
連の亭主は、それだけの存在でなければならない。
重三郎は天明に入ってから、狂歌連の中で重要な存在になっていた。



声上げて夢の芝居をつづけよう  佐藤正昭




重三郎にとって編集とは、めったに会わない著者に適当に並べた目次を見せて、
「金をやるから原稿を書け」と、注文することではなかった。
編集人が自ら、その連のただ中で生き、自ら創作し、著者や絵師と同等になっ
て時に亭主をつとめ、時代の運命を共に引受けていくことだったのである。
蔦屋重三郎は、「天明狂歌の運動」と共に生き、「浮世絵の変遷」に巻き込ま
れて生き、「人間の連」を編集することが、そのまま本の編集となっていった
編集人だった。



一番の褒め言葉です地味な人  山下由美子




「べらぼう29話 あらすじちょいかみ」(「江戸生蔦屋仇討」)









江戸の町にひとりの男が倒れていました。
倒れていたのは、なんと平秩東作(木村了)、命からがら蝦夷地の松前家から
戻ってきたのです。東作が持ち帰ったのは、松前家の裏帳簿でした。
そこには、幕府に黙って私腹を肥やしていた証が残されていました。
「これを利用すれば、幕府は松前藩の領地を没収できる」
この帳簿、実は、田沼意知(宮沢氷魚)が命と引き換えに手に入れようと動い
ていたものでした。
「今すぐ、上知願いの書状をしたためよ。ここが勝負どころだ」
田沼意次は意知の意志を継ぎ、家臣の土山宗次郎(柳俊太郎)に命じます。




折りたたみの梯子でこの世を渡ります  福光二郎










一方、重三郎の店では、戯作者たちが集まり、新たな企画会議がはじまっていま
した。蔦重(横浜流星)は、政演(まさのぶ)(古川雄大)が持ち込んだ手拭
いの男の絵を使った黄表紙を作りたい」と戯作者や絵師たちに提案します。
政寅や春町らが案を出し合うなか、鶴屋(風間俊介)「これは二代目近々先生
にぴったりだ」と意見を出します。しかし、政寅は気が進みません。
それでも重三郎に推されて、しぶしぶ執筆をはじめました。
ひと月後、完成した原稿を囲み、春町・喜三二・南畝・小田新之助まで参加して
試し読みが行われました。春町は高評価、南畝は「まずまず」といい。
ていは「世間知らずの若者が騙される話は笑えない」と指摘します。



草案はすでに五色沼の模様  岩田多佳子

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梯子ですかいいえおぼろ昆布です  酒井かがり






「的中地本問屋」(あたりやしたじほんどんや)十返舎一九作画、
(享和2年(1802)版元・村田屋次郎兵衛)
この絵は、十返舎一九作の草紙が大人気、版元から品物を担いで向かう世利
引っ張りだこになる場面。 (国立国会図書館デジタル化資料)





「本の流通」
本の流通は、物之本では、三都(京・大坂・江戸)に限られた本屋が握って
いたが、大衆本である草紙の類は零細だが全国にあった貸本屋たちが広めた。
物之本屋がじっくり本を作るのに対して、草紙屋は「生き馬の目を抜く」
勢いがあったが、悪く言うと「粗製乱造」でもある。
次から次へと目先を変えて新刊本を売った。
とくに合巻の時代になると、二冊セットの値段が百文を超えて(二、三千円
くらい)、庶民が買うには高すぎる。そこで貸本屋が活躍した。
江戸だけでも、六百軒の貸本屋が記録されている。
多くは風呂敷包みを背負って、顧客の家に持ち込む行商である。
出版元もこの需要に左右され、人気のバロメーターにしていた。
さらに丁子屋兵兵衛などのように、貸本屋が自ら出版に乗り出した。





ナンバーディスプレイに山ほどのありがとう 井上恵津子





             『屈伸一九作』(えいやっといっくがさく)
蔦重方に寄宿してドウサ引きした十返舎一九作、「本のできあがるまで」を
題材にした黄表紙である。





蔦屋重三郎ー本の出来上がるまで







                  十 返 舎 一 九





「本の出来上がるまで」
今日ではコンピューターの力に与かる本作りが一般的になりつつあるが、
その少し前は活字印刷が主流であった。江戸時代も初期においてはキリスト
教の宣教師による印刷技術の輸入と同時に、活字印刷が行われたものの、
木製の活字という制約は、コスト高と耐用性に欠けることから長続きせず、
これに代わって普及したのが「製版印刷」である。当時の製版とは、
一枚板に彫刻して印刷するものだった。





                                            執 筆 依 頼  ・打 合 わ せ





① 草稿
 作者が書いた下書きで、絵の指定や要望が指示される。
② 板下本
 画工が絵組みを画き、空白部分に筆耕が本文や詞書(台詞)等を浄書する。
浄書が終わった段階で作者は、校合(校正)や書き改めをすることもある。
特に絵本読本などの場合では、この段階で注文も多い。
また自画の場合は、筆耕の浄書(清書)の具合をチェックするわけである。
※ 黄表紙の敵対物の祖とされる初代・南仙笑楚満人丈阿・鼎峨などがこの
筆耕を業としていた人物で、後の合巻時代には、筆耕から作者に転じた人物も
少なくない。











七色を掴んでからの筆選び  近藤真奈






                   版下聖書・作成・彫り





    
③ 彫刻
 板木に板下本を裏返しで貼り付けて板木を彫る。
訂正を加えられた板下本は、次に彫刻されるわけだが、当然、板木師の彫り
損じも予想されるため、板下本ができて直ぐに試し刷りが行われて、作者の
許へ届けられる。そこで作者の校合(校正)があり、部分的な訂正や手直し
は入木(埋木)で彫り直しを行なって修正される。
(これで④の印刷にとりかかるわけだが、②→④の前で、板下や校合刷りが
版元とを何度か往復することがあった)





帰宅する目玉がやっと元の位置  桑名千華子






               印 刷





④ 印刷
 完成した板木に礬砂引(どうさひき)=和紙に墨が滲むのを防ぐ加工。
※ 式亭三馬の実父・菊池茂兵衛は、晴雲堂と号した板木師で、楚満人も板
木師を兼ねていたと伝えられる。
製版による本作りでは、この板木師の腕に委ねる比重は高かったといえよう。





輪転機に旬と嵐と代議士と  岩田多佳子






              製 本





⑤ 製本
 5枚づつを袋綴じ(印刷された一枚紙を中央から二つ折りにて、一丁オモテ
と一丁ウラとする)にて表紙をかける。
※ 印刷後の製本・販売過程は、本屋の仕事になるのだが、大阪から江戸へ下
った十返舎一九は、一時、蔦屋の食客になって、礬砂引(どうさびき)をして
いたと伝わる。
※ 礬砂引=印刷紙への滲み留め






               製 本





ひとひねりふたひねりして鉤ホック  荒井慶子





              販 売




⑥ 販売
(店頭売り、行商、貸本屋へ)
前年の霜月頃より新作販売というから、歌舞伎の顔見世興行などと同じ11月
頃より、順次、新作草双紙が地本問屋の店先に並べられ、地方向けの田舎注
文も纏めて荷商いが担いで運んだものであろう。






     
               行 商




(当時の地本問屋の店先風景の絵には、そうした荷商いする者の姿が描かれ
ていることが多い。





言葉を流すと変温動物に  近藤真奈





「多満宇佐喜(たまうさき)」
深川芸者が貸本を読みかけにしている図。




さて読者の好評著しく伝わり、続編を望む意向が強いとなると、版元は早速
早速それに応えるべく二編、三篇に嗣作を作者に依頼する。
ここに、かの『道中膝栗毛』『南総里見八犬伝』柳亭種彦の合巻『偐紫田
舎源氏』といった、あらゆるジャンルにおいて、十年以上も読者を確保しつ
つ長編化した作品の出現する理由があったのである。
それが結果的に発行部数の増加となり、版元は、毎年のごとく続編と同時に
旧編を幾度も再編して利を得ていったのである。





身近なところにあります感嘆符  山本美枝






         「人情本の祖・為永春水の絵」




自らも貸本屋営んでいた為永春水などは、殊にそうした読者の反応に敏感で
あった。一時、二代目・南仙笑楚満人を名乗った春水は、筆耕を業としてい
たとも伝えられる。それ故に、「為永連」と呼ばれる人情本製作スタッフを
抱えて、婦女子の読者受けする作品を次々に世に送り出し、人情本を一つの
ジャンルに成長させて「人情本の祖」と自称するに至った。これなどは配給
システムの機能を最も有効に活用した例であり、現在におけるマンガ・劇画
の工房と本質的には同じことで、春水が早く先蹤(せんしょう)であったと
考えればよい。
創作を協同作業でするという、一見、相容れない行為踨が合体して文学作品を
産みだす仕掛けは、読者の反応を、逸早く伝える貸本屋の存在を抜きに語れな
いのである。





吹き出しはゆらりのことで点滅中  桑名千華子

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新天地求めて風にのった種  吉岡 民





浅草庵作、葛飾北斎画「画本東都遊」に描かれた耕書堂の様子
                 (国立国会図書館)





「蔦重、新店舗へ羽ばたく」
蔦重が日本橋通油町の書肆・丸屋小兵衛の店舗と株(営業権)を手に入れ、
店舗を「耕書堂」と改めて新たな本拠としたのが、天明3年 (1783) 9月、
蔦重34歳のとき。経済の中心である通油町への出店は、出版業のトップ
クラスに名実ともに蔦重も仲間入りしたことを意味しました。
「蔦重の店舗の解説」
絵の上を見ると、看板でしょうか、「堂書耕」と屋号が記されています。
また右下には、店の前に置かれた行灯(あんどん)型の箱看板が描かれ、
左右どちらの面にも上に「富士山型に蔦の葉」の意匠を見出せます。
これが、版元蔦屋重三郎の家標(いえじるし)つまりマークでした。
家標の下、右の面には、「通油町 紅絵(べにえ)問屋 蔦屋重三郎」、
左の面は「あぶら町 紅絵問屋 つたや重三郎」とあります。
紅絵とは本来、墨で摺った絵に紅色で彩色した初期の浮世絵のことですが、
蔦重が活躍した当時は、多色摺りの錦絵も含めて紅絵と呼んでいたので、
「紅絵問屋」と表記しているのでしょう。




まねき猫店の四隅で客を待つ  下林正夫





行灯の右上、店の壁面には、書名を記した木製の札が4枚、架かっています。
売り出し中をアピールするための、広告看板でした。
右から「浜のきさこ 狂歌のみかた小冊」「忠臣大星水滸伝」(山東京伝)
「東都名所一覧 狂歌入彩色摺」「狂歌千歳集 高点の歌を集」とあります。
絵の左下、店の前には、従者に荷物を預けて、熱心に浮世絵を物色する武士
の客。店内に目を向けると、中央の棚には、上段と中段に平積みされた浮世
絵が3品目ずつ、下段には書籍らしきものが積まれています。
棚の後ろで武士の客を見ている禿頭の人物は、店の番頭でしょうか。





只見しているサムライの懐手  通利一遍






         蔦 重 と 京 伝 通 人 総 籬




蔦屋重三郎ー田沼意次から山東京伝






  「何も失ってはおりませんぬ。奴はここに生きておりまする」
一橋治済(生田斗真)と田沼意次(渡辺謙)の火花散るやりとり。





「意知が死んで」
田沼意次は、息子の意知が佐野政言に殺害された後も、幕府の老中としての
仕事を淡々として続けた。これは意知の死によって意次の権力が弱体化した
わけではなく、また、意次自身が幕政を担う必要性を感じていたためと考え
られている。
将軍家治に重用され、側用人と老中を兼任することで、幕政を主導する立場
にあり、たとえ愛息子の意知が死んだといっても、この権力基盤を崩すわけ
にはいかない。意次の年齢:は、まだまだ50代、幕府財政の立て直しや商業
振興など、独自の政策を継続させ、達成するためには、老中としての立場を
維持する必要があった。
意知の死は、意次にとって大きな痛手だが、同時に反田沼勢力にとっては、
意次を失脚させる絶好の機会でもありました。そのため、意次は、反田沼
勢力の攻勢をかわしながら、幕政を維持しようと努めたと考えられる。



真っすぐに天に帰ってゆく煙  くんじろう





          田 沼 意 次
 金とりて田沼るる身のにくさゆえ 命捨てても佐野み惜しまん





「田沼意次の人物像」
田沼意次個人は、どのような人物だったのだろうか。
神沢杜口(かんざわとこう)の随筆『翁草』「田沼家衰微」「田氏罪案」
と、題した田沼意次批判の章があるが、そこに意外な表記がある。
「田沼は奸曲の人である。表面上は親し気に大名たちの家に立ち寄り、卑賎
 凡下の者に対しても言葉をかけ、まったく権勢を誇らない。
 とても柔和で丁寧に人に接する。
 しかし この態度はよこしまな考えがあるからだ。」
 


重い話で水は流してくれません  都司 豊



また、意次は家来を慈しんでいたという。たとえば寒い日に登城する際、
供頭を呼び「今日はことのほか寒いから、末々の者にいたるまで酒を飲ませて
温めてやれ。下戸には温食を与えて寒気を防ぐように」と述べ、彼らが飲食を
終えた後、出立したそうだ。
また、常に家臣たちをいたわり、ちょっとのことでも褒美を与えたので、
みな意次のために忠勤を励むようになったという。
しかし、これは「田沼の仁心から出たものではなく、本心ではなく拵えごと
なのだ」とある。



人の味それぞれあるから面白い  曾根田 夢






              株 仲 間




かなり強引に意次を悪く評しているが、素直にこの逸話を解釈すれば、意次は
誰にでも親しく柔和に接し、部下思いのとてもよい殿様ということになる。
次に、意次の遺訓7カ条も彼の人柄が偲ばれる。
将軍家重・家治の両将軍に厚意を蒙ったことを決して忘れてはならない。
親に孝行、親戚縁者と親しく付き合うこと。
友人や仲間と表裏のない付き合いを心がけ、目下の者には人情をかけろ。
・家中の者には、常に憐れみをかけ賞罰に依怙贔屓をするな。
・武芸を励め。ただし、余力があれば遊芸はかまわない。
・軽い公務であっても念を入れて務めよ。
・蓄えがないといざというときに役にたたないので、蓄財を心がけよ。
ともあれ、こうした律儀で真面目な人物だったからこそ、人びとは意次を信頼
し、田沼政権は長く続いたのだと思う。



肩越しへ未来一瞬だけ光る  藤本鈴菜






        意次の財政政策 俵物の輸出




その積極的な「財政改革」に待ったをかけたのが、天明期に人々を襲った
「天災・飢饉」であった。天明3年 (1783) の「浅間山の噴火・東北地方の
冷害」が重なり「天明の飢饉」と呼ばれる未曽有の大惨事となったのである。
意次の政策は、「米に依存する幕府の財政を、商業に重点をおく」ことで乗り
越えようとするものであったが、その反面、農業への救済策が不十分となり、
多くの反発を招くこととなった。
影響は都市部にも及び、凶作で米の価格が高騰、慢性的な米不足に悩まされた。
米を買い占める商人に対して、庶民の不満が爆発し、天明7年 (1787) には米穀
商の屋敷へ、民衆による「打ち壊し」が起きる。
これが田沼政権への不満となり、隠居・謹慎が下知され田沼時代は終焉を迎える
こととなっていくのである。



風が吹くただそれだけで痛い朝  前中知栄





 京屋の屋号で煙管、紙製煙草入れなどを商っている山東京伝の店。

山東京伝が、京橋銀座一丁目に開いた煙草入れ屋の店。
店の奥にいる京伝は、吉原の名高い遊女花扇と会話中、
三代目瀬川菊之丞、三代目沢村宗十郎、三代目市川八
百蔵など当代の人気者が客として描かれている。



山東京伝は、深川木場の質屋の息子で、本名を岩瀬醒(さむる)という。
京伝が生まれた深川木場はその名の通り、周辺には材木問屋が軒を並べ、
豪商たちは、深川の料亭や花街で金に糸目をつけずに、派手に遊び倒す。
そこにいるのは深川の芸者、通称辰巳芸者だ。
男物の羽織で源氏名も男の名を使う。そして何より気風が良い。
粋で鯔背な江戸の職人たちと、豪商たちの通名遊びを見て育っている京伝は、
自然と「粋」が身についていった。
やがて蔵前の札差・文魚が京伝のパトロンに付き、吉原に通うようになる。
京伝の弟子、曲亭馬琴がいうところによれば、
「家に帰るのは、月に5,6日」であったという。
落語では、そんな体たらくな若旦那は勘当されるのがオチ。
ところが、「自分の能力で稼いだ金で遊んでいるのだから」と、京伝の父母
は、気にとめる様子もなかった、という。



凛と咲く花の気高さ学ばねば  宮本 緑






 自分の店の煙管を咥えるのも粋な山東京伝


そんな京伝は、戯作者として黄表紙を手がけ、大手版元の鶴屋から次々と作品
を刊行し天明2年に出した『手前勝手御存商売物』が、江戸随一の文人である
太田南畝に絶賛されたことで人気作家となる。
蔦重との仕事は、当初、黄表紙や絵本の挿絵がメインだったが、やがて黄表紙
の執筆も手がけるようになる。
なかでも『江戸生艶気蒲焼』(えどうまれうわきのかばやき)は大ヒットし、
遊里で色男を気取る遊客が、同書の主人公の名にちなんで「艶三郎」と呼ばれ
るほどの人気を博した。



昨日今日同じようでもやや違う  雨森茂樹






        『江 戸 生 艶 気 蒲 焼』



『江戸生艶気蒲焼』のさわり。
百万長者仇気屋のひとり息子艶二郎は醜いくせにうぬぼれが強く,悪友たちに
そそのかされ,色事の浮名を世に広めようと,金にまかせていろいろ試みるが,
かえってバカの名が立つばかり。ついに吉原の遊女を身受けして情死のまねご
とをしようとするが,盗賊に遭い,まる裸にされる。
実は父親と番頭とが、戒めのために企てた計略で,以後は心を改めるという筋。
モデルの存在も噂されたほど,当時の浮薄な青年の典型を滑稽をもって浮彫に
した傑作で,主人公の獅子鼻のおかしさは、京伝鼻とよばれて評判となり,
艶二郎はうぬぼれの通称ともなった。



見えぬことだけで溢れる空の箱  山口美千代



『江戸生艶気蒲焼』の人気に、蔦重から文才を見込まれた京伝は、やがて文章
主体の「洒落本」の執筆も手がけるようになる。
洒落本は遊里を舞台にした会話形式の読み物で「穿ち」といわれる人情の機微
を描くところに面白みがあった。
原通人の京伝の書く洒落本は、そんじょそこらの「吉原武勇伝」みたいなも
のとは一線を画す。会話文には男女の「心」のやり取りが描かれる。
いわば、恋愛小説なのである。修行中のお坊さんまで愛読したというのだから、
よっぽど健全なものなのだ。



細道の恋です二度づけは禁止  福光二郎





『傾城買四十八手』 (山東京伝作画)(大東急記念文庫蔵本)
洒落本の傑作。挿絵は、中国の仙人で鯉 を巧みに乗りこなしたという
琴高仙人(きんこうせんにん)を遊女に見立てている。



『傾城買四十八手』 (健全なものかどうか皆様の目でお試しを)
年は十六、この春から突き出しの遊女と、上役なのか年上の客なのか、吉原に
連れてこられた息子は、年の頃、十八くらい、会話が苦手らしく、遊び慣れて
いない風だが、身なりが良い。
「お前さまみたいな人には、家におかみさんがござんしょうね」
「まだそんなものはいないよ」
「じゃ、どこぞの良い人と、お楽しみがあるんでしょう?」
「家がやかましいから、ここには、去年お酉様の還りに来たきりさ。
 私のことだけじゃなくて、お前の良い話も聞かせておくれよ」
「わっちのことなんて、誰も相手をしてくれないもの」
「よく嘘をつくね。そうだ名を嘘つきと呼ぼうか。惚れた客があるんだろう」
「好きになるような客なんていないのさ」
「そりゃあ残念。私になんか、尚更だろうね」
「ぬしにかえ-------? もう言わない」
「おや、ずいぶんと焦らしなさるね」



月の真夜中の二時に紙芝居  森 茂俊



(何を読まされているんだという気になるが、もうすこし我慢を)
「わっちが惚れたお人は、たった一人でござんすよ」
「そりゃあ、うらやましい男だ」
「…お前さまさ」
「ずいぶんとあやしてくれるね」
「ホントのことだもの」
「お前のような美しい女が惚れてくれるなんて、私にゃもったいない話だ」
「また来てくれる?」
「呼んでさえくれたら、きっとくるとも」
「ホントに?うれしい」
ため息ついて、遊女の誠を確かめようとした矢先に、相手の遊女に振られた
連れの男がやってきて、しっぽりがご破算になるというオチがつく。
しかし遊女と初心男は、入ってきた野暮男を無下にすることなく、ボヤキを
聞いてやっている。振られた男が部屋を出て行くと「あとはふたり、ほっと
する」



どんな風に口説けば堕ちてくれますか  石神孔雀



        





「べらぼう28話 あらすじちょいかみ」




城中で意知(宮沢氷魚)佐野政言(矢本悠馬)に斬られ、志半ばで命を
落とし、政言も切腹をする。後日、市中を進む意知の葬列を蔦重(横浜流星)
たちが見守る中、突如石が投げ込まれ、場が騒然となり、誰袖(福原遥)
棺を庇い駆け出す…。憔悴しきった誰袖を前に、蔦重は、亡き意知の無念を
晴らす術を考え始める。
そんな中、政演(古川雄大)が見せた一枚の絵をきっかけに、仇討ちを題材
にした新たな黄表紙の企画を考えます。
政言を悪役として描き、世間に問うという内容です。
しかし、須原屋市兵衛(里見浩太朗)は、反対しました。
「公儀のことをほんにするのはご法度。世間の評価を変えるのも難しい」




逆走をしていることに気付かない  山田恭正










意知の葬列が市中を通る日、群衆の中から「天罰だ」と叫ぶこえとともに
石が投げられた。田沼家への不満が、言葉や石となって飛んできたのである。
群衆の中にいた誰袖は、咄嗟に意知の棺を守ろうと駆け寄り、額に石が当り
倒れた。誰袖は涙を流しながら重三郎に訴えます。
「仇を討っておくんなんし…」
政言が亡くなっている以上、仇討は叶いません。
そんな中、重三郎は小田新之助とその妻・ふくを訪ねます。
ふくはもと遊女で今は、筆耕として生計をたてていました。
重三郎は長屋の手配や仕事の紹介をして支援します。



瀬戸際であしながおじさんの援助  井上恵津子



帰り道、重三郎は、佐野政言の墓の前で幟をたてている浪人をみかけます。
「世直し大明神」と書かれたその幟。
政言を英雄として祀ろうとする者たちが、現われはじめていたのです。
その浪人の顔は、葬列に石を投げた大工と同一人物だと気づきます。
このことを意次に伝えます。
「浪人と大工は同一人物。役者かあるいは、正体を隠す必要のある者かも
しれません」と。



滲んでいます飾っても飾っても  山本早苗

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煮くずれているが男爵芋である  福光二郎






      佐野善左衛門政言・江戸城中にて刃傷におよぶ




「江戸のニュース」
若年寄・田沼意知が殿中で刺される 天明四年三月二十四日
若年寄の田沼意知は、老中の田沼意次の長男で、三十六歳の働き盛りだった。
その意知が、殿中で刺された。事件は、この日の正午過ぎに起きている。
意知が、執務を終えて、御用部屋から新番所前の廊下を通って、桔梗の間に
さしかかったところ、控えていた一人の男が突然立ち上がり、
「申し上げます、申し上げます」
と低い声で言いながら、脇差を振りかざして肩口に斬りかかってきた。
たまらず意知は逃げたが、男は意知を追い、逃げきれず倒れた意知の股間を、
二突き三突きした。近くにいた大目付の松平忠郷らが、この異変に気づき男
を取り押さえた。男は旗本の佐野善左衛門。凶行の動機は、もとは紀伊徳川
家の鉄砲足軽の出の意次が、先祖を粉飾するために、佐野家の系図と七曜旗
を善左衛門から借りたにもかかわらず、何度督促しても返却しなかったから…
ということだった。
意知は、この傷がもとで四月二日に死亡。翌三日、善左衛門には、切腹が命
じられ、のち浅草の徳本寺に埋葬された。
この事件であるが、賄賂を取ってのし上がった田沼父子は、同情されずそれ
に鉄槌を下した善左衛門を「世直し大明神」として世間はもてはやした。
しかし、善左衛門がそのような決意に至る過程が何とも不自然なため、裏で
善左衛門を、そそのかしたり、けしかけたりした人物が、いたのではないか、
との説もある。




湿っています言いたいことも言えぬまま  竹内ゆみこ





  下野國田沼山城守田沼實秘録 田沼意知殿中殺傷事件の顚末書





蔦屋重三郎ー田沼意知城中で刺される




異例の出世を遂げた田沼意次の田沼家は、もともと佐野家の家来だった。
政言(まさこと)は、飛ぶ鳥をも落とす勢いの田沼家のおこぼれを、昔のよし
みで貰いたいと、思ったようだ。当時、田沼は、賄賂を貰って政治を動かして
いるとされていたから、政言も、田沼意次の息子で、若年寄の意知に金を渡し、
出世への道筋をつけてほしいと頼んだ。
しかし、政言は、相変わらず新番士のまま、石高も変わらない。なんどか問い
合わせてみたようだが、変わらない。
その上、佐野家の系図も、意次のところに行ったまま返ってこない。
そうした状況に耐えきれなくなった政言は、天明4年3月24日、江戸城内で
意知を斬りつけ、その傷が原因で、意知は翌日亡くなった。
江戸城内での刃傷沙汰というと、「赤穂事件」のきっかけとなった浅野内匠頭
吉良上野介に斬りつけた事件だけかと思われがちだが、江戸時代を通じて、
他にも数件起きている。




栴檀の高さだうっとおしい森だ  井上恵津子










早々と江戸のニュースが採りあげたように、天明4年(1784) 3月24日の正午
過ぎに事件が起こった。執務時間が終り、執務を行っていた御用部屋から下城
しようと城内の廊下を歩いていた若年寄の田沼意知は、中ノ間から桔梗の間へ
向かう廊下で新番士の佐野善左衛門政言に意知が斬りつけられた。
意知は、脇差を抜き防ごうとするが防ぎきれず、肩などを斬られ近くの桔梗の
間に逃げ込む。後にこの事件で処罰された者が21名であるため、これぐらい
の人数が、事件現場周辺にいたと考えられる。
最初に意知が刺された時点で、周りの者が佐野を取り押さえ、彼が医師による
適切な治療を受けられれば、亡くなることはなかっただろう。
しかし、桔梗の間で意知は倒れてしまい、股を刺された。
刺し傷は三寸五分から六分で骨に達し、この傷による出血多量が死因になった
と伝えられている。大目付の松平対馬守忠郷(ただくに)が佐野を取り押さえ、
目付の柳生主繕正が、佐野の手から脇差を落とした。
この事件から9日後の4月2日に意知は享年36歳で死亡。
翌日の4月3日に佐野が切腹させられた。





天啓が下りてつくつくほうし泣く  寺島洋子




「佐野の刃傷事件の記録に『徳川実記』はどう書いたか?」
『4月17日には、大目付と目付は、「佐野が狂信して犯行に及んだ」とし、
「同僚におかしな様子なら注意して観察し、場合により自宅で治療させるよう」
にという趣旨の触れを関係各所に出し、「佐野の狂信」とし、巷で流れる政治
テロ説を改めて否定した。
もっとも、佐野「ある幕府高官もしくは大名の指図で実行した」と自白したと
しても、公にすれば、黒幕である人物を処罰する必要が生じる。
これだけの事件なら、黒幕は切腹、黒幕が武家の当主であるなら、その武家は、
改易という厳しい処分を下すことになる。改易になった武家に仕える者は、浪人
になり、黒幕の武家の親戚も、連座という形で何らかの処分を下すことになる。
公にすれば、影響を受ける人物の数が多く、事件の影響を最小限に留めるため、
公にせずに「佐野の発狂」という個人の犯行して幕引きを図ったものである』
となる。




真に受けてしまった奴の口車  松浦英夫




「追而」
幕府の記録には、「意知が脇差で防いだ」と記載されている。
意知が逃げ回り一方的に刺され殺されたのでは、「武士としてあるまじき行為=
不覚をとる」ことである。武士は事件の被害者であっても、相手から逃亡し、
背後から斬られることは、「不覚」であり、事件被害者であっても御家断絶か
御役御免など厳しい処分が下されることもあった。
本当に彼が防いだかは定かではないが、体面上そういうことにしておかなければ、
彼の武士としての名誉が守られない。




辻褄の合わぬ話に夜が更ける  高野末次











「世直し大明神」
意知が斬られた翌日から米価が下がったこともあって、佐野「世直し大明神」
とあがめられたという。
『蜘蛛の糸巻』という随筆によると、佐野は「世直し大明神」とあがめられて、
香花を手向ける者も数多く見られたという。一方で、意知の葬列において石を
投げる者まで現れた。田沼父子の権勢への反感が、それほど強かったというこ
とだろう。町の狂歌師たちは、こぞってこの事件を題材に歌を詠んでいる。
 「剣先が田沼が肩へ辰のとし 天命四年やよいきみかな」
 「金とりて田沼るる身のにくさ故 命捨てても佐野みおしまん」
なお、この時の傷がもとで意知が亡くなったため、政言は4月3日、切腹を申し
付けられた。





 田沼意次・意知父子が系図の件で密談を交わす




べらぼう27話 あらすじちょいかみ 「願わくば花の下にて春死なん」




蔦重(横浜流星)は、吉原細見だけでなく挿絵入りの青本を作ろうと、鱗形屋
孫兵衛(片岡愛之助)と共にアイデアを考え、ネタ集めに奔走する。
そんな中、須原屋(里見浩太朗)から『節用集』の偽板が出回っていると聞き、
蔦重の中に、ある疑念が生じていた…。
一方、江戸城内では、松平武元(石坂浩二)が莫大な費用がかかる日光社参を
提案する。田沼意次(渡辺謙)は、予算の無駄遣いを理由に、徳川家治(眞島
秀和)に中止を訴える…。




窓枠で切りとるどこにもない景色  宮井いずみ




一方、江戸城内では、財政が持ち直したことを受け、老中首座・松平武元(石
坂浩二)が日光社参の復活を提案します。対して予算の無駄遣いを理由として
田沼意次(渡辺謙)は、将軍家治(眞島秀和)に中止を訴えます…。
さらに将軍になると考えられていた嫡男・徳川家基(奥智哉)も、日光社参を
望んでいると言い、家治は話をはぐらかしてしまいました。
その後、意次は、各家から届いた日光社参取りやめの嘆願書を示すも、家基が
<意次は、幕府を骨抜きにしようとする奸賊>とまで考えている事実を告げた。
家治は、ついに実施を決めてしまいます。





酸欠のまんま 角取れないまんま  中村幸彦




やむなく老中たちの前で、実施決定の旨を告げた意次
その話を聞いた武元は、暗に「成り上がりの田沼が、大名行列の作法を知って
いるのか」と揶揄。すると意次は、「高家・吉良のように指南してほしい」
軽口を叩きますが、その表情からは笑みが一瞬消えるのでした。





スパイスが効きすぎているいる一行詩  西田雅子






         佐野善左衛門政言 (矢野悠馬)


一方、そのころの田沼屋敷では。
意次の息子・意知が旗本の佐野善左衛門政言と名乗る男と面会することに。
意知の前で「ご覧いただきたいものが」と、家系図を広げた政言。
続けて「田沼家の祖先は、かつて佐野家の末端家臣であり、その家系図は
田沼家の由緒として好きに改ざんしてよい。
その代わりよい役職が欲しい」と意知に伝えると不気味な笑みを見せる。
しかし、江戸城で家柄を揶揄されてきたばかりの意次。
その話を聞いて、政言が持ってきた家系図を、そのまま庭の池へ放り投げる
と、意知に対して「由緒などいらん」と言い放つのでした。



すがりつく腕の力は持っている  吉川幸子

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未生流えんぴつ五本挿して夏  井上一筒











小野篁は、平安時代の偉大な漢詩人。この名前を取った教科書で、子どもが漢字
を覚えるための本です。近世初期から幕末にかけて多数の版が作られ、町人の間
でもおなじみの存在でした。だからこそ多くの人に通じるパロディーの面白さが
あり、春町の趣向を生かして後年、式亭三馬は「小野愚譃字盡(おののばかむら
うそじづくし)」という滑稽本を出しています。



遠い日の偶然からの第一章  山崎夫美子







        『小野譃字盡』(国文学研究資料館所蔵) 





冒頭に述べた通り、漢字学習のための教科書でもある『小野篁歌字尽』という
本は、江戸初期に作られ、後期まで版を重ねました。
文化3年(1806)に出た式亭三馬の『小野字尽』(おののばかむらうそじづく
し)は、この本のパロディーで、第一項には、人偏に「春・夏・秋・冬・暮」
が書いてあって、「春うはき、夏はげんきで、秋ふさぎ、冬はいんきで、暮は
まごつき」としています。旁が同じものもあります。
「汀・灯・釘・町・打」の歌は「水みぎは、火はともしびに、金はくぎ、田は
まちなれば、手をうつとよむ」です。
この歌は、「睨み返し」「掛け取り漫才」など歳末の落語で、パロディーで
あることを離れて、滑稽な歌として枕に使われるようになりました。




ゴキブリも牛丼が好きなんだな  市井美春




蔦屋重三郎ー『小野篁歌字尽』ー③




絵の漢字を読む=〔たゆふこうしもうさんぶつつけ〕
九十匁がたゆふ(太夫)。こうし(格子)六十匁。三分ちうさん(昼三)。
家出の漢字は、揚げ代をもって遊女の階級を表す。




解説=
太夫の位は、宝暦年間に現われたが、揚げ代は【九十匁】、格子は格子女郎。
同時にこの格式はこの当時にはない。揚げ代は【六十匁】
【昼三】の揚げ代は、「昼三分・夜三分」。この当時、画面のような道中が、
ゆるされるのはこの階級。仲の町の通りを客を迎えに行くわけで【しげみや、
アノ、ぬしが来てか見てきや】と言っている。「ぬし」とは、お目当ての客、
「あの方」といった感じ。「しげみ」は、「禿の名」である。
【ぶつつけ】は、交じり見世にいる揚げ代【一分】の遊女。




もう少しこのままがいい落ち椿  津田照子





絵の漢字を読む=〔大はたきのたまくかんどう〕
毛氈をかぶりますのがおう(大)はたき。酒がのたまく。薦(こも)が勘当。
「下り、諸白あり」という看板の掛かる居酒屋の店頭の景。




解説=
昼から舛で【かぶる】ごとく【酒】を飲んでいる【のたまく】がいる。
【のたまく】とは、わけのわからぬことを、ぐずぐずくどくど、言うくらいに
出来上がった酔っぱらいのこと。
【総体不景気な、ふさ〳〵しい屋台骨だ。今度見やれ、仕方がある】といった
ごとくを並べるわけである。
【毛氈をかぶる】とは、特に親や主人の前をしくじることを言う。
こうなると、当時の通言で【人はたき】、則ち、勘当されたりすることになる。
放蕩のあげく【毛氈をかぶる】仕儀となり、【勘当】された【薦被り】(乞食)
が画面下方にいる。【あんな話を聞いても、昔恋しや、腹は淋しや。お余りを
くださりませ】と若いのに哀れである。





失敗の記憶ばかりだマンボウだ  宮井いずみ





絵の漢字を読む=かねばこさかてこけぶさきやく
早く空くやつがかねばこ(金箱)。飛ぶさかて(酒代)。惚れるがこけに。
帰るぶざきやく(武左客)。
吉原への道、夜の景。漢字は「早」を部首としてこじつける。




解説=
放蕩に遣い散らしはじめると、【早く空く】のが【金箱】である。
左端の粗末な姿をした若い男がその末路。
【昔は、やりが迎ひにでたが、いまは長刀あしらいより、ぞうりが長刀なりに
なった】
と、ぼやく。昔は遣り手までが、丁重に迎えに出てくれるくらいのお
大尽だったものが、今は体よく適当にあしらわれる(長刀のあしらい)。
「長刀草履」は長刀の刃のごとく、片方が擦り減った草履のことである。
画面中央には、【酒代】(チップ)をたんまりはずまれたのであろう、四つ手
駕籠が【飛ぶ】がごとく【早く】走っている。世の中金次第なのである。
【コレハさへ、やつさ、コリヤコリヤ】とは、駕籠かきの掛け声である。
画面右は【武左客】二人連れ。「武左」は武左衛門の略。田舎侍の野暮さ加減を
罵ってかく言う。またの名を「浅葱裏」。武家屋敷の長屋には、門限があるので、
【早く帰る】のを習性とする。【先頃、彼が方より、かくのごとくの玉づさをさ
しこした。よつてそれがしかく熱くまかりなったと云々】
と、四角張った言葉で
惚気る。「玉づさ」すなわち、手紙は遊女の手管の初歩。この程度で夢中になる、
まさに【早く惚れる】、遊びを知らぬ【こけ】(野暮)。
【なか〳〵われらおよばぬこと。まことに貴殿は当世の大通だ】と、相槌を打つ
連れも同類である。




芍薬を脱ぎ散らかしている吐息  黒川弥生





絵の漢字を読む=やぼつうむすこおやじ
金の死ぬのがやぼ(野暮)に。生かすつう(通)。無くすがむすこ(むすこ)。
番おやぢ(親爺)なり。




解説=
親の前を偽って吉原へ出掛けようとする息子。漢字は金偏で「人種」を表現。
質屋であろうか、帳場格子に「質蔵之掟」という札の付いた鍵がぶらさがって
いる。「紙類品々」と書かれた包みが前に積んである。その奥、帳場格子の向
こうに【親父】がいる。脇には銭の束。とかく【金を無くす】工夫を日々案じ
ている【放蕩息子】にとって【親父】【金の番】そのもの。
目を盗んで、遊びに出るにも相応の知恵がいる。
【今晩、名主様へ謡講に参じます。遅くは泊ってまいります】と言っているが、
謡講をダシにするのは、かなり使い古された手という感がある。
「うたい本おやぢをばかす道具なり」の川柳もある。
親父は、【なんだ名主様へ、舞台子を呼ぶ。人のいたみ(費用負担のこと)な
らば行ってみろ】
と、通じていない上にあくまでケチ。
迎えにきた悪友が店先にいて、【首尾はどふぞしらん】と、うまく抜け出せる
や否やを窺っている。目ざとくそれを見つけた丁稚が、【モシなんぞ、お買い
なさるのかへ。おは入りなさりませ】
とは、とんだアクシデント。





真四角になろう成ろうとして楕円  石橋芳山





絵の漢字を読む=おやかたしんぞうはつさくきん〳〵
花色がおやかた(おやかた)。赤いのがしんぞう(新造)。白が、はつさく
(八朔)。黒が、きん〳〵(金々)。すべて衣偏にまつわる言葉を吹き寄せる。




解説=
【花色】は縹(はなだ)色。黒に染め返しがきくので経済的な染め色である。
【親方】は、この場合妓楼の主人。派手な稼業に見えながらも、これくらいの
倹約を自分に課さなければ経営は成り立たない。
【新造】【赤】系統の仕着せの振袖を着る。
【八朔】は、八月一日の吉原の行事。遊女は全て【白】無垢を着る。
画面はその八朔の夜のようだ。【きんきん】とは、当世風の風俗で身形・髪形
を整えてある様をいう流行語。まさに【きんきん】然とした【黒】仕立ての通
人がただいま到着。通を気取って、遊里通いをする人士たちは【黒】ずくめで
きめたがる。【遅くなって急がせたら、いつそ暑い。アノ子、水を持ってきて
くりや】
と言っている。後ろにいる遊女が、扇で風を入れてやっており、脱が
せた羽織を相方の遊女が【干しておきんしやう】と受け取る。
画面右端の新造は【ヲゝ笑止】と、この男の様子を可笑しがっているが、新造
は、箸が転がっても可笑しがる年齢なのである。 連れは武士のようである。
【身ども、大きに待かね山の芋田楽、サア〳〵ひとつきこしめせ】と、強烈に
古い洒落を言って、駈けつけ三杯をすすめる。




裏地なら真っ赤な嘘で固めてる  木口雅裕





絵の漢字を読む=ねんかけくるわつきみえんづき
親里がねんあけ(年明け)色里がくるわ(くるわ)。芋がつきみ(月見)に。
披くゑん(縁)づき。新案の漢字は「里」字を部首にこじつける。




解説=
【年明け】とは、遊女の年季を勤め終えること。年が明いた遊女は【親里】
戻ることができる。
【色里】【廓】であるのは説明の要なし。【月見】は、吉原の紋日のひとつ。
【里芋】を供えるのは、九月十三日の後の月。
画面は、しかるべきところに【縁付き】して、奥様となったもと遊女が【里び
らき】で親里にやってきたところを描く。
【里びらき】とは、里帰りのことである。立派な奥様らしい出で立ちで、供の
小僧に持たせている土産も相当なものであるが、遊女時代の癖が抜けていない。
【今日、里開きながら来んした。うちでもよろしくとサ】という挨拶に、
【ヤレ〳〵里開きはよいが、もふ、「来んした」とは言やんな。兄も今まで内
にいたものをサ】と、つい飛び出た遊女言葉を母親が咎めている。母親は団子を
作っているところ。丁度今日は【月見】の日なのだろう。





ときめきに色は着けずにおきましょう  大沼和子





絵の漢字を読む=みうけかみさんしうとまごひご
千秋がみうけ(身請け)。万歳おかみさん。千箱がしうと(舅)。
玉がまご(孫)ひこ。祝言の時によく謡われる謡曲「難波」の詞章「千秋万歳
の千箱の玉を奉る」に
出て来る言葉を、漢字に仕立てて目出度くこじつけた。




解説=
【身請け】【かみさん】【舅】という読みと、案出の漢字に対応関係はない。
【身請け】されて【かみさん】になり【舅】に恵まれ【玉】とも言うべき、
【孫ひこ】に恵まれて一家は栄える。
黄表紙は、何があろうとも、最後は、めでたしめでたししで終わるのを約束と
している。【めでたい〳〵、鶴の羽重ね、千秋のと、むだ字尽くしで舞ひ納む】
という祝言の書入れで、この黄表紙も締めくくられる。




化ける日の白装束を縫っている  平井美智子











べらぼう25話 ちょいかみ





天明3年(1783) 浅間山が大噴火して噴煙による日照不足や長雨で、東北地方が
大凶作となる。この大凶作による物価の高騰で大坂の貧民が米屋や商家を襲撃、
さらに打ち壊しは、江戸や長崎など諸都市へ広がった。
江戸城中では、この危急の状況に、田沼意次(渡辺謙)や幕府の重臣たちは頭
を抱えていた。取り敢えず、意次は、商人たちに米の値下げを命じるものの、
素直に従うとは考えられない。短絡的な対処にすぎないと分っていながらも、
今出来ることを急ぐしかないと判断した、が…。




雨の日のバケツは雨の音で泣く  清水すみれ










戯作者や絵師ら出入りする者の多い耕書堂では、米の減りが早く、重三郎(横
浜流星)も苦労していた。そんなところに、幼い頃に自分を残して姿を消した
蔦重の実母、つよ(高岡早紀)が、店に転がり込んできたのだ。突然の再会に
重三郎は怒りをあらわにし、追い返そうするが妻のていが間に入りつよを庇う。
聴けば、つよは不作のあおりを受け、やむなく江戸へ舞い戻ってきたとのこと。
その後、つよは、店の座敷で来客の髪を結いはじめる。
重三郎は、その勝手な振る舞いに眉をひそめるものの、つよは「代金はとって
ない」と言い張る始末。ていは、その髪結いの時間を活用して、店の本を手渡
していた。これに閃いた重三郎は、本の販促に新たな形として取り入れていく
ことを思いつくのである。





水飲み場三カ所持っている小鳥  井上恵津子




一方江戸城では、意次が、高騰する米の値に対策を講じるも下がらず、幕府の
体たらくに業を煮やした紀州徳川家の徳川治貞(高橋英樹)が、幕府に対して
忠告する事態にまで発展する…。
【さて26話の「三人の女とは」誰のことを言うのだろう?】
一人目はつよ=ていは形だけの妻と言いながら、蔦重の実母。蔦重が7歳の時
に離縁し、蔦重を置いて去った。髪結の仕事をしていたこともあり、人たらし。
対話力にたけており、蔦重の耕書堂の商売に一役買う。
二人目はてい=ていは形だけの妻といいながら、重三郎の商売を支えてきた。
ていは「自分に女房としての器がない」と、出家へ思い悩む一方、重三郎の口
から出てくるのは、「誰とも添う気のなかった俺が、選んだただ一人がていだ」
と、真っ直ぐな言葉でていを説く。
三人目は?、誰のことなんだろう?
重三郎が、かつて本気で惚れた花ノ井・瀬川のことか。重三郎の心の奥には、
今もなお、瀬川が、比べようのない特別の人として住んでいる。
それとも誰袖のことか。




行き先をじっと思案の赤蜻蛉  前岡由美子

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