星が降っているので浴びに来ませんか みつ木もも花
石 山 女 角 力
【明治十六年~二十四年四月】 〔女角力、興行さる!〕
今の年、女角力が盛んに行われている。
これは信州の士族の興行師が始めたもので、番付もあるというからかなりの
本気。みな大女ばかりで、大関などは、身長こそ百五十七センチだが、体重
は八十キロとでっぷり。四股名も富士山遠江灘と男勝りだ。
両国回向院で興行を行ったこともあるが、余技として、土俵を前歯でくわえ
たり、四斗俵を持って土俵上を歩いたりと珍芸が多く、差し止めになること
しばしばとか。
わたくしがてふてふだったころのこと 大葉美千代
歴 代 横 綱 勢 ぞ ろ い
大相撲ー明治~昭和の相撲のニュース
行司稼業も命がけ
観客のほとんどは相撲より飛んだ行司を見ている。
【明治三十八年一月】 〔ああ行司悲歌土俵に死す〕
まさかと思われていた、本当におこってしまった。
一月場所、立行司の木村頼平が亡くなった。死因は心臓マヒ。
土俵下で力士に押しつぶされたことが原因だった。
一月場所五日目の太刀山ー駒ヶ嶽戦だった。
駒ヶ嶽の攻めにこらえ切れず土俵下へすってんころり。
このとき、太刀山の投げ足が、下で控えていた瀬平を直撃した。
行司の瀬平は、後ろにひっくり返り苦しんだが、運命のいたずらか、際どい勝
負のため土俵下から物言いがつき、一時間もの協議の末、一勝負預かりに。
この間に瀬平は元気を取り戻し、次の一番を無事に務め、六日目と八日目に再
び土俵にあがった。ところが翌日の早朝、自宅の布団のなかで急死。
医師の診断により死因は、心臓マヒと判明した。
瀬平は酒好きで、心臓を悪くしていた…が、瀬平に運命のとどめを打ったのは、
太刀山。結果、土俵下で圧死してはてることとなった瀬平。
行司は命がけの仕事なのである。
(立行司・木村瀬平は、日本相撲協会の年寄名跡のひとつで、木瀬(きせ)の
通称で呼ばれている)
あの世にはタタミイワシを手土産に 銭谷まさひろ
梅 ヶ 谷 ー 常 陸 山 戦
【明治四十一年】 〔大相撲人気が絶頂を極めている〕
立役者は二代目梅ヶ谷と常陸山。
梅ヶ谷は、温和な顔立ちで、取り口も守りを固める堅実派。
一方の常陸山は猛々しい風貌で、攻撃型力士。対照的な二人の勝負に、ファン
は沸騰中だ。
「圧巻、勝率九割を超える常陸山」
今から百十五年前、谷風・小野川の両横綱が、ライバルとして数々の名勝負
を演じ江戸市中を熱狂させたが、今の二代目梅ヶ谷・常陸山の人気は、過熱
ぶりを彷彿させるようなフィーバーぶりだ。
止まれない訳を踵も知っている 森井克子
梅ヶ谷は一六八センチ、一五八キロ。背が小さく、加えて、いつも笑みを浮か
べているほがらかな顔。豊な印象はまるでえびす様だ。
相撲もどっしりと構えて四つに組み、最新の注意を払っての寄りが身上。
常陸山は梅ヶ谷とはまったく対照的。
一七四センチ、一四七キロのバランスの取れた体。眼光は鋭く、飢えた肉食動
物のようなどう猛さを感じさせる風貌。
取り口も、細かい技にこだわらず、立ち合いから気合十分に猪突猛進する。
豪快な攻撃力が持ち味だ。
狼の視力を持った草刈機 くんじろう
二人の対戦が最初に注目されたのは、三十六年五月。互いに全勝で千秋楽を
迎え、息もつかせぬ大接戦の末、常陸山が勝ち優勝を決めた。
この一戦で梅ヶ谷も高く評価され、場所後に横綱に同時昇進。
そして今、この両力士が東西に分かれて、優勝争いを繰り広げているから、
ファンにはたまらない。二人の対戦のほとんどが全勝、もしくは一敗。
現在の大相撲での最高対決だ。
ライバルの二人だが、今のところ人気、実力とも常陸山が上。
常陸山の勝率は九割を越え、抜群の強さを誇る。
梅ヶ谷は、対戦相手のなかで、唯一、負け越しているのが常陸山である。
やんわりと言いなはるけどきつおます 原 洋志
初 代 両 国 国 技 館
【明治四十二年六月二日】 〔相撲の殿堂!国技館完成〕
晴雨にかかわらず十日間の相撲興業可能に、ブームにますます拍車。
この日、国技館の開館式が盛大に行われた。委員長の板垣退助が厳粛に開館
の挨拶。さらに全国の新聞記者を代表して、万朝報社主の黒岩周六が祝辞を
朗読した。参列者は、東京市長、商工会議所会頭、両院議長、各貴族、外国
大使とそうそうたる面々だった。
新館建築に向けスタートしたのは三十九年。場所を両国の回向院境内に決定。
五月には起工式を行い、建築家は東京駅、日本銀行本店の設計で名高い辰野
金吾が選ばれた。そして、三年の月日を経て、日本初、ドーム式の円形建築
の常設館が完成した。
建設を機に、屋根付きの土俵は、これまでひさし風のものから、入母屋造り
に変更。土俵も四角形に盛り上げた土俵場のなかに、丸土俵を置くことにな
った。
(ちなみに「国技館」の命名者は文学者の江見水陰。収容人数は露店興行の
三千人程度から一万六千人へと増大。そして何より、晴雨に関係なく興行を
行える。相撲ブームにますます拍車がかかるのは間違いない)
野暮やなあその先聞きたがるなんて 松浦英夫
【明治四十四年五月】 〔雲竜型と不知火型、実は逆だった〕
雲 竜 型 土 俵 入 り
【明治四十四年五月】 〔雲竜型と不知火型、実は逆だった〕
大相撲オープニングのクライマックスは、何といっても「横綱土俵入り」だ。
第10代横綱・雲竜久吉と第11代横綱・不知火光右衛門をそれぞれ創始者
とする「雲竜型」と「不知火型」が知られている。
一般的には、「不知火型の横綱」として、太刀山・羽黒山・吉葉山・玉の海が
知られ、「雲竜型の横綱」は、常陸山、二代目梅ケ谷・栃木山・双葉山・栃錦
若乃花・柏戸・大鵬など、圧倒的に多い。
ところが、この土俵入りの型が、現在ではまったく逆であるという。
仰天する異論が飛び出し、関係者を驚かせている。
それは、第22代横綱・太刀山が、明治44年5月6日の靖国神社大祭の余興
相撲で披露した初土俵にさかのぼる。
このときの模様を太刀山自身がある報道関係者にこう伝えているのだ。
「わしの土俵入りは常陸山関・梅ケ谷関(二代目)とは違っている。
二人は四股を踏んだ後で、左手を胸にあて、右手だけを横に広げるが、わしのは、
両手を同時に広げて、両足をせり上がっていく。行司の木村庄之助(十六代)が
薦めてくれたもので、これが横綱雲竜の型らしいよ」
嘘だとは言えないままの嘘ひとつ 山田恭正
不 知 火 型 土 俵 入 り
当時の新聞『報知』『国民』『朝日』は、太刀山の土俵入りを「雲竜型」と
署名入り記事で報じたが、『日日』『時事』『万朝報』など、「不知火型」と
雑報扱いで報じたものもあった。
信憑性を考えれば、署名記事の報に分があり、明らかに現在の土俵入りの一般
論とは逆となる。
「これはいかなることか」と、大相撲歴史新聞では、特派員を派遣し調査した
ところ、ある有力報道関係者が、後に
太刀山の土俵入りの型を継承した第36
代横綱
・羽黒山の土俵入りを見て、前述の雑報扱いの記事を参考に
「不知火型」
と決めつけてしまったとのこと。
綱の後ろの結び目で分ける雲竜型と不知火型
いずれの名にせよ「優美な横綱土俵入り」を競った、雲竜・不知火の両横綱の
名は、大相撲の歴史とともに輝いている。
なお現在「雲竜型・不知火型」の違いとして、四股を踏んだ後の下段のせり上
がり形以外に、綱のうしろの結び目が一輪のものが、「雲竜型」両輪のものが
「不知火型」となる。
(右手を伸ばし左手を脇に添えるのが雲竜型(攻守兼備)、両手を大きく広げ
るのが不知火型(攻め)とされ、雲竜型は豊昇龍や大の里、不知火型は白鵬や
照ノ富士が代表的である)
なるようになるが私の哲学だ 徳山みつこ
あゝついに双葉山敗れる
【昭和二十年十一月】 双葉山七十連勝ならず
双葉山の69連勝の裏にかくれていた事実。
昭和11年1月から14年1月まで、60連勝という不滅の金字塔を築いた
双葉山は、実は、右眼がほとんど見えないというハンディを背負っていたと
いう衝撃的な事実が明らかになった。 関係者によると、
昭和16年5月場所の時、双葉山は桜錦と対戦し負けた一戦があった。
その時の取り組みの内容に不審な点がみつかったのである。
平幕の桜錦は、横綱・双葉山の右足に蹴手繰りをしかけ、左に避けた。
双葉山は、思わず土俵上に手をついてしまったが、自分の右側に瞬間的に移
動した桜錦を完全に見失ったような感があり、力士たちの間では、双葉山の
右眼はおかしいのではと危惧された。
双葉山と親しい高木友之助中央大学総長は「彼の右眼のハンディを知ってい
たのは、おそらく彼の両親と私ぐらいだろう」と語る。
同部屋の力士さえ知らない事実だった。
彼はこんなハンディを持ったまま、不滅の連勝記録を樹立したことになる。
誰もしらない沢山のしくじり 永井 尚
昭和20年11月の引退後、はじめて彼自身の口から明らかにされた衝撃的な
事実であった。ますます彼の記録が、いかに前人未到の大記録であったかが、
再評価されるだろう。
また誉めるべきは、彼と対戦した当時の力士たちともいえる。
双葉山は、全力士から徹底的に研究され、彼の右眼のことは噂ではなんとなく
知られていた。が、誰一人として彼のそのハンディを確かめるような取り組み
を仕掛けた者はいなかったという。双葉山の70連勝にストップをかけた安芸
ノ海も「右四つに組まれた後、安芸ノ海は、外掛けを仕掛け、双葉山はバラン
スを崩して左膝から落ちた。右眼のことを狙った戦い方ではない」
と関係者は口を揃える。
右眼のことを隠し通し、かつ大記録をつくった双葉山。そしてそのハンディを
薄々気づきながらも決して戦術として使わず、真正面から戦い続けたフェアプ
レーに徹した力士たち。大相撲ならではの清々しい逸話である。
(因みに、双葉山の生涯成績は276勝68敗1分けで、33休。優勝12回。
幕内の勝率はなんと8割2厘。横綱になった後は、8割8分2厘という驚異的
な勝率を誇った)
泣き場所ににょきにょき生える笑い茸 笠島恵美子
力士時代の力道山
【昭和24年5月7日】 〔力道山がついにのし上がった〕
この日、相撲協会は、15日から行われる大相撲夏場祖の新番付を発表した。
そのなかで、ここ数場所、確実に力をつけ白星を重ねていた力道山が、関脇
昇進を果たした。
その場所、力道山はいつになく好調だった。連日勝ち続け、千秋楽まで九勝
一敗、前田山、東富士、羽黒山の上位陣と星を並べ、その場所から採用され
た同点決勝戦で、四力士による優勝決定戦が行われることになった。
横綱・羽黒山と対戦した力道山は、立ち合いから攻め、相手を土俵際に追い
詰める。羽黒山は懸命に左、左へとまわり、力道山が右外掛けで倒そうとし
たとき、羽黒山がうっちゃりで破った。
結局羽黒山が優勝し三連覇を遂げたが、強豪相手に健闘したことが、この日
の昇進につながったことは間違いない。
にんげんも塩で締めるとしゃんとする 井上恵津子
横 審 総 見
【昭和25年5月25日】 〔横綱審議委員会設置ー横綱格下論に応える〕
このところ議論が沸騰していた「横綱格下論」にようやく決着がついた。
相撲協会はこの日、横綱審議委員会(横審)を設置した。
委員長は酒井忠正氏に決定し、尾崎士郎氏、石井光次郎ら計八人のメンバー
で構成されることになった。横審設立のきっかけは、今年の春場所で羽黒山、
東富士、照国の三横綱が、ケガや故障で相次いで途中休場し、六日目にはつ
いに横綱不在に、この事態に世論は激憤。横綱格下げを求める声が殺到した。
協会は役員会を開き、対応を協議。一時は、横綱も二場所連続で負け越せば、
地位を格下げする方向で固まったが、照国のように「八年間も横綱として角
界に貢献しながら、二場所の成績不振だけで格下げするのはどうか」という
意見もあり、対応は混迷を極めていた。
横審は、横綱を推薦する時点で、積極的に発言し、横綱昇進が妥当かどうか
を審議する。協会の慰問機関として設けられた。
文句なく文句言われず恙無い 藤井孝作
【昭和32年3月17日】 〔横綱の一代年寄が復活〕
横綱の一代年寄が復活することになった。
「横綱一代年寄制度」は、横綱が引退した場合、本人一代に限り、現役時代
の四股名で年寄として認められるもので、第三十六代横綱・羽黒山まで認め
られていたが、その後、安芸ノ海以降の横綱は廃止となっていた。
横綱に期待されたがすぐカド番 太田省三
土俵下にはザックザク
【昭和35年9月17日】 〔給金の増額〕
日本相撲協会は、幕内および十両の報奨金と幕下以下の奨励金の支給額につ
いて理事会を開いた。従来の規定を全面的に改正する思い切った大幅な増額
にふみきった。
報奨金は、従来勝ち越し星2つまで1つにつき25銭、3つ以上は、1つ増す
ごとに50銭の増加を認めていたのを、勝ち星1つにつき50銭に決めた。
また準本場所での勝ち越し星に支給されていた25戦は削除された。
奨励金に関しても改正された。
従来幕下以下は勝ち星1つにつき、幕下170円、3段目100円、序二段
80円に、勝ち星についても値上げされる。なお改正した支給額は今の場所
から実施される。
昭和の幹に令和の歌を接ぎ木する 小川佳恵
旭 富 士
横綱の誰かに似ていますね。果たして誰に似ている?…答えは下に (´∀`)
【令和8年3月場所】 〔出世は早いぞ! スピード違反だぞ〕
「ピョ~ンといったんですけど、じっくり見てこられて恐怖でした。
強いです。ベネズエラ打線みたいでした」対戦した朝前進が語る。
大相撲春場所・11日目から、「史上最強の新弟子」と注目を集める西序二段
八枚目の旭富士 (23) が、序ノ口デビューから無傷の本割13連勝とした。
この日、元十両の東三段目七十五枚目の朝前進(高砂)と対戦した。
立ち合いで変化されたが慌てずつかまえて、難なく寄り切り、元関取を問題に
しなかった。
先代師匠の宮城野親方(旭富士)から「横綱の四股名を受け継いだ」期待通り、
連勝を伸ばしてみせた。今場所もこれで6連勝。
将来、どんな大物になるのか楽しみである。目が離せない。注目株一番です。
本名 バトツェツ・オチルサイハン モンゴル・ウランバ-トル出身
身長 187,0㎝ 体重 148,1㎏
(第55代横綱・北の湖は、昭和50年代の土俵に君臨した大横綱で、
その強さは、双葉山、大鵬をしのぐとも言われ、憎たらしいほど強い
「不沈艦」の異名を取った。似ていませんか!)
地方から旅立つ虹よ消えないで 森 茂俊