- 2026/02/01
- Category : ポエム&川柳
相撲の歴史~柳多留
むかし聞け秩父殿さへ相撲とり 松尾芭蕉
江戸両国回向院大相撲
江戸両国回向院大相撲
1.「〔すもう〕の語源」
「相撲」とは、争う、抗うといった格闘そのものを表す動詞である「すまふ」
の連用形「すまひ」が名詞化したものが語源です。
そのため古くは「すまひ」であり、中世後期には音が共通するために「相舞」
や「素舞」とも表記されました。
や「素舞」とも表記されました。
一方、現在の「相撲」は、力くらべや格闘を意味した漢語で、この意味を採
って「すまひ」の読みを充てたものです。また同様に「すもう」と読まれる
「角力」「角觝」は、力くらべ、力芸・技芸を競うことを指して格闘全般に
用いられた言葉でした。
うつくしき秋を名乘るや角力取 正岡子規
相撲の歴史~柳多留
野見宿禰と當麻 欠速対戦の図
「二千年前の天覧勝負」
西暦23年。弥生時代が終わって古墳時代に入り始めた頃で、邪馬台国が成立し、
卑弥呼の時代へと続く、原始・古代の過渡期にあたる。
「日本書紀」(720 年)に書かれている垂仁天皇7年7月7日に出雲の野見宿禰
(のみのすくね)と近江の當麻蹶速(たいまのけはや)「天覧勝負」の伝説が
あります。野見宿禰は、相手の脚を蹴り倒し、ついには命を奪ってしまったと
いいます。この荒々しい一戦が、記録に残る「最初の相撲対決といわれます」。
「バキッ!」という骨の砕ける音とともに、日本のスポーツ史に残る最初の
勝者が決まったのです。
年若く前歯折りたる角力哉 其村
「相撲節会(すまいのせちえ)」
「相撲節会」とは、奈良平安時代にかけて行われた天皇が宮中で相撲を観覧
する朝廷の年中行事です。
する朝廷の年中行事です。
天平6年(734)、聖武天皇が勅命を出し、。全国から相撲人を募り、宿禰・
蹶速の故事にちなんで、7月7日の「七夕祭り」の余興として観覧したのが、
史上で二度目の天覧相撲です。
この頃から「相撲節会」は、宮中行事として定着し、その後、源氏や平氏の
台頭で、政権が武士の手に渡ったことから、高倉天皇の承安4年(1174)を
最後に廃絶されます。
相撲節会は、現在と違い土俵はなく、行司もいませんでした。
勝負は相撲場の地面に相手を投げ倒すか、手や膝ひざをつかせることによっ
て決まります。又それ以前には、殴る、突く、蹴るという業がありましたが、
(まるでキックボクシングですね)
相撲節会では一斉に禁止され、現在の大相撲の原型となりました。
勝負は相撲場の地面に相手を投げ倒すか、手や膝ひざをつかせることによっ
て決まります。又それ以前には、殴る、突く、蹴るという業がありましたが、
(まるでキックボクシングですね)
相撲節会では一斉に禁止され、現在の大相撲の原型となりました。
五月雨は露か涙か不如帰 我が名をあげよ雲の上まで 義輝.
奈良・平安時代は神事、鎌倉・室町時代は武士の鍛錬として盛んになります。
貴族たちが見守る中、各地から集められた強者たちが対決したのです。
「あれは強いぞ!東国から来た力士だ」「いや西の者の方が技が冴えている」
と、観衆たちは、好き勝手な言葉で囃子立てました。
(安元2年(1176)12月、伊豆天城山の柏峠での狩猟の際に、河津三郎祐泰
(かわづさぶろうすけやす)と俣野五郎景久(またのごろうかげひさ)が相撲
を取ったときの河津の決まり手が「河津掛け」として今に伝わります。
脇向けて不二を見る也勝相撲 高井几董(きとう)
河 津 か け
「富嶽百景(葛飾北斎)」赤澤の不二での河津三郎祐安(河津祐泰、右)
による俣野五郎國久(俣野景久、左)への河津掛けの技が描かれる。
による俣野五郎國久(俣野景久、左)への河津掛けの技が描かれる。
鎌倉時代に入ると、武士の世となり「相撲は武芸」の一つとして重視される
ようになります。源頼朝は、家来たちに相撲を奨励し戦いの訓練としました。
ようになります。源頼朝は、家来たちに相撲を奨励し戦いの訓練としました。
「敵を投げ倒す技こそ、戦場で役立つ」と考えたのです。
土俵の上で鍛えられた技は、戦場で命を守る武器となりました。
「足取りをもっと素早く!相手の動きを読め!」と指南役の武士が叫びます。
若侍たちは汗を流しながら、相撲の技を磨いていきました。
彼らにとって、相撲は単なる遊びではなく、真剣な生死を分ける訓練だったの
です。
負まじき角力を寝ものがたり哉 与謝蕪村
織 田 信 長 上 覧 相 撲 催 す
室町・戦国時代に入ると、乱世にもかかわらず、織田信長は元亀元年(1570)
から天正9年(1581)までの間に、たびたび大規模な上覧相撲を催しています。
から天正9年(1581)までの間に、たびたび大規模な上覧相撲を催しています。
戦国武将らは、各地から力士を集めて、勝ち抜いた者を家臣として召し抱える
こともありました。
りゝしさは四つに組んだる角力哉 正岡子規
江戸時代なると、武芸という意味は消え、飢饉で苦しむ民衆を救うために始
まった「興行相撲」が、国技としての地位を確立していきます。
「皆の衆、今宵の相撲興行は、天下一の強者たちによる対決じゃ」
木遣り唄が流れる中、江戸の町に高々と掲げられた看板が人々を誘います。
木遣り唄が流れる中、江戸の町に高々と掲げられた看板が人々を誘います。
これが、享保年間(1716-1736)に始まる「勧進相撲」です
江戸も末期になると谷風、小野川、雷電らが登場、また相撲や力士を題材に
した錦絵の流行、将軍の上覧相撲などにより、相撲は黄金時代を迎え、歌舞
伎と並ぶ、庶民の娯楽へと確立されていきました。
(現在の大相撲のように、プロの力士たちによって行われ、それをお金を払
って観る、人々の娯楽の対象として興行が成り立つようになったのは、この
江戸時代に入ってからのことでした。
憎からぬたかぶり顔の相撲かな 飯田蛇笏
ペリー来る 瓦版に描かれた力士(横浜開港資料館蔵)
力士たちの最初の仕事は幕府からの贈り物米200俵(5斗俵)を船に積み込む
作業でした。1俵は約80㎏であるが、力士たちはそれを2俵3俵と担いで
運びました。幕内の巨人力士白真弓は、一度に8俵を運んでアメリカ人の度肝
を抜いたと伝わります。それが終わると、仮御殿の幕内で土俵入と稽古相撲を
観覧させたといいます。
運びました。幕内の巨人力士白真弓は、一度に8俵を運んでアメリカ人の度肝
を抜いたと伝わります。それが終わると、仮御殿の幕内で土俵入と稽古相撲を
観覧させたといいます。
170cm150kgでアンコ型ながら力持ちの小柳常吉
ここでepisodeを二つ ①「ペリー提督も驚いた」
幕末、ペリー一行に相撲を見せると、力士が米俵を軽々と運び、大関・小柳常
吉がアメリカ人水兵3人を投げ飛ばし、一行は驚嘆したとされます。
相撲に「馬力」という隠語がある一方、酒豪伝説には「イイトコ」(ほら話)
を駆使して場を楽しんだといいます。

酒豪揃いの力士たちの中でも雷伝為右衛門は破格の酒豪だった。
酒豪揃いの力士たちの中でも雷伝為右衛門は破格の酒豪だった。
episode② 「酒豪伝説(イイトコ)のひとつとして」
雷電為右衛門は「中国一の酒豪の珍先生」という学者と一斗ずつ飲みくらべを
しました。珍先生は一斗を飲み干したところで、倒れてしまい、雷電は学者を
かついで、高下駄姿で宿まで運んでやったそうです。さらに雷電は宿で一斗飲
を飲み、爪楊枝をくわえて、悠然と自宅へ帰っていったといいます。
『陣幕久五郎横綱土俵入り図』 (歌川国輝)
受けながら風の押す手を柳かな 陣幕久五郎
明治時代~大正へ、明治時代に入ると、力士たちはそれまで大名に抱えられ
ていましたが、廃藩置県によりその庇護を失い、自立をしなければいけなく
なるなど、相撲興行は衰退してしまいます。
ていましたが、廃藩置県によりその庇護を失い、自立をしなければいけなく
なるなど、相撲興行は衰退してしまいます。
その相撲界も、明治17年(1884)の明治天皇の芝延遼館(えんりょうかん)
における天覧相撲や、常陸山谷右衛門と好敵手の梅ヶ谷藤太郎の出現により、
再び黄金期を迎えます。
(明治42年(1909)6月には両国回向院境内の一角に相撲常設館が完成し
「国技館」と命名されました)。
(明治42年(1909)6月には両国回向院境内の一角に相撲常設館が完成し
「国技館」と命名されました)。
本場所の最優秀成績者に新聞社から写真額が贈られ、館内に掲額して個人優
勝を表彰するようになったのもこの頃です。
大正時代になると、不況や、関東大震災で国技館が炎上したこと等を要因とし
て、場所ごとに入場者は減少し、相撲界に大きな影響を与えます。
相撲部屋の稽古に響く木枯らし
昭和の力士100人 (表紙・双葉山から二代若乃花まで)
昭和~戦後では、相撲興行の不振が続きますが、興行日数15日制や、土俵の
大きさの拡大、制限時間制等々、現在へ続く制度が整えられ始めた時期でもあり、
栃錦vs若乃花、大鵬vs柏戸などの好敵手や双葉山や北の湖、千代の富士等の活躍
により再び人気をとり戻します。また興行日数15日制や、土俵の大きさの拡大、
制限時間制などなど、現在へ続く制度が整えられ始めた時期でもありました。
大きさの拡大、制限時間制等々、現在へ続く制度が整えられ始めた時期でもあり、
栃錦vs若乃花、大鵬vs柏戸などの好敵手や双葉山や北の湖、千代の富士等の活躍
により再び人気をとり戻します。また興行日数15日制や、土俵の大きさの拡大、
制限時間制などなど、現在へ続く制度が整えられ始めた時期でもありました。
相撲茶屋ちゃんこの香り春の風
屋 形 と 土 俵
「蘊蓄」
昭和5年3月場所まで、土俵上に座っていた勝負審判は、土俵下に移り、
5人制とした。また方屋柱に塩桶をくくりつけた。
さらに、昭和6年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円をなくし径4.55m
(15尺)の一重土俵に変更された。
俵の外側の蛇の目の砂は、元々二重土俵の俵の間に撒かれていたが、この時
より俵の外側に撒かれる様になったものである。
なぜ13尺(3m94㎝)土俵から15尺(4.55m)土俵になったかは、
当時の文献には全く書かれていない。男女ノ川、天竜、武蔵山、出羽ヶ嶽な
ど180㎝を優に超える大型力士が増え、あまり早く勝負が決まらないよう
にして、少しでも相撲を面白く見せるためであったという。
大関ト大関ト組ム角力カナ 正岡子規
二千年の歴史を誇る大相撲
令和の横綱・大関 琴櫻・豊昇龍・大の里・安青錦
戦後〜昭和では、 T V 等の普及で国民的人気を博します。
栃若時代(栃錦/若乃花)柏鵬時代(大鵬/柏戸)、北玉時代(北の富士/玉の海)、
輪湖時代(輪島/北の湖)など名勝負が続きました。
平成では、若貴ブームが、そして小錦、曙、武蔵丸らハワイ出身力士らの対決
も人気を後押しました。コロナでは相撲は一時無観客で行われましたが、白鵬
が人気低迷期を支え、史上最多優勝記録を樹立。モンゴル勢が席巻し、相撲は
「今や世界的なスポーツに」
令和(新星の登場)になると大の里など新世代の力士が最速で横綱昇進し、
8年の初場所で安青錦が驚異の快進撃で新たな人気を牽引。力士の体格やプレー
スタイルも多様化し相撲はいよいよ盛り上がっています。
8年の初場所で安青錦が驚異の快進撃で新たな人気を牽引。力士の体格やプレー
スタイルも多様化し相撲はいよいよ盛り上がっています。
初場所や髪まだ伸びぬ勝角力 水原秋櫻子
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