- 2026/03/15
- Category : ポエム&川柳
大相撲ー歴史画像とともに・天平~江戸幕末
相撲でもあればと思う父の背 保田邦子
七 夕 相 撲
【天平6年(734)7月7日】
七 夕 相 撲
【天平6年(734)7月7日】
秋七夕の日、聖武天皇相撲をご観覧。最古の「天覧相撲」である。
秋七夕のこの日、聖武天皇が相撲大会を催した。最近、天皇家や貴族の間に
相撲が浸透、ちょっとしたブームとなっているが聖武天皇もついに相撲の魅力
に取りつかれたようだ。相撲の賢覧絵巻の始まりを予感させる。
紫で真正面からやってくる 東川和子
紫で真正面からやってくる 東川和子
相 撲 節 会 の 図
相撲大会は、宮中紫宸殿の庭で行われれた。聖武天皇は終始ご満悦の表情だ。
実は、この企画を考えたのは聖武天皇ご自身だった。
垂仁天皇七月七日の野見宿禰と当麻蹴速の力比べの故事を知った聖武天皇は、
その話に興味津々、早速これを実行しようと動き出した。
垂仁天皇七月七日の野見宿禰と当麻蹴速の力比べの故事を知った聖武天皇は、
その話に興味津々、早速これを実行しようと動き出した。
勅令を出して、各地の農村から相撲人を集め、秋七月七日の七夕祭りの余興と
して相撲大会を催すことを計画。この日、ようやくその念願を叶えたわけだ。
聖武天皇は相撲にちょっとした縁がある。
しかるべき位置に満月置き直す 村山浩吉
今から九年前、天候不順のため全国的な凶作に見舞われたとき、聖武天皇は、
二十一社に勅使を派遣した。豊作を願って神の加護を祈念するためだ。
すると祈念が通じたのか、翌年は空前の大豊作。各社では、聖武天皇への感謝
を表すため、神前で「奉納相撲」を行なった。
しかるべき位置に満月置き直す 村山浩吉
今から九年前、天候不順のため全国的な凶作に見舞われたとき、聖武天皇は、
二十一社に勅使を派遣した。豊作を願って神の加護を祈念するためだ。
すると祈念が通じたのか、翌年は空前の大豊作。各社では、聖武天皇への感謝
を表すため、神前で「奉納相撲」を行なった。
この日、聖武天皇は、相撲を観戦しただけでなく、近江国の相撲の達人・志賀
清林に命じて相撲の規則を作らせた。かつての相撲は死人が出るほど荒々しい
ものだったが、新規則は、「足蹴り、殴り、こぶし突き」の三つを禁じ手とし、
より洗練されたものとなった。また、相撲が終わった夕刻、聖武天皇は南苑に
移動。文人に命じて七夕の詩をつくらせ、その出来に応じて禄を賜った。
武器要らぬ両手にペンと鍬がある 岡田 洋
大相撲ー歴史・天平~安土時代
清林に命じて相撲の規則を作らせた。かつての相撲は死人が出るほど荒々しい
ものだったが、新規則は、「足蹴り、殴り、こぶし突き」の三つを禁じ手とし、
より洗練されたものとなった。また、相撲が終わった夕刻、聖武天皇は南苑に
移動。文人に命じて七夕の詩をつくらせ、その出来に応じて禄を賜った。
武器要らぬ両手にペンと鍬がある 岡田 洋
大相撲ー歴史・天平~安土時代
【天安二年(858)】
文徳天皇の二人の息子、惟喬親王と惟仁親王の間で争われていた皇位継承問題
だが、ようやく決着がついた。文徳天皇にとって、皇位継承問題は長年の懸案
だった。惟喬親王か惟仁親王か。両者の争いにまで発展したものの、結局問題
解決にはならず、皇位継承権を相撲の勝敗で決することになり、この日「相撲
節会」が開催された。
必勝を期す惟喬親王は、紀ノ名虎(なとら)を代表として選び、勝負に挑んで
きた。34歳、身長はゆうに2メートルは超える巨人だ。一方の惟仁親王の代
表は、大伴善雄(よしお)21歳。力があると評判の男だが、名虎と比べると
あまりに小兵。勝負は始めから決まったよぅなものだった。
王様はおもろい人がなるんやで 高橋レニ
きた。34歳、身長はゆうに2メートルは超える巨人だ。一方の惟仁親王の代
表は、大伴善雄(よしお)21歳。力があると評判の男だが、名虎と比べると
あまりに小兵。勝負は始めから決まったよぅなものだった。
王様はおもろい人がなるんやで 高橋レニ
立ち合いから名虎が優勢に攻めた。積極果敢に大伴が仕掛けるものの筋肉隆々
で大木のような体の名虎は微動だにせず、終始優位に攻め立てる。だれもが、
名虎の勝利を信じたそのとき妙な声が響き渡った。惟仁側の祈り師として来て
名虎の勝利を信じたそのとき妙な声が響き渡った。惟仁側の祈り師として来て
いた延暦寺の恵亮和尚だ。
「大聖大威徳明王願わくば大伴に力を与付け給へ、勝つことを即時に得せ給へ」
と香を燃やしながら念を唱える。すると、そこに突然水牛が現れて大声で雄叫び。
と香を燃やしながら念を唱える。すると、そこに突然水牛が現れて大声で雄叫び。
その声に名虎は全身の力が抜け、茫然自失状態に。善雄はここぞとばかりに投げ
飛ばした。名虎は口から血を吐き起き上がることができない。
飛ばした。名虎は口から血を吐き起き上がることができない。
軍配は惟仁親王にあがり。次期天皇が決まった。
古墳からニコニコ笑う骨が出た くんじろう
古墳からニコニコ笑う骨が出た くんじろう
熊を投げ飛ばす金太郎
【脱線】 噂の真相
【脱線】 噂の真相
マサカリ担いだ金太郎だが、本当に実在したかどうかははなはだ疑わしい。
金太郎は、坂田金時と名乗り、源頼光の家来となって大江山へ鬼退治に行った
といわれる。しかし、頼光は、武士だったが、決して鬼退治に行くような人物
ではなかった。官人の仕事がほとんどで、生活の場は都である。
といわれる。しかし、頼光は、武士だったが、決して鬼退治に行くような人物
ではなかった。官人の仕事がほとんどで、生活の場は都である。
勇猛果敢とはほど遠い、こんな男に、熊と相撲を取ったという金太郎が、官庁
の仕事が務まるのだろうか…?。
一番風呂は熊に使って頂いた 酒井かがり
の仕事が務まるのだろうか…?。
一番風呂は熊に使って頂いた 酒井かがり
頼 朝 上 覧 相 撲
【文治5年(1189)】
鶴岡八幡宮が熱い…鶴岡八幡宮にて十番ーー舞楽やぶさめも行われる。
今年、将軍・源頼朝は鶴岡八幡宮で何度も「上覧相撲」を催した。
これはかつての「相撲節会」を模したもので、武士や相撲人を集め、相撲好き
の源頼朝が相撲を見物するというものだ。
これと同時に、競馬(くらべうま)や馬を走らせながら矢で的を射るやぶさめ
も行われ、鶴岡八幡宮は活気に満ちている。
今年、将軍・源頼朝は鶴岡八幡宮で何度も「上覧相撲」を催した。
これはかつての「相撲節会」を模したもので、武士や相撲人を集め、相撲好き
の源頼朝が相撲を見物するというものだ。
これと同時に、競馬(くらべうま)や馬を走らせながら矢で的を射るやぶさめ
も行われ、鶴岡八幡宮は活気に満ちている。
最初に祭礼が行われたのは正月のこと、源頼朝は元日に鶴岡八幡宮に詣でると
三日には「事始めの儀」を催した。
九日には、源頼家が八幡宮馬場にて弓始めを行ない、十人の射手が矢を放った。
三日には「事始めの儀」を催した。
九日には、源頼家が八幡宮馬場にて弓始めを行ない、十人の射手が矢を放った。
百年の歴史刻んできた柱 津田照子
鶴岡八幡宮・流鏑馬
こうして祭礼が徐々に高まるなか三月にも「上覧相撲」が行われた。
三月三日。この日はあいにくの雨模様だったが、祭礼は決行された。
雅楽が重厚な音色を奏でると、それに合わせて華麗なる舞が披露された。
「舞楽」だ。馬場では十五人の騎手たちがやぶさめを行ない、次々と四角い的
に矢が射られる。最後は頼朝が待ちに待った相撲。
この日は十番行われ、頼朝は上機嫌。
に矢が射られる。最後は頼朝が待ちに待った相撲。
この日は十番行われ、頼朝は上機嫌。
そして、最高の盛り上がりを見せたのが、四月三日だ。
「やぶさめ(競馬)」が行われ鶴岡八幡宮は大歓声。
そして相撲が十番。なかなかの熱戦に観客は釘付けだ。
「やぶさめ(競馬)」が行われ鶴岡八幡宮は大歓声。
そして相撲が十番。なかなかの熱戦に観客は釘付けだ。
またこの日、三島社でも祭礼が行われており、同じく相撲が十番組まれ、喝采
を浴びた。頼朝は今年だけでなく、今後も上覧相撲をつづけていく予定だとか。
を浴びた。頼朝は今年だけでなく、今後も上覧相撲をつづけていく予定だとか。
青い言葉を吐く黄色いくちばし 大久保眞澄
「上杉本 洛中洛外図屏風」(三条河原での相撲興行)
これは信長が謙信に送ったもの。部分・場所は鴨川が流れる三条大橋。
これは信長が謙信に送ったもの。部分・場所は鴨川が流れる三条大橋。
人だかりの中で力士が組み合っており、観客がそれを取り囲んで観戦している
様子が描かれている。
様子が描かれている。
信 長 上 覧 相 撲
【元亀元年(1570)~天正9年(1581)]】
織田信長の上覧相撲盛んに行われる。
相撲大好きの織田信長は、元亀元年から天正9年までも12年間に記録に残る
だけで10回以上「上覧相撲」を開催している。
派手好きの信長らしいエピソードがある。天正6年8月15日。信長は、何と
1500人もの力士を安土城に集め、午前8時から午後6時まで相撲を取らせたと
いう。また信長は、現代の土俵の原型(円形)や行司、弓取り式を考案したと
され、相撲の競技化・娯楽化に大きく関与したといわれる。
ここで好成績を収めた力士は、刀を与えられたり、家臣として召し抱えられた。
派手好きの信長らしいエピソードがある。天正6年8月15日。信長は、何と
1500人もの力士を安土城に集め、午前8時から午後6時まで相撲を取らせたと
いう。また信長は、現代の土俵の原型(円形)や行司、弓取り式を考案したと
され、相撲の競技化・娯楽化に大きく関与したといわれる。
ここで好成績を収めた力士は、刀を与えられたり、家臣として召し抱えられた。
あかんけど食べたら旨いアニキサス 中野六助

泣く子も黙る物言いー新選組と大坂力士が大げんか
【文久三年(1863)七月】
六角棒を振り上げる力士たち、刀で対抗する新選組の幹部たちー。
新選組と大坂力士たちの間で、壮絶な戦いが展開された。
きっかけは今月十五日夜、大坂鍋島岸付近を歩いていた沖田総司ら新選組の幹部
八人は、正面から歩いてきた四、五人の力士たちに「片寄れ!」などと命令。
八人は、正面から歩いてきた四、五人の力士たちに「片寄れ!」などと命令。
従わないと見るや、刀を振り上げて脅すなど、酔いにまかせて威張り散らし、
その後も何人かの力士に同じような行為を繰り返していた。
その後も何人かの力士に同じような行為を繰り返していた。
これに無頼派で知られる大坂力士たちが決起。
新選組が酒宴を催していた住吉楼という見世に、五、六十人の力士たちが六角棒
を持って襲撃した。だが刀を持つ浪人たちにはかなわず、死者五人、負傷者十六
人と惨敗。沖田総司らは額に傷を負った程度で圧勝した。
新選組が酒宴を催していた住吉楼という見世に、五、六十人の力士たちが六角棒
を持って襲撃した。だが刀を持つ浪人たちにはかなわず、死者五人、負傷者十六
人と惨敗。沖田総司らは額に傷を負った程度で圧勝した。
力士の大半は小野川部屋の者。年寄の小野川秀五郎は、早速新選組に出向き陳謝。
完敗した大坂力士だが「泣く子も黙る新選組に挑んだ」心意気はさすがだった。
喧嘩するだから人間面白い 塚北一徳
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