- 2026/02/15
- Category : ポエム&川柳
大相撲ー巨漢力士の巻
子を抱いて総身のすくむ相撲取り
釈迦ヶ嶽雲右衛門の桁外れの手形
生まれたての赤ちゃんなんてすぐに壊れてしまいそうで抱くのが
恐い。病院から帰ってきたばかりの赤ん坊が、あまりにも小さく、
あまりにも壊れそうで、どうしていいかわからず、しばらくじっ
と見つめていたものだ。
大相撲ー巨漢列伝、大きな相撲取りの中でも大きな相撲取り
等身大掛け軸 釈迦ヶ嶽雲右衛門 & 生月鯨太左衛門
「江戸時代」
江戸時代の巨人と言えば、まず、明和7年(1770)に江戸に登場
した釈迦ヶ嶽雲右衛門である。身長7尺1寸6分(約217㎝)。
実際に土俵で相撲を取り、それなりの勝ち星を挙げているので大
きくて強い力士であった。その後、釈迦ヶ嶽雲右衛門級の巨人では
文政年間(1818年頃)に肥後熊本から大空武左衛門が現れた。
大空武左衛門
大空武左衛門
大空は身長7尺5寸(227㎝)体重35貫500(約133㎏)という
体格で牛を跨いで通ったという伝説で「牛跨ぎ」というあだ名で呼
ばれた。錦絵にも描かれ江戸っ子の興味を煽ったが、しょせん相撲
を取る覚悟も力もなく、熊本藩候の遊び道具のようにあちこちに連
れ回され注目されることに終始して土俵に立つことは無かった。
(大空武左衛門肖像画 (クリーブランド美術館蔵)
渡邊崋山が等身大の肖像画を描いている。
その模写は早稲田大学図書館に所蔵されている。)
釈迦ヶ嶽二階から目へ差し薬
龍門好五郎
文政11年(1828)10月場所の番付に登場するのは伊予(愛媛県)
の出身・龍門好五郎。錦絵に描かれた時のサイズは身長7尺4寸分
(約225.7㎝)45貫(約168.7㎏)とある。
大坂相撲に登場して土俵入を行ったり相撲を取ったりしたようだ。
その評判を聞いて江戸の土俵に立たせようとしたが、実際には江戸
には来ず、大坂で亡くなってしまったらしい。
江戸の人々には錦絵だけの幻の巨人となってしまった。
ただ手形が残されており実在の巨人であったことは間違いない。
嬉しやと再び覚めて一眠り 徳川家康
生月鯨太左衛門
西張出前頭に古今随一の巨人生月鯨太左衛門が登場する。
『武江年表』には、「弘化元年(天保15)4月5日「肥前平戸産
大男生月鯨太左衛門といへる相撲取来る。身の丈七尺五寸、重さ
三十六貫、掌一尺八寸、今年十八歳、十八人力と云ふ」とある。
最初は相撲は取らず土俵入のみ行い、少しずつ慣らしてから余興
のように相撲も取るようになった。弘化3年(1846)11月場所、
幕尻で5日間だけ相撲を取って、幕下力士のみを相手に3勝2敗
の成績を挙げている。またそれに先立つ弘化2年大坂で行われた
興行で、10日目千秋楽に生月の五人抜きを行った。
その姿を描いた錦絵が残っているが、名もない下位の力士5人を
相手に相撲を取る姿が描かれている。
五人を相手にする生月鯨太左衛門
「エピソード」
江戸に来て色気づいたか、両国広小路の水茶屋の娘に懸想したが
桁外れの体格ゆえひじ鉄砲を喰らった。それが悔しいと同じ両国
の見世物小屋に出ていた一寸玉之助という小人の女性を女房にし
たという話がある。しかし、嘉永4年(1851)わずか24歳で病
没。生月鯨太左衛門は、よほど江戸で評判になったようで沢山の
浮世絵が描かれている。
春場所や相撲の熱気桜咲く
高見山大五郎
史上初の外国出身の力士として活躍し外人力士の門戸を開けた。
身長192㌢体重205㌔でその巨体と愛嬌のあるキャラクター
で親しまれ、現役時代は、「ジェシー」の愛称で呼ばれた。
外国人として幕内優勝をも達成し関脇まで昇りつめた。
相撲番組力士の名や梅雨明け
昭和・平成を代表する主な巨漢力士
左から、大関常陸岩、 新海、 横綱常ノ花、 出羽ケ嶽
張出大関大ノ里、 和歌島、 関脇玉錦
「昭和時代」
出羽ヶ嶽文治郎。身長205㌢、体重も200を超えた伝説的な
巨人。関脇昇進後は、大関昇進を期待されたが、足腰の負傷など
で平幕どころか三段目まで降格となる。小さな対戦相手に土俵に
転がされる姿は同情にも嘲笑の的にもなり、悲惨だった。
当時の実況アナウンサーは「大男、総身に知恵が回りかね。ただ
いま出羽ヶ嶽登場」と実況し「名調子」ともてはやされていた。
今では完全アウトなエピソードが残る。
相撲の街両国の夜蛍飛ぶ
大内山平吉の張り手一発で吹っ飛ぶ相手力士
大内山平吉。身長190㌢以上、四股名の「大内山」は、当時の
皇居を意味していたため、不敬罪にあたるため戦時中は本名の大
内で相撲を取った。戦後になって不敬罪が廃止されたこともあり、
昭和23年5月場所で十両昇進を果たすと念願の「大内山」を名
乗った。その後も25年1月場所で新入幕に。昭和30年3月場
所では横綱千代の山と対戦惜しくも負けるが待望の大関位をお獲
得した。ちなみに昭和天皇は、大内山の四股名を意識されていた
らしく戦後の力士の中では大内山がお気に入りだったと言われる。
引組んで猶分別や角力取 太祇
小錦八十吉
「平成時代」
小錦八十吉。現役時代は「ダンプトラック」の異名を持ち、当時
の歴代最高体重287㌔を記録。外国出身力士の大型化のパイオ
ニア。平成30年んには体重292.6㌔を記録し、大相撲史上
最も重い力士となった。山本山龍太が日本人力士として265㌔
という最大級の体重を記録したが、小錦には届いていない。
好調は躰に任せとる相撲 良一
曙太郎
曙太郎。外国出身初の横綱。身長203㌢、体重230㌔。曙の横
綱土俵入りは「四股の足がほとんど上がらず、この点で貴乃花と
比べて見劣りがする」などと何でもイチャモンをつけたがる人が
いたが、「四股は古来足を高く上げるものではなく、むしろ足を
高く上げ、土の付いた足の裏を客に見せるのは不浄であるとする」
とする従来の概念から一件落着となったエピソードが残る。
曙の礼儀正しさや謙虚な態度は「日本人以上に日本人らしい」と
評され、部屋や一門の別なく下位の若手に積極的に稽古をつける
第一人者としての責務を真面目に果たしたことなど、親方衆、力
士からの評価はとても高かった。
「礼儀正しさに感激しました。帰り際にもドアの前できちんとお
辞儀をし、いつも曙の悪口を言ってる私自身が恥ずかしくなる程
でした」と内館牧子さんも賞賛の意を述べている。
四つに組んで贔屓の多き角力かな 子規
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