川柳的逍遥 人の世の一家言
真新しい言葉を包み手漉き和紙 北原照子
『万載集著微来歴』(恋川春町画作 東京都立中央図書館蔵)
天明4年 (1784) 狂歌会の著名人を戯画化して平家物語の世界にはめこみ、 楽屋落ちに興じた作品である。天明狂歌の発想がそもそも極め戯作に近い
ものであったことが実感できる。画の場面は天明3年の狂歌会の様子。
江戸のニュース
老中・田沼意次は蝦夷地の資源開発とロシアとの貿易で経済的利益を得ること
を目指す。 明和八年 (1772) 、ロシア軍に捕らえられて、カムチャッカに流罪となったベニ
ョフスキーらが軍艦を奪って脱走。逃走中に阿波や奄美大島に上陸し「ロシア軍 が来年、蝦夷地へ襲来する」という情報をもたらした。これはフェイクニュース だったが、この話に触発された仙台藩の江戸詰藩医・工藤平助は「ロシアは交易 目的で蝦夷地に接近している。ロシアを警戒するとともに蝦夷地を幕府が経営し、 ロシアの求めに応じて貿易すれば、大きな利益を得ることができる」と記した 『赤蝦夷風雪考』を老中・田沼意次に献上した。 これに意次は喜び、なんとロシアとの交易を企図するようになった。
幕府は長年、オランダや清、朝鮮意外とは通商、通交を禁じていたので、外交
方針の大転換である。二百年余り続く鎖国政策を平然とぶち破り、ロシアとい う未知の通商をしようというのだから、意次は大胆な行動の持ち主である。 蝦夷地について意次はロシアに侵略されるまえに手中に治めようと考え、天明
五年 (1785) 最上徳内らに蝦夷地探検隊を組織させ、開発の可能性を探らせた。 (探検隊は「蝦夷地を開墾して耕地化すれば、五百八十万石以上の収穫を得る ことができる」と復命したが…。意次はこの翌年に失脚してしまう) 破る為障子があると孫が言う 下林正夫
吾妻曲狂歌文庫・唐衣橘洲 (からごろもきつしう)
世にたつハくるしかりけり腰屏風まがり なりにハ折かゞめども
(意味)
この世で生きていくことは難しい。まして出世をすることは苦しいことだ。
腰屏風のように、腰を折り屈めて、ぺこぺこお辞儀をしながら、どうにかこう
にか生きている。
蔦屋重三郎ー狂歌ブームを作った男・宿屋飯盛
宿 屋 飯 盛 大田南畝とともに、書物に関する教養を持った人物として、蔦重が頼りにした
のが狂歌師の宿屋飯盛である。狂名の由来は、実家が宿屋だったことから。 石川雅望(まさもち)という、列記とした名のある国学者である。
蔦重は、世の狂歌ファンに納得される出版物を刊行するには、狂歌に精通した
人間の知恵を借りる必要があった。この点で、蔦重より三つ年下で、大田南畝 に弟子入りして狂歌を学んでいた飯盛は、非常に好都合な人物だった。 彼は国学者としての知識を生かし、蔦重が狂歌集を刊行する際の「撰者」とし
て、力を発揮してくれる人材と見込んだのである。 『吾妻曲狂歌文庫』の歌①
宿屋飯盛 (やどやのめしもり)
などてかくわかれの足のおもたきや 首ハ自由にふりかへれども
鹿都部真顔(しかつべのまがお)
思ひきや十ふの菅ごも七ふぐり 女にまけてひとりねんとは
迷ったが一か八かで六にする 栗原信一
天明6年 (1786) 、飯盛が撰者となって出版したのが『吾妻曲狂歌文庫』という
狂歌絵本である。その当時、活躍していた狂歌師50人を、平安時代の王朝歌 人風に描き、それぞれの歌を添えて紹介した。肖像画を描いたのは北尾政演 (きたおまさのぶ)こと山東京伝である。 続いて、「百人一首に」に見立てて、江戸の狂歌師たちの歌を紹介したのが、
『古今狂歌袋』という狂歌絵本。ここでも山東京伝が挿絵を担当するが、格調 高い平安文学風の体裁に、いとも簡単に再現するところはまさに国学者、石川 雅望の本領発揮というところ。 やがて飯盛は同時代の、鹿都部真顔(しかつべのまがお)、銭屋金埒(ぜにや のきんらち)、頭光(かぶりのひかる)とともに「狂歌四天王」と称される。 『吾妻曲狂歌文庫』の歌② 手柄岡持 (てがらのおかもち)朋誠堂喜三二の狂名。
とし波のよするひたひのしハみより くるゝハいたくをしまれにけり
馬場金埒 (ばばきんらち)
我心あけてミせたき折々ハ 腹に穴ある島もなつかし
喝采がなくても光星月夜 平井美智子
しかし、飯盛が最も活躍できたのは、風刺や皮肉を盛り込んだ狂歌を、自由に
詠むことができた田沼時代で、松平定信の「寛政の改革」が始まると、世の中 を風刺した創作は規制され、狂歌師も作品を発表しづらくなってゆく。 飯盛の師匠・大田南畝は、田沼意次の家臣・土山宗次郎との関係、吉原での遊
興における疑惑、狂歌で定信を批判した疑いなどで、狂歌の世界から離れざるを 得なくなる。四天王の一人となっていた飯盛の立場は、どうなっていくのだろう。 それに定信からマークされている蔦重に近いことも気にかかる。 そしてついに寛政元年 (1791) 飯盛は、奉行所から呼び出しを受けた。
『吾妻曲狂歌文庫』の歌③ 紀定丸 (きのさだまる)(大田南畝(四方赤良の甥)
大井川の水よりまさる大晦日 丸はたかでもさすかこされす
図南女 (となぢよ)
蛤の珠とミがける月影に ミるめをそへて吸物にせん
まあいいか灰汁もわたしの味のうち 高橋はるか
呼出しの理由は、狂歌師としての活動ではなく、すでに彼が店主になって営ん
でいた小伝馬町の宿屋に関する訴えで、訴訟を抱えて江戸へ出てきた農民など を泊める宿屋への嫌疑であった。 「不当に滞在期間を延ばした、高い金銭を要求した」というのである。 結果「家財没収の上、江戸から追放」というものであった。 まったくべらぼうな話である。のちに飯盛は、自叙伝「とはずがたり」にこの 罪は濡れ衣だと訴えたが、幕府は聞く耳をもたない。持つわけがない。 幕府としては、人気のあるうるさい狂歌師を江戸から追放したかったのだから。 『吾妻曲狂歌文庫』の歌④
花道つらね (五代目市川団十郎。号白猿、俳名三升)
たのしみハ春の桜に秋の月 夫婦仲よく三度くふめし
酒上不埒 (さけうえのふらち) 恋川春町
もろともにふりぬるものハ書出しと くれ行としと我身なりけり
曇天を斜めによぎるトラクター 前中知栄
家業の宿屋を失い、狂歌も断念し、江戸の郊外で暮らすことになった飯盛を励
まし続けたのが蔦重であった。飯盛が江戸に戻れないまま、蔦重はその6年後 に世を去ってしまう。 その墓碑の文章を書いたのは飯盛である。 『為人志気英邁 不修細節 接人以信』
(意欲的で叡智に優れ、気配りができる、信用できる人物である)
「寛政の改革」の終わった文化9年 (1812) 飯盛は、狂歌の世界に復帰する。
それから18年、78歳で亡くなるまで作家活動を続けた。
『吾妻曲狂歌文庫』の歌⑤
頭光(つむりのひかる)
母の乳父のすねこそ恋しけれ ひとりでくらふ事のならねば
平秩東作(へづつとうさく)
辻番ハ下座のかた手のつくり松 日に十かへりもはひつはハせつ
生きとおすサボテンの刺の強さかな 服部文子
「べらぼう21話 あらすじちょいかみ」
松前道廣(えなりかずき) 鉄砲を構える松前道廣の標的は、桜の木に括りつけられた武家の妻 べらぼうはこの21話から『上知』『抜荷』という言葉がキーワード。 絵師・喜多川歌麿(染谷将太)と手掛けた錦絵が、売れなかった重三郎(横浜
流星)。さらに、市中の地本問屋・鶴屋(風間俊介)が手がけた、絵師・北尾 政演(古川雄大)著の青本が売れていると知り、老舗の本屋との力の差を感じ ていた。そんななか、勘定組頭・土山宗次郎(栁俊太郎)の花見の会に、大田 南畝(桐谷健太)が狂歌仲間を連れて現れ、重三郎は、変装した田沼意知(宮 沢氷魚)らしき男を見かける。 田沼意知は「花雲助」という狂名を使って、幕府勘定所組頭・土山宗次郎(栁
俊太郎)が開く狂歌の会に密かに参加。その会で松前藩で勘定奉行をしていた 湊源左衛門という武士と接触を図り、「抜荷を行う場所を示す絵図」なるもの があるという情報を得ての潜入である。 松前藩の抜荷の証拠を「花雲助」として掴もうとする田沼意知と、その抜荷の
事実を知っているかのそぶりを見せる「白天狗」こと一橋治済(生田斗真)の 不敵な沈黙が未来を暗示する。 沈黙もひとつの言葉おしずかに 高橋はるか
田沼意知吉原に遊ぶ 一方、老中・田沼意次(渡辺謙)は、幕府のため蝦夷地を召し上げたいと、将軍・
徳川家治(眞島秀和)に伝える…。彼の構想は、単なる政治的野望というよりは、 鎖国体制下で閉塞していた幕府の視野を広げる試みだった。 意次は、その延長線上に蝦夷地を「経済拠点」「資源基地」としての可能性と幕府
再生の策を深慮していたである。 ※ 上知(あげち)とは領地を召し上げて天領にすること
※ 抜荷(ぬけに)松前道廣が蝦夷地でオロシャと行う密貿易
正解は一つじゃないよ生きる道 前中一晃 PR 凹と凸互いに照らし合うている 中山おさむ
かくはかりめてたくミゆる世中を うらやましくやのそく月影 訳)このように目出度く見える世の中を月までが羨ましがっているじゃないか 〔目出度いって?、そんなことあるわけないじゃないか〕 一見 肯定しながら逆説的比喩で世を皮肉ったいる。 『万載狂歌集』
天明3年(1783)正月、須原屋伊八版、太田南畝が編んだ天明狂歌の出発点とも
言える画期的な狂歌撰集である。題名は『千載和歌集』のもじりで、構成等、
造本全体が勅撰集のパロディとなっている。本書の出現によって、マスメディ
ア上の隠れない文芸となり、爆発的流行現象を巻き起こした。 平秩東作 (へづつとうさく)
天明狂歌のきっかけの人物ともなった平秩東作、南畝の師でもある。 本名、立松東蒙 (たてまつとうもう〕江戸中期の儒学者・狂歌師・戯作者。
名は懐之。通称、稲毛屋金右衛門。著「当世阿多福仮面」など。
国を思い、国益のために頑張れば、人はそれを山師だという。
知恵のある者が、知恵のない者をそしるときには、バカとか、タワケとか、
アホとか、いろいろな言い方があるけど、知恵のない者が知恵のある者を そしるときはその言葉が使えないので、山師といった。 「風雅人の儀故、対面いたし候処、いつか山師に成候」 画中の句 鴫の姿は見えないが、西行の歌ゆえに目につく秋の夕暮れ 新しい風ミステリーゾーンから 井上恵津子
「江戸ニュース」 (明和四年)
大田南畝が『寝惚先生文集』を著し狂詩ブームがなる この年、大田南畝(名は覃〔ふかし〕、多くの号を持つが、後半生以降に用
いた蜀山人が最も有名)が、19歳の若さで狂詩集『寝惚先生文集』を著わ
し、狂詩が文芸の世界で大きなブームを呼ぶきっかけとなった。
大田南畝は、幕臣の子として生まれたが、早くから松崎観海や内山椿軒(ち
んけん)に漢学、和歌を学び、その才を発揮して神童と謳われた。
のち独学で和漢の故事典則にも通じ、手なぐさみがてら狂文狂詩を同じ椿軒
門下の平秩東作(へづつとうさく)に見せたところ絶賛。
これを版元の須原屋市兵衛が聞きつけ、須原屋の熱心な勧めもあって『寝惚
先生文集』として出版の運びとなったもの。
(この書の序文は平賀源内が書いている)
代掻きを持ってタガメのひと泳ぎ 前中知栄 蔦屋重三郎ー天明狂歌・太田南畝
大田南畝(四方赤良)(国立国会図書館蔵) 狂歌の第一人者として、「天明狂歌」のムーブメントを牽引したのが、太田
南畝(四方赤良)である。南畝は幕府御徒・太田正智の長男として牛込仲御
徒町で生まれた。若い頃から文才を発揮し、狂詩『寝惚先生文集』を19歳
で著したことは、前述のとおり。
以降、南畝は幕府に仕えるかたわら、四方赤良の名で狂歌を詠み、天明3年
(1783) 『千載和歌集』のパロディである狂歌集『万載狂歌集』を発表。
唐衣橘洲(からころもきっしゅう=田安家家臣・小島源之助)とともに狂歌
ブームに火をつけた。
信楽のタヌキが僕を呼んでいる 下林正夫
四方赤良・朱楽菅江
四方赤良
あなうなぎいつくの山のいもとせを さかれて後のちに身をこかすとハ
朱楽菅江
紅葉々ハ千しほ百しほしほしみて からにしきとや人のミるら
「唐衣橘洲・四方赤良・朱楽菅江などを中心として、狂歌の会が誕生」
狂歌とは、簡単に言えば和歌のパロディである。
雅文学の極みである和歌の形式、手法をなぞりつつ、そこに卑俗な要素を盛り
込むことによって生ずる落差興ずる戯れである。
この同好の士たちの集まりは、徐々に輪を広げていった。
太田南畝の社交の巧さ、人心を惹きつける力と明るい詠みぶりとで狂歌の集ま
りの中心的存在となる。
狂歌は、当座の読み捨てを原則としていて、マスメディアにのって彼らの文芸
が市中に出て行くことはなかった。
しかし、南畝は、狂詩や洒落本などにおいても、注目を浴びている人間であり、
また、「会」という通人の集いには世間の関心も厚く、この狂歌の会が脚光を 浴びて、江戸市中に赤良人気が沸き起こるのにさしたる時間は要しない。
極論すれば、この文芸活動は、「会」すなわち、狂歌をダシにして楽しく集う
ことに本質があった。詠まれた狂歌そのものには、第二義的な意義しかない。
極めて自由な発想で、様々な分野の才人が、この世界に取り込まれていくこと
になる。
言葉遊びに疲れなどないようだ 青木十九郎
才蔵集
『判取帳』 (米山堂版複製)
天明3年より、太田南畝が来訪者の染筆をこれの乞うた帳面。
蔦重は「才蔵集、吉原細見、新吉原大門口、四方先生板本、つたや重三郎、
狂名蔦のから丸」と、商売っ気が真正面に表れた署名をしている。 「蔦重との出会い」
天明元年 (1781) 、南畝が自著の黄表紙評判記で蔦屋刊の朋誠堂喜三二作・
『見徳一炊夢』を絶賛したことがきっかけだった。
御礼を伝えるため、蔦重が南畝宅を訪れて以後、たびたび吉原で宴会を催し、
親交を深めた。南畝は、蔦重の狂歌本にも積極的に協力した。
一方で蔦重もまた狂歌師として狂歌の世界に参入する。
狂名は「蔦唐丸」である。もちろん『万載狂歌集』の成功によって、俄かに、 江戸狂歌の流行が顕在化、爆発的な人気を博し始めた様子を睨んだ上での挙 である。 滝沢馬琴は、その著『近世物之本江戸作者部類』に於て、蔦唐丸の歌を代作
であるとするが、「そうでもあるまい。代作なら、もう少しマシであっても よい」はずである。 天明狂歌の本質は、詠まれた歌そのものにはおそらく備わっていない。
狂歌はその「本質」を全うするための口実で、その本質は狂歌をダシにして、
様々な思惑を持ち乍らも、人が何らかの形で集まり、遊び戯れることにある。 歌は下手くそでかまわない。
極端な話、狂歌を詠まずとも狂歌師たりうるのである。 狂歌師・蔦唐丸が、欲心満々の本屋重三郎そのものであっても、迎え入れる
側に不都合はなかった。 迷うまい心の通う友がいる 柴辻踈星
『吉原大通会』 (恋川春町画作 東京都立中央図書館蔵)
天明4年正月岩戸屋源八刊。絵は喜三二(俳名月成)をあてこんだ「すき成」
を主人公とし、彼のもとに、狂歌の名人10名が顔を揃える場面である。
みんなそれぞれ狂名等にこじつけた、妙な有り合わせの扮装をしているが、 後から登場した蔦唐丸(正面左下)だけは普通の恰好である。
「このメンバーで作品を仕上げてくれ」との依頼をしている。
唐丸が商売に余念のない「狂歌師」であったことをうかがっているのである。
前向きなデンデン虫の富士登山 永野こずみ
「狂歌師蔦唐丸は、狂歌壇にとって大いに重宝な男でもあった」
彼の役割は、狂歌師たちが狂歌師を演じる舞台、すなわち狂歌を詠み合う場の
お膳立てである。当然、そのような場で生産される作品は、ほとんど蔦重版に 直結する。『俳優風』や『夷歌百鬼夜狂』は、内容にその間のいきさつが、
うかがえる格好の資料である。
蔦重の役割としてさらに重要なのは、狂歌の遊びの場として出版物という舞台
を用意したことである。南畝が『満載狂歌集』において示した、出版をも取り
込んだ遊びという行き方を最も強力に推し進める役割を果たした蔦重は、世に
言う「天明狂歌」を作り上げた人間の一人として数えあげられなくては ならない。
左面・酒盛入道(左坊主頭)(その横)紀定丸、朱楽菅江(上段・黒い被り
物)加保茶元成(下段右)蔦唐丸(下段中央)
右面・元木網(中央上)四方赤良(中央上チャイナ服)手綱岡持(上段右)
大屋裏住腹唐秋人(下段中央)
来た道はいつも楽しく跳ねていた 武内幸子
「連」
狂歌師たちは、それぞれ中心的な人物のもとに集まり「連」と呼ばれる集団を
作った。唐衣橘洲を中心とする「四谷連」、朱楽菅江の「朱楽連」、宿屋飯盛
の「伯楽連」、鹿都部真顔の「スキヤ連」、加保茶元就の「吉原連」など、
当時は、さまざまな連が組織され、一種のサロンとなって文化芸能の交流が行 われたのである。
また、唐衣橘洲編『狂歌若葉集』や四方赤良編『万載狂歌集』など、相次いで
狂歌集・狂歌本が刊行されたことが、狂歌熱をさらに拡大させていく。
天明2年では、わずか4種に過ぎなかった狂歌関連書の出版点数は、翌年には
19種まで増大しており、狂歌人気の過熱ぶりがうかがえる。
こうした狂歌人気に参入し、さらにブームを演出したのが、蔦重であった。
朱楽菅江撰『故混馬鹿集』や四方赤良編『狂歌才蔵集』は、好評を博し、天明
狂歌五人選集に数えられるヒット作となった。
さらに狂歌師と絵師を組み合わせ、独自の絵入り狂歌本を刊行するなど、斬新
なアイデアを次々に繰り出していった。
1ページだけの絵本に月が出る 井上一筒
「べらぼう20話 あらすじちょいかみ」
大田南畝(桐谷健太) 江戸城では次期将軍をめぐる話が進んでいました。
田沼意次は、一橋家の豊千代を将軍に、田安家の種姫を御台所にと家治の意向
を伝えます。豊千代には、すでに薩摩の姫との縁談がありましたが、意次は、
「正室でなければ側室にすればよい」と提案し治済も了承。
しかし薩摩藩主・島津重豪は激怒。
側室では収まらないと強く抗議してきました。
これにより、田沼と島津、そして西の丸巻き込む大騒動に発展します。 ハシビロコウも感情を持つ恋をする 加藤ゆみ子
平秩東作(木村了) そのころ吉原では、蔦重が出版した『菊寿草』が評判をよび江戸中の評判を集
めていました。
批評家でもある戯作者、大田南畝(桐谷健太)作の「菊寿草」で、喜三二によ
る「見徳一炊夢(みるがとくいっすいのゆめ)」や、耕書堂が高く評価された
蔦重は、書物問屋の須原屋とともに、南畝の家を訪ねる。
そこで近頃人気が出ている狂歌を知った蔦重は、南畝から「狂歌の会」への誘
いを受けるのです。
今炎えよ今を生きろと曼殊沙華 宮原せつ 聖母にも娼婦にもなる両乳房 日下部敦世
『辞 闘 戦 新 根』 (恋川春町作・画)
『 辞闘戦新根(ことばたたかいあたらしいのね) 』 は黄表紙作家・恋川春町の 『 金々先生栄花夢 』に次ぐ大傑作で、江戸の庶民や下級武士の間で大ヒットした 絵本である。 お 仙 茶 屋 (鈴木晴信)
浮世絵師・鈴木春信は、お仙の錦絵を多数描き、これらの錦絵によりお仙の
存在がさらに多くの人々に知られるようになった。
またその有名になったお仙を描いて、春信が有名になった。
「江戸のニュース」 明和2年(1765)、笠森お仙、美人ナンバーワンとして脚光をあびる
「いずれがあやめ、かきつばた」と、双美人としてこの時期に有名なのは、
浅草境内の楊枝屋の娘・お藤と笠森稲荷前の茶屋の娘・お仙。
このお仙が、にわかに脚光を浴びたのがこの年。
お仙は、もともと田端村の百姓五兵衛の娘。双美とは言え、お藤は「脂粉にい
ろどる」といった妖艶な娘。それに比してお仙は、もと百姓の娘らしく素朴の 中に人を魅了する美しさを溢れさせて、街中では「お仙が断然に艶美」とする ものが多かった。それが、この年、数え歌に「八つ谷中のいろ娘」と唄われ、 人気が急上昇。錦絵の題材となり、一枚絵が出、やがて、市村座の芝居にまで 「笹森お仙」が採りあげられるようになって、数年後には江戸中の人気をさら った。笹森稲荷の参詣者は増える一方だったが、稲荷人社などそっちのけで、 お仙の居る茶屋に通い詰めるものが後を絶たなかった。 ところが、この人気絶頂の最中、お仙はあっさり、将軍家の御庭番・倉地甚左 衛門の養嗣子政之助の妻になり、江戸城桜田門内に住む身となってしまった。 茶屋の娘が正妻では具合が悪いと、西の丸御門番之頭・馬場善五兵衛の養女と の届け出をしての嫁入りだった。お仙は、政之助との間に男女合わせて十余人 もの子を生んで幸せな生涯を送ったが、お仙嫁入りのおかげですっかり客足が 途絶えた茶屋を、人々は、「笠森稲荷水茶屋のお仙、他に走りて跡に老父居る ゆえの戯言に、とんだ茶釜が薬缶に化けた」と、父親の禿げ頭をネタに囃し立 てて残念がった。 降って湧いた話を乗せる救急車 井上恵津子
「年が寄ても若い人だ」 (歌川国芳)
<遊び絵> 振り向いた若男。よーく見ると 、パーツ が十二支 の動物に。
「江戸時代にもあった流行語」 江戸の戯作文学のジャンルに黄表紙(草双紙)がある。
黄表紙は、当時、最先端の流行・風俗を取り入れている。
服装、髪形、ナウいスポット情報、遊女や芸人の動静、等々を逸早く作に取り
込もうと作者たちは、競うのである。 こうした中で面白い流行語が生まれてくる。 黄表紙は、簡単にいうと現在のマンガのようなもの。 当時、江戸の町に流行った流行語が、擬人化されて闘うという大変ユニークな ものが多い。登場する流行語はというと、「大木の切り口太いの根」「鯛の味 噌吸」「どらやき・さつま芋」「四方の赤」等々。 内容は、当時の庶民の流行り言葉が、化け物の姿で現れ、黄表紙の著者や製造
職人に悪さをするという異様な、天才しか思いつかない物がたりになる。 例えば『とんだ茶釜』とは、「息を呑んでしまうほどの美女をいい、笠守お仙
という実在した江戸随一の美女で、お茶屋にまつわる話」を黄表紙作家・恋川 春町が『辞闘戦新根』に書いている。 血色の良くなる話聞いている 竹内ゆみこ
お仙茶屋ーお仙目当に来てみたら (鈴木晴信画) 『評判に吊られて茶店に行ってみたら、お仙は、確かにとんでもない美人だと
分かったものの、あからさまに褒めるのは、さすがにはばかられたので、 つい目にした「茶釜をほめてしまった」、というお茶らけからはじまる』
「 大木の… は太い根」という言葉を引き出すための言葉遊びで、随分と太い
んだね、という意味」(こうした流行り言葉は、当時、「地口」と呼んだ) さて、ドラマべらぼう19話では、「鯛の味噌吸(たいのみそず)」「四方の赤
(よものあか)」という蔦屋重三郎(横浜流星)のセリフが出てきます。 目は皿に、耳はナマコにして、お見逃しなく。
妖怪になってしまった友がいる 西澤知子
『千代田之大奥 歌合』 (画:楊洲周延)
蔦屋重三郎ー大奥・お知保の方
「家治側室・お知保の方」
徳川十代将軍・家治は、祖父の吉宗から将来を期待され、直々に帝王学や武術
を仕込まれた。書画も得意とし、家治の描いた絵も現代まで伝わっているほか、 趣味の将棋もかなりの腕前だったとされている。 一方で、政治にはあまり積極的に関わらず、父・家重の遺言通りに田沼意次を
重用し、幕政は専ら家臣頼みだった。ある時、書道に卓越する家治の豪快な筆 づかいを見て、吉宗が洩らした言葉がある。 「天下をも志ろしめされむかたの 御挙動かくこそあらましけれ」
(天下を志す者は、こうでなければいけない)と褒めちぎった、という。
風騒ぐ幹のえくぼの何思う 通利一遍
家 治 肖 像
宝暦4年(1754)にその家治は、正室に五十宮を迎え婚礼の式を挙げた。 お相手は、東山天皇の孫、直仁親王の娘の五十宮倫子(いそのみやともこ)で
ある。家治と五十宮は、仲睦まじい夫婦で、宝暦6年には長女・千代姫が誕生。 千代姫は、わずか2歳で夭折したが、宝暦11年(1761)には、次女の万寿姫 が誕生している。 だが2人の仲は良かったものの、世継ぎとなる男子に恵まれなかった。
家治自身は、側室をもつことに消極的だったものの、将軍にお世継ぎがいない
ままでは「後継者問題でまた争いが起きてしまう」と、近臣たちは、しきりに
「側室を迎えて、子をつくるように」と迫った。
結局、家治は、田沼意次をはじめとする近臣の強い勧めで、渋々側室を迎える。
止まり木に隣り合わせてからの縁 村田 博
その側室のうちの一人が、お知保の方である。
寛延2年 (1749) に徳川家重の御次(雑用係)として仕えていた「お蔦」(後の
お知保)は、寛永4年(1751)1月18日には、御中臈に昇格した。 田沼意次の引きもあってお蔦は、宝暦11年(1761)8月5日、江戸城本丸大
奥へ移り、家治付きの御中臈となる。 同12年(1762)10月25日に長男・家基(竹千代)を出産したが、11月に、
家治の御台所・五十宮倫子が、その養母となったため、家基は倫子のもとで育 てられることとなった。 同月15日、お知保の方は、長子出産の功労から「老女上座」の格式を賜わる。
竹千代誕生からわずか2ヶ月後、家治のもう1人の側室お品の方が、貞次郎を
出産する。 浮雲にふと立ち止まるわが想い 靏田寿子
側室が、いずれも男子を出産したために、正室の五十宮の立場が悪くなったか、
といえば、そうではない。 家治は、五十宮を尊重し、変わらず妻として愛し続けたという。
その傍証に、家治は、竹千代と貞次郎の両方を、五十宮を養母として養育する
よう命じた。そのうえ出産後は、お知保の方のもとにも、お品の方のもとにも 通わなくなったという。 あくまでお世継ぎをという、家臣の言葉に従ったまで、と言わんばかりである。
貞次郎は、生後3ヶ月で夭折した。
一方の竹千代は、五十宮の養子となり、文武に優れた聡明な次期将軍として成
長していった。 深からず浅からずよし人と人 西田喜代志
明和6年(1769)に家基が、将軍世子として西の丸御殿へ移ると、お知保の方
は、それに随従して西の丸大奥へ移り、同月4日には格式が「浜女中(浜御殿 にいた先代将軍側室)」同様となる。 この2年後の明和8年、家治が寵愛した五十宮が世を去る。34歳だった。
五十宮の死後、御三家のひとつ、尾張徳川家への輿入れが予定されていた万寿
姫もまた、13歳で逝去してしまう。 家治の哀しみは、筆舌に尽くし難いものがあったことだろう。
そんな家治の哀しみとは別に、大奥では五十宮がいなくなったことで、家基の
生母であるお知保の方の、権力と存在感が一気に増したのだった。 神様は下さるそして取り上げる 居谷真理子
五十宮が死去して以降は「御部屋様」と称され、世子生母の扱いを受けたが、
家基は、安永8年(1779)に、18歳の若さで急死という凶運に見舞われた。
天明6年(1786)家治が逝去すると、落飾して「蓮光院」と称し、同年11
月3日に、江戸城二の丸へと居を移した。 寛政3年(1791)3月8日、55歳で死去する。
(文政11年(1828)に従三位を追贈された。御台所および将軍生母以外の
大奥の女性が叙位された珍しい例である) 網棚にポンと骨壺置いたまま 荻野浩子
老中・田沼意次
episode 「家治の養子選定を行った田沼意次」 子どもを悉く失った家治。このとき家治はまだ41歳。
十分に子どもができる年齢だったが、もはやその気力もなかったのだろう。
次期将軍候補として養子を迎えることを決意した。
家基の没後、次の世継を決める「御養君御用掛」に命じられたのが、若年寄の
酒井忠休、留守居の依田政次、そして、老中首座の田沼意次である。 自ずから老中の意次が中心となり、家治の養子の選定が行われることとなった。
実質的には、次の将軍を決めるという大役を担うことになった意次である。
天明元(1781)年4月15日に命じられて以来、意次は、江戸城から屋敷に帰
ると小座敷に籠もり、側近さえも遠ざけて、選定に頭を悩ませたいう。 そして、天明元年(1781)年閏5月27日、家治の養子については、御三卿の
一つである一橋家の徳川治済の子、豊千代に決まったと公表された。 この豊千代が、のちの十一代将軍・徳川家斉である。
跡継ぎ問題を解決させたことで、意次は、1万石の加増を受けて、4万7千石の
大名となっている。しかも次期将軍選びで主導権を握ったことで、その後の影響 力も確約されたようなもの。(この時は、まさか恩を売ったはずの家斉によって、 田沼派が一掃されるとは、夢にも思わなかったことだろう) 追いかけて追いかけて踏切の音 山口ろっぱ
険しい表情のお知保の方 「べらぼう19話 あらすじちょいかみ) 江戸城ではかつて将軍後継者として「西の丸様」であった徳川家基(奥智哉)の 生母・知保の方(高梨臨)が、毒をあおるという騒ぎが起こった。 しかし、その毒は、致死性の高いものではない。
知保の方は、毒を飲んでも死なないことを分かった上で「狂言」をしたのである。
老中・田沼意次(渡辺謙)が、将軍・家治(眞島秀和)のために差し出した、愛妾
鶴子のことを当てこすりたかったのだろう。 もし家治と鶴子の間に男子が出来れば、その男子が「西の丸様」となってしまう。
知保の方が毒をあおるという行為は、「将軍後継者の母」という地位を絶対に明け 渡したくないという意思表示でもあった。 翻訳は出来ないウボボイのこころ 合田留美子
家治は、知保の方が毒を飲む行為は、「狂言」であることがうすうす分かって
いた。しかし、自分の父親である九代将軍・家重は体が弱く、また自分の息子 たちも早逝しているため、鶴子との間に男子をもうけて、自分の血を継ぐ人間 に跡を継がせることにも消極的である。 家治から後継者問題を相談された老中・田沼意次は、最初は家治の考えに反対
するものの、家治の真意が徳川家内部の人間が、家基や松平武元(石坂浩二) のように殺害されないことであると知ると、家治の意向に従います。 そして家治の跡を継ぐ将軍後継者は、御三卿の一つで一橋家の一橋豊千代(のち
に十一代将軍・家斉)であるこという意見に大きく傾き始める。 カラスならカァで終りにする悩み 山下炊煙
「一方、町では」 黄表紙は、絵と文章を組み合わせた庶民向けの娯楽、洒落本は遊郭文化を題材
にした知識人向けの知的娯楽という違いがあります 江戸市中では、地本問屋たちが、日本橋にある鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)の
店に集まって、板木を買い取っていく。 座頭金による貸金や偽板作りによる奉行所からの処分で、鱗形屋は問屋の体裁
で本屋の商いを続けていくことはできない状態になっていたからだ。 その地本問屋たちの中でも、鶴屋喜右衛門(風間俊介)は、鱗形屋と組んで青
本を出版していた戯作者・恋川春町(岡山天音)の担当をすることになる。 そこに蔦重(横浜流星)が現れて、春町に作品を書いてほしいと頼むものの、
剣もほろろに追い返されてしまう。 湿っぽくなってしまった裏表紙 高浜広川
『辞闘戦新根』 (恋川春町作画) 恋川春町は、鶴屋で青本を書くとは決めたものの、鱗形屋と違って鶴屋喜右衛門 とはどうも相性が良くない様子。元の担当であった鱗形屋も、実は鶴屋ではなく 蔦重に春町の本の板元となってほしいと内心を明かす。 そこで蔦重は、新しい作品を書けずに困っている春町のために、『辞闘戦新根』
(ことばたたかいあたらしいのね)」のような、奇想天外な作品が生まれるよう 「案思(あんじ)」を考え始めた。 そして蔦重が、春町に案思を授けられるよう、歌麿(染谷将太)北尾政演(古川
雄大)・志水燕十など、蔦重を慕う人たちが家田屋跡の「耕書堂」に集まってく るのである。 ぼてぢゅうへ集う偏平足会議 井上一筒 神様の声をトサカで聴いている 井上恵津子
「歌麿にこれを描かせれば伸びるはず」
蔦重版の狂歌絵本は、歌麿の画技を得て、派手やかに開花する。
その華麗な筆致を十分に生かした印刷の技術と造本の贅沢さは、これら絵本の
名を出版史にとどめるに足るものにしている。
天明元年(1781)歌麿名で蔦重と初めて組んだのが「身貌大通神略縁起」。
歌麿が、それまでの「豊章」をやめ、はじめて「うた麿」を名のった黄表
紙である。そこに蔦重は、歌麿の才能を感じ取り、2人の深く長い関係が
生れた。「絵草子問屋蔦屋重三郎方に寓居す」(天明3年頃)とある。
その年の9月に蔦重は、吉原大門外五十間道から、江戸地本問屋の集中する
日本橋油町に進出した。移転以前か以後かは分らぬが、もはや青年とはいえ
ない歌麿を食客として遇したからには、並々ならぬ期待をそこに込めていた
ものであろう。
こっそりが長い長~い影になる 津田照子
蔦屋重三郎ー喜多川歌麿
身貌大通神略縁起 (みなりだいつうじんりゃくえんぎ)
刊記に「板元 蔦屋重三郎」、「画工 忍岡哥麿」とある。
作者の清水栄十は、歌麿の師・鳥山石燕と俳諧でつながり、これ以後、
哥麿と版元の蔦屋重三郎の関係がつづく。
喜 多 川 歌 麿 (細田榮之筆)
「歌麿が蔦重の宅に身を寄せて、下積み生活を送っていた頃」 早くから名声を博していた朋誠堂喜三二や太田南畝らと異なり、蔦重が自ら
発掘し、人気絵師として大成させたのが喜多川歌麿である。
本姓は北川、名を勇助といった。出生地(江戸・川崎・近江など諸説あり)や
出生日(生年は過去帳から逆算して宝暦3年か) については不詳である。
画技を鳥山石燕に学び、23歳の安永4年(1775)浄瑠璃本『四十八手恋諸訳』
(しじゅうはってこいのしょわけ)の挿絵で、デビューしたとされる。
今までのところ、これより遡る作品は発見されていない。
この時の画名は、豊章で異説もあるが素直に考えて、石燕の名の「豊房」から
豊の字を貰ったものだろう。以後、黄表紙や絵本番付、錦絵にも筆を執ってい
るが、画名は「北川豊章」もしくは「豊章」で一致している。
生きているただそれだけで満点だ 林 國夫
さて、巻頭にも述べたが、天明元年(1781)春に刊行された黄表紙『身貌大通神
略縁起』の挿絵を担当する。文章を書いたのは、御家人の鈴木庄之助、筆名を
志水燕十という侍で、その筆名からもわかるように鳥山石燕であった。
つまり、歌麿と燕十は兄弟弟子、同窓のよしみだったのである。巻頭に歌麿に
よる文章が載っていて、そこに「忍岡数町遊人うた麿」と録していることで、
これがすなわち画名・歌麿の初出ということになる。 この時、歌麿29歳。歌麿と燕十は、その後も、洒落本『山下珍作』『契情知
恵鑑』などで組んだほか、天明3年には、黄表紙『啌多雁取帳』(うそしっ
かりがんとりちょう)を刊行した。
作者の奈蒔野馬乎人(うそのばかひと)は、燕十の別号である。
腹の中見せぬが裸見せる仲 浦上恵子
「三保の松原道中」 (喜多川歌麿画)
駿河在住の酒楽斎滝(しゅらくさいたき)が狂歌師・四方赤良
(大田南畝)に入門したときの記念に刊行する。
「歌麿と狂歌」
鳥山石燕は、絵師であると同時に俳諧師でもあった。
歌麿も「石要」と名乗って俳諧の世界にも顔を出していたようだが、狂歌にも
強い関心をみせた。というより、安永から天明という時代は、狂歌文化が江戸
を覆った時代であり、江戸文化人の端くれとしても、参加せずにいられなかっ
たのだろう。
歌麿が一時「忍岡歌麿」と名乗っていたのも狂名であったのかもしれない。
そして、浮世絵師として、生きてゆく自信がついたものか「筆の綾丸」を使う
ようになり、吉原大文字屋の主人・村田屋市兵衛(狂名・加保茶元成〔かぼち
ゃもとなり〕)を中心とする吉原連に属して、『狂歌知足振』などにその狂歌
がとられたりもする。歌麿がこののち狂歌絵本に縦横の才を揮うための基礎が、
かくて造られたのであった。
どこまでも師匠は師匠なんですよ 中村幸彦
(1) 「画本虫撰」 (2) 「画本虫撰」 (日本浮世絵博物館蔵本) 天明8年(1788)正月刊。歌麿の写生の技量、彫板や摺刷の技術、造本の確かさ 豪華さ、とにより高い芸術性保持している。左の文は、蔦重が直接読者に題の
狂歌を募っているのである。
歌麿の描く虫の絵と、狂歌師による狂歌が組み合わさっています.。
歌麿の狂歌作品は、主に、絵本形式の「狂歌絵本」として知られる。
特に「画本虫撰」「百千鳥狂歌合」「潮干のつと」の三部作が有名。
「 潮 干 の つ と 」
貝をテーマにした狂歌絵本で、天明8年(1788)刊。朱楽菅江率いる八重垣連の
狂歌集。36種類の貝に、36人の狂歌師が狂歌を添えており、歌麿の繊細な
絵と、狂歌の組み合わせが魅力になっている.
「百 千 鳥」
寛政3年(1791)頃刊。鳥をテーマにした狂歌絵本。
30種類の鳥に、30人の狂歌師が狂歌を添えており、歌麿の色彩豊かな絵と、
狂歌の組み合わせが見た目にも楽しい。狂歌は奇々羅金鶏の撰であるが、この ぽっと出て派手に振舞う狂歌師の入銀は相当なものであった。
狂歌と錦絵
鳥とともに泣きつ笑ひつ口説く身を それぞと聞かぬ君がみみづく 市仲住(いちのなかずみ)
うそと呼ぶ鳥さへ夜は寝ぬるものを 止まり木のなき君のそらごと
笹葉鈴成(ささばのすずなり)
再生のサインかさぶたそっと剥ぐ 上坊幹子
歌麿の名を高めた狂歌本と絵本を融合した「狂歌絵本」の挿絵
天明6年(1786)正月刊。江戸名所を歌丸が描き、それに合わせた狂歌を廃した 「狂歌絵本」である。菅江によると序に「ここに津多唐丸江戸の名勝を図せし めて、これに好士の狂詠を乞う」と見え、蔦重主導の政策であることが分る。 江戸の名所や潮干狩りの貝殻、草花や虫など、狂歌のテーマに合わせて巧みに 挿絵を描き、卓越した画才を世に示した。
やがて、鳥居清長の美人画がブームになると、蔦重は歌麿とともに浮世絵市場
に参入する。
「豊章から歌麿へ」と改名した彼は、錦絵の方面では、どのような実績をあげ
たのだろうか。「忍岡花有所」「通世山下綿一」(かよわんせやましたのわた
のいち)などの一枚絵は、ちょうど改名直後の、天明2年ごろの作とみられる
が、その画風は、北尾重政風を出るものではない。
この二作、いずれも上野山下の「けころ」と呼ばれる安直な娼婦を描いたもの
で、のちの歌麿美人画の特質というものは現れていない。
そしてあくる天明3年は、鳥居清長が全盛期を迎えた年である。 プレッシャー鈍感力でやり過ごす 上坊幹子
「当世踊子揃 吉原雀」
「婦人相学十躰」に先行する歌麿の大首絵。
清長風風を脱し、歌麿風の女絵がようやく成立しつつある。
そこで清長が江戸名所をバックに八頭身美人を描いたのに対し、歌麿は女性の
上半身をクローズアップした「美人大首絵」で勝負に出た。
大首絵は全身像と異なり、背景はほとんど描けない。そうした制約の中、歌麿
は、表情の微妙な違いや手首の仕草、上半身の動きなどにより、女性の性格や
境遇まで描き出した。
「寛政三美人」
中央に芸者富本豊雛。左右にそれぞれ、両国の煎餅屋の娘高島おひさ、浅草の
水茶屋の難波屋おきた、歌麿の自信がかいまみえる作品。
人気の町娘を描いた「当時三美人」、吉原の名妓たちを活写した「当時全盛似
顔揃」「北国五色墨」などのヒット作を連発し、歌麿は、美人画の第一人者の
地位を確立する。しかし、40軒以上の版元からの注文を受けてこなすほど多 作(版画だけで2千6百以上)だったため、おのずと作品は様式化されてゆく。
偏屈なキウイのような褒め言葉 新家完司
「太閤五妻洛東遊観之図」
歌麿は、文化元年(1805) 5月、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした 寛政の改革が始まると、美人画も風紀を乱すものとして、たびたび、取締りの
対象となる。これが歌麿の運命を狂わせた。
寛政9年 (1796) 、最大の支援者であった版元の蔦屋重三郎が歿した後、その
画品はいちじるしく落ちてしまったという。 文化元年(1804)、豊臣秀吉が、美女たちに囲まれて花見に興じる「太閤五妻洛
東遊観之図」が幕府の禁令に触れ、歌麿は入牢三日、手鎖五十日の刑を受ける
のである。以後、歌麿の筆は衰え、2年後に世を去った。
憂うつな話に海苔が湿けている 銭谷まさひろ
『画図百鬼夜行』より河童(川太郎) 鳥山石燕、蓮池の茂みから現れ出でた河童を描く。
鳥山石燕(とりやませきえん)
「妖怪絵」などを得意としていた狩野派の町絵師
多くの弟子を育てたことでも有名で、蔦重と関係の深い恋川春町、喜多川歌麿、
志水燕十、栄松斎長喜などのほか、歌川派の祖・歌川豊春なども門人である。
志水燕十の『通俗画勢勇談』で絵を書いたり、喜多川歌麿の代表作・『画本虫
ゑらみ』に序文を寄せている。 年取れど躍動感は持ち続け 肥田正法
「一騎夜行」
唯一、妖怪を描いている絵には特に署名がない。
ため、その稚拙さから志水燕十が描いたものと推測されている。 志水燕十(しみずえんじゅう)
燕十は、蔦屋からいくつかの黄表紙を刊行した戯作者。
鳥山石燕に師事して絵も学んだ。
蔦屋でのデビュー 作は、56歳で書いた『身なり大通神略縁記』と考えられ
ていて、この挿絵を喜多川歌麿が担当した。
武士の出身で、幕府御家人の大田南畝と交流を持ち戯作者となったという。
ペンネームの由来は、家が清水町だったこと、石燕から一字もらった、入門し
たのが10歳だったこと。 柳亭馬琴の記録では、「他のことによりて罪を被りて終わるところ知らず」
とあることから、晩年に何らかの罪を犯して戯作から足を洗ったものと思わ
れる。
悪友はアンドロメダになりました 合田瑠美子
捨 吉(染谷将太) 「18話あらすじ ちょいかみ」 「青本」の作者を探していた蔦重(横浜流星)は、北川豊章(加藤虎ノ介)と
いう絵師が描いた数枚の絵を見比べるうちに、ある考えが浮かぶ。
早速、豊章を訪ねるが、長屋で出会ったのは、捨吉(染谷将太)と名乗る男だ
った。そんな中、蔦重は朋誠堂喜三二(尾美としのり)に、新作青本の執筆を
依頼する。女郎屋に連泊できる〔居続け〕という特別待遇を受けて、書き始め
た喜三二だったが、しばらくして、喜三二の筆が止まってしまう。
花巡り孤独の深さ分かち合う 靏田寿子
蔦重の妻 (橋本愛) 重三郎はようやく唐丸を見つけ出します。
今では捨吉と名乗り、吉原の裏で体を売る生活をしていました。
「この生活が気に入っている」と口では言う捨吉ですが、本当は生きる意味を
見失っていました。
捨吉は、夜鷹の母親に虐待されながら育ち、幼い頃から売られる生活を送って
いました。そんな彼に光をくれたのが妖怪絵師・鳥山石燕。
絵を描く喜びを知り、逃げ出そうとしますが、「お前は鬼の子だ」と罵られ、 ついにその手をふりほどいて逃げてしまいます。 この罪の意識がずっと唐丸を苦しめてきたのです。 「死にたかった」と語る捨吉に、重三郎は「生きろ。俺のために」と語りかけ
ます。駿河屋の協力を得て、捨吉に「勇助」という人別〈戸籍)を与え、過去
とは決別させます。 その上で、画号として「歌麿」を授けました。
「お前を一人前の絵師にしてやる」という重三郎のまっすぐな言葉に、捨吉は、
はじめて「生きたい」と思ったのです。
くるぶしのあたりに灯す常夜灯 笠嶋恵美子 老人は二度目の竜宮城へ行く くんじろう
草 双 紙 (赤本・青本・黒本・黄表紙)
赤本はその表紙が丹色(にいろ)であるところからそう呼ばれ、『桃太郎』 『舌切雀』といった童話からとったものや御伽草子などの絵本化、あるいは
一般によく知られた浄瑠璃を素材にしたもので、前者では、『鉢かづき姫』
後者では『頼光山入』などといった豪傑ものが多かった。
頼光山入(酒呑童子) 鉢かづき姫
「往来物」 往来物は主として「手習い」にしようされる。いわば当時の教科書である。
幼童向けの実用書という割り付で、地本屋が扱う商品なのである。
蔦重は安永9年(1780)より往来物の出版を手掛け、寛政期前半まで、毎年の
ように新版を刊行し続ける。
往来物は相対的に価格が安く設定されているので、一冊当たりの利は薄いものの、
長く摺りを重ねられ、売れ行きの安定した商品である。 一見華々しい、浮世絵や草双紙といった地本屋の商売物は、あくまでも、消耗品的
使い捨てられる一過性のものであるが、これは長期に亙って経営の安定に寄与でき るものである。 蔦重は、一方でこのような、経営基盤の強化をはかりながら、極力リスクを負わな
い形の出版活動を地道に展開していく。 親から子から孫へと読む絵本 川畑まゆみ
蔦重の次の一手は赤本から
蔦屋重三郎ー地本問屋 「江戸名所図絵」 (都立中央図書館蔵)
鶴屋喜右衛門の店舗、贈答用の本を求める客達に混じり、左隅に地方発送の
本商いや貸本屋の姿が見える。
江戸の本屋商売といえば、「物の本」の刊行は、須原屋一統に独占的におさえ
られていた故に、多くは上方の書物問屋に隷属した形でなければ、商売は成り
難く上方からの「下り本」の売捌元となるのがせいぜいであった。
たとえば、浮世草子や八文字屋本といった、当時、かなり多数の読者を確保し
ていた売捌元の地位に甘んじていた。
新たに江戸根生い(出身)の資本家が、本屋仲間に参入して成功することは難
しかったのである。
背番号のような臍の緒のような 井上恵津子
赤 本 黄 表 紙 赤本は、表紙が赤いのでそのように呼ばれていた。 草双紙は、時代が下るにつれて、黒本・青本・黄表紙と呼び名が変わり、
江戸後期には、数冊を合本にした「合巻」として登場する。
やがてそうした環境から独立して、江戸の出版界をリードしていったのが、須
原屋と同じく万治年間 (1658-1661)に開業されたとされる鱗形屋で、仮名草子
や師宣の絵本類はもとより、浄瑠璃本なども手がけていた。
鱗形屋は八文字屋本の江戸売捌元となって家業はいよいよ盛んになり、何より
江戸独自の草双紙類、つまり赤本・黒本・青本からやがて黄表紙時代を告げる
恋川春町の『金々先生栄花夢』を出して江戸版元の主導権役割を果たした。
(しかし、番頭が今日でいう著作権問題を起こし、天明年間(1781-1789)に家運は
衰微、没落後は、その孫兵衛の次男が同じ江戸の地本問屋、西村与八の養子と なって、西村屋の隆盛を招くといった皮肉な巡り合わせとなった)
みんな夢でした黄昏観覧車 加納美津子
鶴屋喜右衛門(仙鶴堂)
喜右衛門は書物・地本・暦や往来物だけでなく草双紙や浮世絵を多く手がけ、
江戸出版界の中核を担った老舗の版元。
柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』で名が全国的に広まった。
その鱗形屋より版権を譲渡され、鱗形屋に取って代わるように出版界をリード
したのが蔦屋重三郎であった。
蔦屋はまた、山本九左衛門の最後の当主浮世絵師・富川吟雪より店をすっかり
譲り受け、鶴屋喜右衛門と並んで、江戸戯作の出版界におけるバックボーン的
役割を果たした。
一方、鶴屋喜右衛門は、はじめ京都鶴屋の江戸出店だったようだが、独立した
初代喜右衛門時代に逸早く草双紙出版に手を染めて成功し、書物問屋兼地本問
屋として中心的な活躍をする。
初代没後も二代目の才覚によって家運上昇は続き、老舗として蔦屋と並立する
版元として確たる地位を固め、五代目まで出版書肆としての活動は続いた。
グーだけを出し続けたら勝ちました 広瀬勝博
これら地本問屋に続く新興地本問屋は蔦屋と西村屋に代表されるが、その他に
浄瑠璃本の版元から草双紙まで広く手がけた西宮新六、寛政半ば頃に没落する
ものの草双紙界では、多色刷りの絵題箋を工夫するなど、独自な活動をした伊
勢屋治助、そしてこれも浄瑠璃本から草双紙まで幅広い刊行で幕末まで家業を
続けた伊勢屋勘右エ門等がいる。こうした新興地本問屋のほとんどは、「浮世
絵」の版行により財政的基盤を築いた。
人生は花遅咲きも早咲きも 津田照子
「 し た き れ 雀 」
宴がたけなわになると、いま江戸で大はやりの、正調「雀踊り」が披露された。
「♪ありゃサ、こりゃサ、わたしで、セ、よいよい!」「おいらで、セ、よい
よい! ありゃサ、よいよい!」と、なんとも賑やかなお座敷で、お爺さん親
子もすっかり満足の様子である。
地本問屋が最も積極的に版行したのが「草双紙」と呼ばれるジャンルであり、
また江戸の地で独自な成長を遂げたこの草双紙が広範な読者層を獲得したゆえ
に地本問屋も成長し得たのである。
草双紙の始まりである赤本時代は、寛文未年頃からで、中本という書型や五丁
を一巻一冊とする形式が定まったのは、享保のころとされる。
赤本は、その表紙が丹色であるところからそう呼ばれ、題材を『花咲じじい』
や『桃太郎』『舌切り雀』といった童話からとったものや、御伽草子などの絵
本化、あるいは、一般によく知られた浄瑠璃を素材にしたもので、前者では、
『鉢かづき姫』、後者では『頼光山入』などといった豪傑物が多かった。
こうした常識的な作柄で、素朴な絵と簡単な会話からなる赤本は作者に特別な
人材を求める必要もなく、近藤清春や西村重長、羽川珍重、そして鳥居清倍
(きよます)等の鳥居派の浮世絵師が作者も兼ねて描き、読者はほとんど幼童
に限られていた。
黄 表 紙
誘い合わせてちょいと吉原へ
赤本時代に続くのは黒本の時代とされ、黒本とは、表紙が黒色であることから
呼称されているが、歌舞伎などの絵尽くしに倣って黒色表紙にしたと考えられ
ている。その後に、萌黄色表紙の青本時代が到来、出版の流行は赤本→黒本→
青本と変遷した。
それと相まって内容も、絵組み、筋ともに演劇物や戦記・敵討物が主流の黒本
に対し、青本では、内容もやや成人向きで、当世の社会風俗などを取り込んだ
絵入りの読み物へと成長しているかにみえる。
しかし、そもそも草双紙は、新春正月向けの贈答用の子供向け読物であった。
しかし黒色表紙では、地味でその用向き不釣り合いであること、現在黒色表紙
で伝存される多くが後刷本(再販本)であることなどから、赤本を受けて出さ
れた草双紙の体裁は、黒本ではなく、萌黄色の青本であった。
青本の後を受けた黄表紙時代は、作者たちにも地殻変動があり、それをもって
今日の文学史では、黄表紙時代を特に区分している。
ただし、その本の体裁は旧態然としたもので、表紙は萌黄色、作者たちも暫く
は「青本」と呼んでいた。
鬼も福も皆んな一緒におでん鍋 石田すがこ
「べらぼう17話 ちょいかみ」
織田新之助 うつせみ 蔦重(横浜流星)は青本など10冊もの新作を一挙に刊行し、耕書堂は行列が
できるほどの大人気。これは戯作者・浄瑠璃作家でもある烏亭焉馬(柳亭左龍)
の『碁太平記白石噺』という芝居に、蔦重(横浜流星)をモデルとした「本重」 なる貸本屋「耕書堂」の名を出してもらった効果であった。
お陰で蔦重ブームが巻き起こり、蔦重目当ての吉原客も増えました。
耕書堂の人気が面白くない地本問屋たちは、彫師たちに「耕書堂と組んだら
注文しない」と圧をかけてきます。
それを聞いた蔦重が思案していると、声をかけてきた者がいます。
うつせみ(小野花梨)との足抜けに成功した小田新之助(井之脇 海)です。
三年ぶりの再会。聞けば源内(安田顕)のツテで百姓をしているという新之助
は、うつせみのことを「おふく」と呼んでいました。
本を買いに寄った新之助の荷物から「往来物」と呼ばれる子どもが読み書きを
覚えるための手習い本が出てきます。
往来物は、一度板を作ればずっと使え、長期にわたって安定した利益が見込め
るというメリットがあります。
蔦重は、「学がないと商人や役人に騙される」と話す新之助の言葉に、
「書を以て世を耕すんだ」と言った源内の言葉が脳裡をかすめます。
結論は早く蔦重は、駿河屋の2階の座敷で、吉原の主人たちに「往来物を作り
たい」と申し出ます。そこで町役となったりつ(安達祐実)の賛同を得て、
主人たちは次々に豪農や豪商、手習いの師匠たちを紹介してくれました。
良いことがありそう桔梗ひらく音 宮原せつ
腕は確かだがお調子者でべらぼうな彫師・四五六
地本問屋は、腕利きの彫師・四五六に注文を断られています。
四五六は、耕書堂と毎年20両のサブスク契約(定期購読)を結んだと言うの
です。
百種類以上の往来物が、年20両払っても損はしない商売だと知った地本問屋
たちは、江戸の市中に出回らせないよう邪魔すればいいと企てます。
ついに往来物『新撰耕作往来千秋楽』『大栄商売往来』などが完成。
蔦重は取材した豪農や豪商たちに見てもらった。
感激する面々は、みなまとめ買いをしてくれました。
蔦重が豪農や豪商、手習いの師匠たちに取材したのは、「商品に関わらせる」
のが目的でした。
関わった本というのは、自慢したいし、勧めたくなるもの。
人を巻き込み道を切り拓いていく蔦重は、こうして江戸市中の本屋に縛られな
い販路を開拓していきます。
無意識に行く喝采のあるところ 柴田比呂志
唐 丸 蔦重が、新たな販路について考えを巡らせるなか、地本問屋たちは、耕書堂の
往来物が田舎には売れているが、市中にはさほど広がっていないと噂していま
した。
そこへ日本橋通油町の丸屋小兵衛が汗だくで飛んでくる。
「もってかれました!…うちの上得意だった手習いの師匠たちをごっそり、
なんでもこれからは、師匠仲間の作ったもんを使いたいって話で…」
鶴屋(風間俊介)は、耕書堂に作家や絵師が流れないよう指示をしました。
蔦重が青本を読み、一緒に仕事をする人を探していると、ふと「北川豊章」の
名が目に留まります。
その画風の変化は、まさか…。ある思いが沸きあがります。
かつて礒田湖龍斎(鉄拳)の模写を手掛けた唐丸ではないのか…!
再生のサインかさぶたそっと剥ぐ 上坊幹子 |
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茶助
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