ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
[
388
] [
387
] [
389
] [
385
] [
384
] [317] [
383
] [
382
] [
381
] [
380
] [
379
]
ハンサム・ウーマン
一枚のコピーで人を売り渡す 森中惠美子
襄密出国時の姿
(画面をクリックすると拡大されます)
「ハンサム・ウーマン」
新島八重
のニックネームとして
「ハンサム・ウーマン」
が
定着しつつあるが、
八重のことを最初にハンサムと称したのは、
実は二番目の夫となった
新島襄
だ。
襄は恩人に宛てた手紙の中で、
結婚を報告するにあたり、八重について、
「彼女は決して美人ではない。
しかし、生き方がハンサムなのだ」
と書いている。
よく弾む毬をときどき持て余す 山崎美千代
23歳頃の襄
京都の名門・同志社大学
(同志社英学校)
を設立した
襄
だが、
八重
と同様に、もとは京都の人ではない。
安中藩
(群馬県安中市)
出身の祐筆
(秘書)
の家に生まれ、
し め た
幼名を
七五三太
といった。
彼もまた江戸で蘭学を学んで海外に興味を持ち、
『ロビンソン・クルーソー』
の日本語訳版を読んで、
挑戦心にかられ、アメリカへの密航を決意。
歯車が合って明日が動き出す 寺島洋子
襄は幕末の元治元年7月、箱館からアメリカに密航した。
その際に乗船したワイルド・ローヴァー号の
船主・
ハーディー
夫妻の援助を受けて進学し、
明治3年にはアーモスト大学を、
さらに明治7年には、アンドーヴァー神学校を卒業。
同時にキリスト教の洗礼も受けた。
この経験を通して襄は、
「欧米文明の基礎は、国民教化にある」
との確信を抱くようになる。
襄の名前が生れたのは、密航の船上で、
「ジョー」と呼ばれていたことから改名したものである。
少しづつ動くわたしの座標軸 たむらあきこ
襄がアーモスト大学時代に学んだノート
その後、正式な日本の留学生として認可され、
岩倉具視
の使節団が訪米した際には、
語学力を買われて通訳として同行している。
帰国を果たし、教育者としての道を進みだした襄は、
キリスト教の伝道と近代学問を教える学校の設立を目指す。
その際に紹介されたの
が山本覚馬
で、
宣教師・
ゴードン
の家で、八重は襄と初めて会う。
花束の語尾にかすかな静電気 美馬りゅうこ
襄はこの頃、自身の結婚観について、
「亭主が東を向けと言えば、
3年でも東を向いている東洋風の婦人はごめんだ」
と。
西洋文化の中で成長した襄にとっては、
つつましい日本女性よりも
自己主張の強い西洋的な女性を理想としていたのだ。
それを知った京都府知事の
槇村正直
が、
うってつけの女性として、
彼に改めて紹介したのが八重だった。
水色の耳垢だけが取れました 井上一筒
襄と八重の初めての出会いはゴードン家の玄関
ゴードン家で靴を磨いていた襄を八重はゴードンの書生と勘違いする。
正直は、
「女紅場
(女学校)
の補助金を増額しろ」
とたびたび八重に押しかけられ、
その自己主張の強さにほとほと手を焼いていたのだ。
逆立ちが出来なくなった太郎さん 大森一甲
襄が八重と結婚を決意したのは、
ある暑い夏の日に知人の家で再会した時のこと。
八重は、井戸の上に渡した板の上に腰かけて、
裁縫をしていた。
板が折れてしまえば大ケガは避けられない。
その大胆な振る舞いに襄は感心し、八重と婚約。
八重もキリスト教に入信し、
同志社英学校設立の翌年に二人は夫婦となる。
夫婦仲は大変によかったという。
それは、レディーファーストが当たり前の西洋文化を、
身に付けていた襄自身が妻に望んだことなのだ。
狙いますあなたのハート鷲摑み 藤内弥年
[4回]
PR
y2013/08/31 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
<<
「会津の女」⑤-高木時尾
HOME
斉藤一
>>
Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ
[PR]
カウンター
1日1回、応援のクリックをお願いします♪
最新記事
式部ー藤壺・花陽炎-①
(11/21)
式部ーどうにもとっまらない-賢子
(11/14)
式部ーどうにもとまらない賢子
(11/07)
式部ー賢子--跳んで弾けてとまらない
(10/31)
式部ー恋の手立ては手紙から
(10/24)
リンク
管理画面
新しい記事を書く
メールログイン
カテゴリー
演劇・映画 ( 8 )
ポエム&川柳 ( 1091 )
アルバム(風景) ( 2 )
アルバム(催事) ( 2 )
アルバム(動物) ( 0 )
雑学 ( 43 )
名言・辞世の句 ( 0 )
未選択 ( 0 )
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開