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川柳的逍遥 人の世の一家言
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一枚のコピーで人を売り渡す  森中惠美子

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 襄密出国時の姿 (画面をクリックすると拡大されます)

「ハンサム・ウーマン」

新島八重のニックネームとして「ハンサム・ウーマン」

定着しつつあるが、

八重のことを最初にハンサムと称したのは、

実は二番目の夫となった新島襄だ。

襄は恩人に宛てた手紙の中で、

結婚を報告するにあたり、八重について、

「彼女は決して美人ではない。

  しかし、生き方がハンサムなのだ」


と書いている。

よく弾む毬をときどき持て余す  山崎美千代

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  23歳頃の襄

京都の名門・同志社大学(同志社英学校)を設立しただが、

八重と同様に、もとは京都の人ではない。

安中藩(群馬県安中市)出身の祐筆(秘書)の家に生まれ、
         し め た
幼名を七五三太といった。

彼もまた江戸で蘭学を学んで海外に興味を持ち、

『ロビンソン・クルーソー』の日本語訳版を読んで、

挑戦心にかられ、アメリカへの密航を決意。

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歯車が合って明日が動き出す  寺島洋子

襄は幕末の元治元年7月、箱館からアメリカに密航した。

その際に乗船したワイルド・ローヴァー号の

船主・ハーディー夫妻の援助を受けて進学し、

明治3年にはアーモスト大学を、

さらに明治7年には、アンドーヴァー神学校を卒業。


同時にキリスト教の洗礼も受けた。

この経験を通して襄は、

「欧米文明の基礎は、国民教化にある」


との確信を抱くようになる。

襄の名前が生れたのは、密航の船上で、

「ジョー」と呼ばれていたことから改名したものである。

少しづつ動くわたしの座標軸  たむらあきこ

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     襄がアーモスト大学時代に学んだノート

その後、正式な日本の留学生として認可され、

岩倉具視の使節団が訪米した際には、

語学力を買われて通訳として同行している。

帰国を果たし、教育者としての道を進みだした襄は、

キリスト教の伝道と近代学問を教える学校の設立を目指す。

その際に紹介されたのが山本覚馬で、

宣教師・ゴードンの家で、八重は襄と初めて会う。

花束の語尾にかすかな静電気  美馬りゅうこ

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襄はこの頃、自身の結婚観について、

「亭主が東を向けと言えば、

  3年でも東を向いている東洋風の婦人はごめんだ」
と。

西洋文化の中で成長した襄にとっては、

つつましい日本女性よりも

自己主張の強い西洋的な女性を理想としていたのだ。

それを知った京都府知事の槇村正直が、

うってつけの女性として、

彼に改めて紹介したのが八重だった。

水色の耳垢だけが取れました  井上一筒

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襄と八重の初めての出会いはゴードン家の玄関

ゴードン家で靴を磨いていた襄を八重はゴードンの書生と勘違いする。

正直は、「女紅場(女学校)の補助金を増額しろ」

とたびたび八重に押しかけられ、

その自己主張の強さにほとほと手を焼いていたのだ。

逆立ちが出来なくなった太郎さん  大森一甲

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襄が八重と結婚を決意したのは、

ある暑い夏の日に知人の家で再会した時のこと。

八重は、井戸の上に渡した板の上に腰かけて、

裁縫をしていた。

板が折れてしまえば大ケガは避けられない。

その大胆な振る舞いに襄は感心し、八重と婚約。

八重もキリスト教に入信し、

同志社英学校設立の翌年に二人は夫婦となる。

夫婦仲は大変によかったという。

それは、レディーファーストが当たり前の西洋文化を、

身に付けていた襄自身が妻に望んだことなのだ。

狙いますあなたのハート鷲摑み  藤内弥年

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